前回からの続き。
オモロないラグビー
京都市立伏見工業高校(現在は京都工学院に統合)を主将として全国優勝に導いた平尾誠二は1981年、鳴り物入りで関西の名門・同志社大学に入学した。
大学ラグビーは東高西低のイメージが強いが、当時の同大はその年の1月に明治大学を破って大学選手権初制覇を成し遂げ、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢い。
平尾が入学した年度も、関東の大学を押しのけて優勝候補大本命だった。
そんな同大の中でも、平尾のプレーは際立っていた。
当時、平尾のポジションは司令塔と呼ばれるスタンドオフ(SO)。
司令塔としての平尾の判断は的確で、とても一年生とは思えなかった。
ところが、そんな平尾のプレーを見た部長の岡仁詩は、こう言い放った。
「お前のラグビーは、オモロない」
と。
平尾は、我が耳を疑った。
「プレーを、良い・悪いではなくて、オモロい・オモロない、で判断すんの?」
こんな理論、平尾は聞いたこともなかった。
しかし、岡の言い分はこうだった。
「お前は、俺がパスすると思ったら必ずパスする。キックすると思ったらキック。自分で抜きに来ると思ったら絶対に抜きに来よる。つまり、セオリーに頼ってるだけや」
岡はさらに続ける。
「ラグビーなんて、所詮は人間がやるスポーツや。人間やから必ずミスもする。だからラグビーはオモロいんや。それをお前は、ロボットみたいにミスせんようなプレーしかやらん。こんなオモロないラグビーがあるか?」
平尾にとって、目からウロコが落ちた瞬間だった。
当時の日本ラグビー界は「ヨコの早稲田、タテの明治」という、二つの理論しかなかった。
つまり「小柄な体格なのでバックス(BK)によるヨコへのオープン攻撃を仕掛ける早稲田大学」と「大柄な体格を活かしてフォワード(FW)のタテ突進を繰り返す明治大学」という二大戦法である。
そこへ、型にはまらない自由奔放な同志社大学の「オモロいラグビー」という、いかにも関西的な戦法が割って入ったのだ。
さっき、さらっと「部長の岡仁詩」と書いたが、岡は同大ラグビー部の部長であって、監督ではなかった。
当時の同大は監督制を廃止していたのである。
このあたりにも、部員の自主性に任せる岡の考え方が浸透していた。
そんな同大ラグビー部は、平尾の感性にマッチしていたのである。
人生観を変えた大怪我
一年時からレギュラーになった平尾だったが、大学選手権準決勝で「同大の大島真也、世紀の退場劇」もあって明大に敗れ、連覇はならなかった。
しかし、平尾はプレーにますます磨きをかける。
同大二年生となった1982年5月には、日本代表のニュージーランド遠征メンバーに選ばれ、5月30日にはニュージーランド学生代表との試合にインサイド・センター(CTB)として先発出場、19歳4ヵ月という当時としては日本史上最年少キャップを得た。
(注:当時は、日本協会が「キャップ対象試合」と認めれば、テストマッチではなくてもキャップが与えられた)
ところが、順風満帆なラグビー人生と思えた平尾に、最初の試練が訪れた。
同年9月23日、東京・秩父宮ラグビー場で日本代表のセンターとして先発出場した平尾は、日本Bとの対戦で右膝蓋骨骨折という大怪我を負う。
皿の骨が粉々に砕けるという重傷だった。
すぐに救急車で病院へ、同日の夜には京都第一赤十字病院に移って手術を行う。
選手生命まで危ぶまれた。
仮に脚が治ったとしても、あの独特の華麗なステップは戻ってくるのか?
そもそも、再びグラウンドに立てるのか?
二度とラグビーができなくなるのではないのか?
