東映フライヤーズ
セネタース(1946年)~東急フライヤーズ(1947年)~急映フライヤーズ(1948年)~東急フライヤーズ(1949年 -1953年)~東映フライヤーズ(1954年 -1972年)~日拓ホーム フライヤーズ(1973年)~日本ハム ファイターズ(1974年 -2003年)~北海道日本ハム ファイターズ(2004年 - )~現在
日本一:2回(1962年、2006年)
リーグ優勝:6回(1962年、1981年、2006年、2007年、2009年、2012年)
北海道日本ハム ファイターズといえば、その名の通り北海道札幌市を本拠地とする人気球団だ。
だが、人気球団となったのは北海道移転後のことで、それまでは苦難の道を歩んだ球団だったのである。
球団発足は戦後まもない1946年(昭和21年)のことで、当時の球団名はセネタースと言った。
もちろん日本ハム株式会社は球団経営には参加しておらず、日本職業野球連盟(現在の日本野球機構=NPB)の創設時から参加していた東京セネタースの中心人物だった横沢三郎が設立した球団だ。
東京セネタースはその後、改称・合併を経て西鉄軍となったが、その西鉄軍は戦時中の1943年(昭和18年)を最後に解散したため、セネタースとは別球団扱いとなっている。
しかし、個人経営のためすぐに球団運営が立ち行かなくなり、僅か1年で身売りせざるを得なくなった。
そこで球団買収に乗り出したのが、関東大手私鉄の東京急行電鉄(東急)である。
1947年(昭和22年)、新たに東急フライヤーズとして出発し、オーナーには東急本社の取締役経理部長だった大川博が就任した。
だが、東急フライヤーズには青バットの大下弘という大人気スターがいたが、球団経営は赤字のままだった。
ちょうどこの頃、プロ野球に参入しようと画策していた男がいた。
映画会社の大映を設立した永田雅一は、大映球団を発足し日本野球連盟(日本職業野球連盟の後身)に加盟しようとするが、連盟側はこれを却下。
そこで1948年(昭和23年)から東急フライヤーズに経営参加し、球団名も急映フライヤーズとなったのである。
最初、オーナーの大川博は大映の経営参加に難色を示したが、赤字経営で背に腹は変えられなかった。
ここに大川博と永田雅一が共同で球団経営する、という不思議な関係が生まれたのである。
なぜ不思議な関係なのか、理由は後述しよう。
東急と大映の共同経営となったが、戦績も営業成績も振るわず、また大映が金星スターズを買収したため僅か1年で球団経営から離脱(金星スターズは大映スターズに改称)、1949年(昭和24年)からはまた東急フライヤーズに戻った。
1950年(昭和25年)、日本野球連盟は2リーグに分裂し、東急フライヤーズはパシフィック・リーグ所属となったのである。
パ・リーグ参加から4年間、東急フライヤーズはずっとブービーで、当然球団経営も思わしくない。
しかも1952年(昭和27年)のシーズン途中には、チーム1の大スターだった大下との契約がこじれ、西鉄ライオンズに放出してしまった。
なぜ契約がこじれたかといえば、パ・リーグを代表するスターだった大下の年俸が、他球団の格下選手よりも年俸が安かったからである。
当然、大下は賃上げを要求したが、球団側は「だったら借金を返せ」と迫り、激怒した大下は借金分の札束を叩き付けて退団を宣言した。
ドタバタの末、西鉄ライオンズとのトレードが成立したが、この騒動がなければ後の西鉄黄金時代はなかったかも知れない。
と同時に、東急フライヤーズの球団体質が垣間見えるエピソードだ。
なお、この時に大下との1対2のシーズン途中トレードで西鉄ライオンズから東急フライヤーズに移籍してきた深見安博は25本塁打を放ち、史上唯一の2球団に在籍した本塁打王となっている。
戦績不振、経営不振、スター不在の三拍子が揃えば、東急とすれば球団経営を続ける理由はない。
1954年(昭和29年)、東急の傍系会社であり、大川博が社長を務める映画会社の東映に球団を譲渡、球団名も東映フライヤーズとした。
もちろん、大川博がそのままオーナーを続けることとなる。
この前年の1953年(昭和28年)、東京郊外の東急沿線に駒澤野球場が完成、それまでの後楽園球場から本拠地を移転した。
なお、この駒澤野球場は、現存する駒沢球場(駒沢オリンピック公園総合運動場硬式野球場)とは別物である。
駒沢周辺といえば現在でこそ高級住宅街として知られているが、当時は都心から離れた田舎風情で田畑が広がり、球場には堆肥の臭いが漂っていたという。
客層も、銭湯帰りに下駄履きでやってくるような庶民的な雰囲気だった。
そんな駒澤野球場にぴったりマッチしたのか、山本八郎、張本勲、土橋正幸といった個性的でダイナミックな選手たちが東映フライヤーズに入団してきた。
