新型コロナウイルスの影響により、ラグビーのトップリーグはシーズン途中で中止となってしまった。
これだけ感染が拡大してしまっては、やむを得ない処置だろう。
しかし、たった6試合を終えただけで中止とは、選手もファンも関係者もやり切れない思いに違いない。
ところが、かつて年間の公式戦が僅か5試合で、日本選手権7連覇を達成したチームがあった。
新日鉄釜石の黄金時代は、昭和で言うと50年代。
1978年度(昭和53年度)から1984年度(昭和59年度)まで、日本選手権7連覇の偉業を成し遂げたのである。
この記録は、後に神戸製鋼(現:神戸製鋼コベルコスティーラーズ)が並んでいるが、いずれにしても金字塔と言えよう。
ただし、この頃にはまだトップリーグは発足していなかった。
それどころか、日本リーグすらなかったので、要するに当時の日本ラグビー界には全国リーグがなかったのである。
その頃は、社会人日本一を決める大会として「全国社会人ラグビーフットボール大会」が開催されていた。
これは、全国の予選を勝ち抜いた16チームが、ノックアウト式トーナメントで優勝を争うという仕組みだったのである。
16チームによるトーナメントなので、優勝するためには4試合全てに勝たなければならないということだ。
逆に言えば、4試合勝てば社会人日本一である。
全国社会人大会に優勝したチームは、1月15日(当時は「成人の日」)に大学選手権優勝校と日本選手権を闘い、勝ったチームが日本一だ。
つまり、全国社会人大会には東北代表として出場していたのかと言えば、さにあらず。
最初の優勝の時はそうだったが、当時の全国社会人大会は前年度優勝チームには無条件で出場できるという特権が与えられていたのだ。
つまり新日鉄釜石は、2連覇目からは予選なしで全国社会人大会に出場していたのである。
ちなみに、神戸製鋼が7連覇した頃には、前年度優勝の特権は廃止されていた。
しかも、当時は現在のようなトップイーストも、その前身である東日本社会人リーグもなかったのだ。
関東・東海・関西・西日本(九州を含む)には地域リーグがあったが、東北にはない。
新日鉄釜石にとって、東北でのライバルは秋田市役所ぐらいで、東北枠は1チームだけだったものの、たとえ東北予選に参加していても全国社会人大会にはずっと出場していただろう。
むしろ、新日鉄釜石7連覇の恩恵を受けていたのは秋田市役所で、釜石7度の優勝の翌年度には5回も全国社会人大会に出場していた。
もし、新日鉄釜石が前年度に優勝していなければ、秋田市役所は東北予選で新日鉄釜石と対戦しなければならず、全国社会人大会には出場できなかったに違いない。
それはともかく、当時の新日鉄釜石は地域リーグにも参加せず、2連覇目からは予選免除だったのだから、公式戦の初戦は全国社会人大会の一回戦ということになる。
もっとも、それだとぶっつけ本番になってしまうので、全国社会人大会が開幕する1ヵ月ぐらい前には「社会人対抗ラグビー」を行っていた。
これは新日鉄釜石と、関東の強豪チームが対戦するゲームで、新日鉄釜石にとってはオープン戦、関東協会にとっては釜石人気を当て込んだ試合だったのではないか。
もちろん、勝っても負けても全国社会人大会への影響はなかったので、当時最強を誇っていた新日鉄釜石も社会人対抗ラグビーでは結構負けていたのである。
他にも、秋には国体に岩手県チームとして参加していたが、ここでも負けることは珍しくなかった。
新日鉄釜石にとって、ターゲットはあくまでも全国社会人大会だったのだから、それに向けて調整すればよかったのだ。
さて、社会人対抗ラグビーも終わって、いよいよ本番の全国社会人大会。
当時の日程は、7連覇目の1984年度を除いて、1日おきに試合が行われていた。
たとえば1982年度の大会なら、翌年の1983年1月2日が一回戦、4日が準々決勝、6日が準決勝、8日が決勝だった。
つまり2連覇目からの新日鉄釜石は、たった1週間の僅か4試合で社会人日本一を決めていたのである。
社会人優勝から1週間後、1月15日には前述したように日本選手権。
ここで大学日本一のチームと対戦するわけだが、この頃の社会人と大学は今よりも実力が拮抗していたとはいえ、新日鉄釜石7連覇の頃から差が開き始めていた。
当時としては前人未到となる大学3連覇を果たしていた同志社大学も、新日鉄釜石の厚い壁は突き破れなかったのである。
こうして新日鉄釜石は、日本選手権7連覇を達成したのだ。
つまり、当時の新日鉄釜石ラグビー部の1年は、1月2日に始まり1月15日に終わるというスケジュールだったのである。
要するに、レギュラー・シーズンがたった2週間で全公式戦は僅か5試合。
あとの351日間は、この2週間に向けてひたすら練習だ。
もし、新日鉄釜石が初戦敗退していたら、レギュラー・シーズンが1日で全公式戦が1試合ということになっていた。
ちなみにトップリーグ2016-2017は、2016年8月26日から2017年1月14日まで約4ヵ月半行われ、16チームの総当たりで全てのチームが公式戦15試合を戦ったのである。
このうち、上位3チームは日本選手権に進出、優勝したサントリー サンゴリアスはトップリーグ全勝、日本選手権2勝で、全公式戦を5ヵ月間戦って17勝0敗だった。
新日鉄釜石7連覇時代は「試合数の少なさが問題」と言われていた日本ラグビー、やはり隔世の感がある。
1984年9月26日、新日鉄釜石は若手中心のフランス代表と対戦した。
日本では無敵の新日鉄釜石が、フランス相手にどこまで通用するのか注目されたが、結果は主力選手を温存したフランス代表に6-65でノートライの惨敗。
この試合は関西でもサンテレビで放送されていた記憶があるが、それまで「強い釜石」しか見たことがなかっただけに「ボロボロの釜石」を見せ付けられたのはショックだった。
選手兼監督だったSOの松尾雄治も「早く試合が終わって欲しかった」と語っていたぐらいである。
この3ヵ月半後、新日鉄釜石は前人未到の日本選手権7連覇を達成した。