今年のプロ野球のオフシーズンの話題と言えば、なんと言ってもダルビッシュ有(日本ハム)と岩隈久志(楽天)のメジャー移籍だろう。
WBCでも日本のエースとして活躍した両者はメジャーから垂涎の的だ。
1995年、野茂英雄(当時:近鉄)がメジャー入り、そして大活躍して以来、日本人選手のメジャー移籍は当たり前になった。
日本人メジャーリーガー第1号と言えば、1964年のマッシーこと村上雅則(当時:南海)だが、村上の場合は野球留学生としてサンフランシスコ・ジャイアンツの1Aチームに派遣されたところ、メジャー球団の目に止まり、そのままメジャーに昇格したわけだから、村上本人がメジャー移籍を希望していたわけではなかった。
それ以来30年間、野茂が出現するまで日本人メジャーリーガーは誕生しなかった。
村上の場合はたまたまで、日本人メジャーリーガーなんて夢また夢と思われていたのだ。
そんな時代の中、メジャーから絶賛された日本人投手がいた。
江夏豊(当時:阪神)である。
江夏と言えば1985年の36歳の時、西武を退団した後メジャーに挑戦し、残念ながら夢破れたことで知られている。
江夏がメジャーに認められたのはそれよりずっと前の若い頃のことだった。
1968年のオフシーズンに、日米野球でセントルイス・カーディナルスが来日した。
江夏はカーディナルス戦に計9イニング投げて被安打4、15奪三振、無失点と、メジャーリーガーをキリキリ舞いさせた。
カーディナルスのレッド・シェーンディーンスト監督は
「素晴らしい、実に素晴らしい投手だ。凄いスピードボールとカーブ、そしてコントロールが実にいい。こんなサウスポーはメジャーにもいない」
と、江夏のことを興奮して褒めちぎった。
この興奮の仕方は外交辞令ではないだろう。
シェーンディーンスト監督の言葉を信じるなら、メジャーで20勝も夢ではなかったかも知れない。
この年の江夏の成績は、25勝12敗、防御率2.12、奪三振401、奪三振率10.97で最多勝と沢村賞に輝いている。
1シーズン401奪三振はもちろん世界記録で、おそらく今後も破られないだろう。
ちなみに、この時の江夏は高卒2年目の弱冠20歳。
この若さでこんなアンタッチャブルな記録を打ち立てていたのである。
この頃はスピードガンはなかったが、おそらく155km/hのスピードは出ていただろうと言われている。
それから7年後の1975年4月20日の巨人戦で、江夏は8回までノーヒッターという快投を演じた。
9回に初安打を許して2点を奪われたが勝利投手となり、通算150勝目を挙げた。
試合後、江夏は
「ふわーっと行くのが僕のペース」
と語った。
稀代の速球王のペースが「ふわーっと行く」?
そう、この頃の江夏は既に速球投手ではなかったのだ。
この時点ではまだ誕生日が来てなかったので、江夏の年齢は26歳。
ちなみに、現在のダルビッシュが24歳で、岩隈は既に29歳だ。
この年の江夏の成績は12勝12敗、防御率3.07、奪三振132、奪三振率5.70。
1968年当時と比べて、奪三振率の低下が顕著に現れている。
今年のダルビッシュの奪三振率は9.89、速球派とは言えない岩隈ですら6.85だ。
27歳にしてもう速球投手としては通用せず、技巧派投手への転身を余儀なくされたと言える。
現在なら、30歳でも150km/hを投げる投手は珍しくない。
ではなぜ、江夏は若くして速球派の道を断念せざるを得なかったのだろうか。
その前に、去年(2009年)の阪神の、巨人戦(24戦)での先発投手とその回数を見てみよう。
(1)能見篤史 6回
(2)下柳 剛 5回
(3)安藤優也 4回
(4)岩田 稔 2回
(4)金村 暁 2回
(6)福原 忍 1回
(6)ジェン・カイウン 1回
(6)筒井和也 1回
(6)阿部健太 1回
(6)久保康友 1回
10人の投手が巨人戦で先発しているわけだ。
能見の先発回数が多いのは、巨人キラーとしてぶつけていたわけではなく、たまたまローテーションの巡り合わせで巨人戦に回ってきただけである。
ちなみに、巨人の内海哲也とは4回連続で投げ合っており、現在では6人回しの中6日が一般的なので、曜日が同じだとこういうことがよく起こる。
9勝を挙げた久保が最終戦での1回だけの先発というのも意外だが、これもローテの関係での結果だ。
一方、上記の江夏が高卒2年目の1968年での巨人戦(26戦)の、阪神の先発投手は以下の通り。
(1)江夏 豊 11回
(2)ジーン・バッキー 9回
(3)村山 実 4回
(4)柿本 実 2回
なんと、巨人戦に先発したのがたったの4人。
しかも、そのうちの4分の3を江夏とバッキーで占めている。
村山が4回と意外に少ないのは、この頃既に血行障害を患っていたからだが、それでも15勝している。
当時の阪神は投手王国と呼ばれていたが、実際には江夏、村山、バッキーの3人で回っていたようなものだ。
もちろん他にも投手はいたが、巨人戦になるとローテに関係なく、この3人をぶつけていたのである。
よく阪神は巨人戦のあとのカードで必ず負け越す、と言われていたが、巨人戦にエース級を全てぶつけるので、投手がいなくなるからだ。
この年のシーズン終盤、阪神は巨人と激しく優勝を争っていた。
そして天王山の甲子園、阪神×巨人4連戦を迎える。
4連戦というのは、2,3戦目がダブルヘッダーで、つまり3日間で4戦を行うというわけだ。
第1戦は江夏が先発、1−0で完封勝利。
第2戦、即ち翌日の第一試合は村山が先発、2−0でまたもや完封勝利。
第3戦、即ち翌日の第二試合はバッキーが先発、2−10の大敗(この試合が有名なバッキー×荒川コーチ乱闘事件)。
第4戦は、なんと中1日で江夏が先発、しかも3−0で再び完封勝利を収めたのだ。
江夏はこの3日間で18イニングを投げ、しかも無失点の快投を演じたことになる。
さらにこの第4戦の9日後には、後楽園で巨人×阪神3連戦があった。
この3連戦は2,3戦目がダブルヘッダーで、即ち2日で3戦を行った。
その第1戦は江夏が先発、3−7で敗れ、対巨人戦無失点記録は31イニングで途切れる。
第2戦、即ち翌日の第1試合では村山が先発、3−2で勝った。
第3戦、即ち翌日の第2試合では、なんと江夏がまた先発、中0日の連投である。
この頃、バッキーは荒川コーチとの乱闘の際に右手を骨折して、戦線離脱していたのだ。
しかしさしもの江夏も力尽き、延長10回の末1−2でサヨナラ負け、優勝の夢は潰えた。
去年、阪神で最も多く投球回数を投げたのは能見で165イニング。
この年の江夏の投球回数は、そのほぼ倍の329イニング。
江夏はその後、前述の1975年までに300イニング以上を2回も経験している。
若くして速球が投げられなくなるわけである。