いよいよラグビートップリーグが開幕した。
リーグ戦は週1試合のペースとはいえ、9月頭から1月頭まで4ヵ月間の長丁場。
さらにリーグ戦終了後もプレーオフに日本選手権と、2月の終わりまで続くのだから、上位チームは6ヵ月間続くわけだ。
9月のまだまだ暑い時期、しかも今年は残暑どころか真夏のような猛暑が続いているので、選手たちは大変だろう。
昔はラグビーと言えばウィンタースポーツのイメージが強く、正月にコタツでミカンを食べながら見てたものだ。
新日鉄釜石の黄金時代がそうだった。
1978年度から84年度まで、新日鉄釜石は前人未到の7連覇を達成した(のちに神戸製鋼がこの記録に並ぶ)。
当時はトップリーグはもちろん、日本リーグのようなものもなく、各地域リーグの上位チームが集い、社会人選手権として合計16チームでトーナメント戦を戦った。
つまり、4試合勝てば社会人チャンピオンとなったわけである。
しかも東北リーグなんてものはなく、釜石は関東社会人リーグにも所属していなかったので、ライバルは秋田市役所ぐらいしかなかった。
さらに社会人選手権優勝チームは、翌年の大会は予選なしで優先出場していたのである。
つまり、釜石の場合は2連覇目から7連覇目まで、予選なしの無条件出場していたわけだ。
ということは、釜石の公式戦とは社会人選手権の4試合と、社会人チャンピオンと大学チャンピオンが覇権を争う日本選手権の1試合を合わせて、合計5試合しかなかったわけである。
1年間365日のうち、公式戦がたったの5試合。
それも勝ち続けた場合の話で、優勝した翌年が初戦敗退なら公式戦は1試合のみだったわけだ。
だが釜石は、1試合も負けを許されないこの5試合にメチャメチャ強かった。
そして、当時の社会人選手権の日程が凄い。
1月2日に1回戦、4日に2回戦、6日に準決勝、8日に決勝と、1日おきの開催だった。
つまり、たった一週間で社会人日本一が決まったわけだ。
その後、中6日を開けて1月15日に大学日本一との日本選手権があり、それが終わるとラグビーシーズンは事実上終了した。
ということは、釜石のラグビーシーズンとは年が明けてから松の内の期間、僅か半月のみということになる。
それまでの11カ月半は、国体や社会人対抗試合(釜石の社会人選手権へ向けての調整試合)を除いて、ひたすら練習に明け暮れていたということだ。
まるで7年間も土の中で幼虫として過ごし、僅か一週間のみ成虫の時代を謳歌するセミのようである。
その頃にトップリーグのようなリーグ戦があれば、無敵だった新日鉄釜石がどんなプレーを見せていたか興味深いものがある。