走れなくなった、ラグビーができなくなった平尾など、翼をもがれた鳥も同然だ。
病院のベッドに横たわる、平尾の不安は尽きなかった。
そんな平尾を救ったのは、他ならぬ入院患者たちだった。
誰もが、生きるために懸命なリハビリを続けている。
ある老人は、僅かしかないであろう残りの人生を、ただ生き抜くために必死で不自由になった体を伸ばしていた。
ある幼い少女は、これから先は輝かしい人生が待っていただろうに、交通事故で手を失い、絶望してしまうような状況にもかかわらず、決して希望を捨てずに笑顔でリハビリに励んでいる。
彼ら、彼女らに比べれば、俺はなんて幸せなんだろう、と平尾は思った。
仮にラグビーができなくなっても、骨折さえ治れば普通に生活ができる。
こんな幸せなことがあるか。
そのうえで、またラグビーを楽しむことができたならば、まさしくメッケもんだ。
平尾は、リハビリに励む勇気をもらった。
そして、本当の重症に苦しむ彼ら、彼女らのためにも、またグラウンドに立たなければならない、と。
果たして、平尾はグラウンドに戻ってきた。
平尾二年時の同大は、平尾抜きで大学選手権を制覇している。
平尾が復帰したのは、三年時の1983年4月。
全同大のニュージーランド遠征で先発出場、自らに「膝をかばうな!」と言い聞かせてプレーした。
同年10月、平尾は日本代表のウェールズ遠征メンバーに選ばれた。
10月22日、カーディフのアームズ・パークでのウェールズ代表×日本代表の、伝説のテストマッチ。
平尾はCTBとして先発出場した。
平尾らBK陣は縦横無尽に走り回り、FW陣は”赤い恐竜”ウェールズの大男に一歩も引かぬ突進を見せ、日本代表は敗れたとはいえ24-29という大接戦を演じた。
イギリスの新聞は、
「日出ずる国の偉大なるファイナル・マッチ」
「なんてラッキーな逃げ切りなんだ!」
「赤い恐竜を影に落とした眩い朝日」
と書き立て、日本代表を称賛したのである。
大学時代の忘れ物
同大のレギュラーとしても復帰した平尾は、三年時、四年時と大学選手権優勝を果たし、当時としては史上初の大学三連覇を成し遂げている。
しかし、大学では無敵だった同大も、どうしても越えられない壁があった。
それが社会人王者・新日鉄釜石(現:釜石シーウェイブス)の存在である。
当時は、社会人王者と大学王者が、1月15日の成人の日に行われる日本選手権で、日本一が争われていた。
この段階で、同大は大学三連覇、新日鉄釜石は社会人六連覇。
しかも、新日鉄釜石はただの六連覇ではなく、日本選手権でも六連覇だったのである。
即ち、日本選手権でも大学代表を蹴散らして、黄金時代を謳歌していた。
そのうち3回も、大学代表として同大が名を連ねている。
しかし同大は、そのたびに新日鉄釜石の暑い壁に日本一の座を阻まれてきた。
現在と違い、当時はまだ社会人と大学との差は拮抗していた。
四年生の平尾を中心とした同大は、四度目の正直として打倒釜石の最後のチャンスである。
新日鉄釜石の中心選手は長い間、日本代表の司令塔を務めてきたSOの松尾雄治。
一方の同大は、CTBとはいえ「ポスト松尾」と呼ばれる平尾。
前半は同大の若さが爆発して、12-13とリードを奪った。
同大が初めて釜石の牙城を打ち砕くかと思われたが、後半に新日鉄釜石が老練な試合運びで同大を翻弄、17-31で同大は完敗したのである。
この日、松尾は足を痛めていたが強行出場、しかも引退を表明していたので最後の試合となった。
胴上げをされる松尾を尻目に、悔しそうに見つめる同大フィフティーン。
「ポスト松尾」たる平尾も、この時は単なる脇役でしかなかった。
松尾は現役時代を振り返り、日本選手権では敵として戦い、日本代表では一緒にプレーした平尾についてこう語った。
「初めて平尾と一緒に練習した時、ものが違う、と思った」
と。
当時、松尾は28歳という脂の乗り盛りで、平尾は弱冠19歳。
伝説のウェールズ戦では、松尾がSO、平尾がインサイドCTBという、歴代日本最強とも思えるフロント・スリーのBKコンビを組んでいた。
天才・松尾をもってしても、平尾は自分を遥かに超えるプレーヤーになることを直感したという。
しかし、平尾は松尾を超えることはできなかった。
超える前に、松尾は引退してしまったのである。
平尾は、もうラグビーでやることはない、と思っていたのだろうか。
大学を卒業後、平尾もまた松尾と同じように、ラグビーを辞めようとしていた。
そして、イギリスへ旅立ったのである。
(つづく)