東映の任侠映画にあやかって、彼らは「駒沢の暴れん坊」と呼ばれるようになったのである。
特に山本は「ケンカ八郎」の異名をとり、審判への暴行により無期限出場停止処分を食らってしまった。
この時、ファンは駒澤野球場の外で署名活動を行い、署名をコミッショナーに提出したため、停止処分は1ヵ月で解除された。
ファンと一体となった、当時の東映フライヤーズを窺い知れるエピソードである。
実はこの頃、「悪役商会」として知られる八名信夫が東映フライヤーズに入団している。
しかし、プロ野球選手としては通用せず、あっさりクビ。
「長嶋(茂雄)に打たれるより、高倉健に撃たれろ!」
と説得されたという。
要するに戦力外通告だったのだが、東映映画はリストラされた選手達の受け皿だったのだ。
もし、八名信夫が野球選手として成功していたら、あるいは失敗しても入団したのが東映フライヤーズでなかったら、稀代の名悪役・八名信夫は誕生していなかったに違いない。
しかし、東映フライヤーズの戦績は振るわなかった。
理由は簡単で、大下のエピソードでもわかるとおり、東映フライヤーズはシブちん球団だったからである。
もっと言えば、オーナーの大川博がケチだったのだ。
パ・リーグのライバル球団だった毎日大映オリオンズのオーナー・永田雅一とは大違いである。
大川博と永田雅一とは前述したとおり、かつては急映フライヤーズで球団経営を共にした仲。
だが、現在ではライバル球団というだけではなく、東映と大映という映画会社としても不倶戴天の敵同士なのだ。
そのため、パ・リーグのオーナー会議でも、二人の意見が衝突したことは枚挙に暇がない。
また、二人の性格も違いすぎた。
球団経営にも意欲的であり、パ・リーグの改革案を次々にブチ上げ、さらに私財を投入して東京スタジアムをブッ建てたので「ラッパ」の異名をとった。
東映という映画会社も、東急の傍系会社であり、永田雅一のようにゼロから築き上げたわけではない。
しかし、このままではいけないと思ったのか、永田雅一に対するライバル意識なのか、大川博の財布の紐が緩み始めた。
もちろん、そこには「娯楽の王様」たる映画界の好景気も背景にあった。
1961年(昭和36年)、読売ジャイアンツの名監督だった水原茂を招聘、チームの強化を図ったのである。
水原監督効果はすぐに出て、1962年(昭和37年)には球団初のリーグ優勝、さらに日本シリーズではセントラル・リーグの阪神タイガースを4勝2敗1分で破り、見事に日本一に輝いた。
なお、セネタース時代から東映フライヤーズに至るまで、優勝および日本一はこの年1回限りである。
歓喜に包まれた大川博オーナーは、自ら背番号100番のユニフォームを着て、パレードに参加した。
大川博は記者に向かって、
「チミィ、チミにはこの嬉しさがわからんだろ。どうだ、羨ましいかぁ」
と子供のようにハシャいでいたという。
小太りの体型にロイド眼鏡、口元にはチョビ髭をたくわえるという、昭和30年代の社長像そのままの風貌だった。
永田雅一とはタイプが違うが、大川博もやはり東映フライヤーズというチームを愛していたのである。
だが、大川博の至福の時もここまでだった。
テレビ時代を迎え、日本映画界は斜陽の一途を辿り、東映の経営も悪化したのである。
こうなれば、大川博は元のシブちんオーナーに戻るしかない。
チーム強化を訴える水原監督と、金を出せない大川博の間には大きな溝ができて、ずっとAクラスは保つものの優勝には届かなかった。
1967年(昭和42年)を最後に水原監督が退団してからは、また元の万年Bクラス球団に逆戻りしたのである。
また、本拠地の駒澤野球場も時代の波に消え去る運命にあった。
1964年(昭和39年)に開催する東京オリンピックのために駒澤野球場は取り壊しが決定、1962年(昭和37年)に消滅してしまった。
つまり、東映フライヤーズの優勝時は、駒澤野球場は存在していないのである。
1962年(昭和37年)と1963年(昭和38年)の2年間は、明治神宮球場を暫定的な本拠地として使用した。
しかし、当時の神宮球場はアマチュア(特に学生)専門という意識が強かったため、あくまでも東京六大学優先であり、東映フライヤーズの試合数は少なかったのである。
しかも1964年(昭和39年)からはセ・リーグの国鉄スワローズ(現:東京ヤクルト・スワローズ)が神宮球場を本拠地としたため、1965年(昭和40年)には東映フライヤーズは再び後楽園球場を正式な本拠地とした。
だが、この頃には後楽園球場=読売ジャイアンツの本拠地というイメージが定着しており、東映フライヤーズとしての個性は失われた感があった。
一方のライバル・永田雅一オーナーの東京オリオンズ(大毎オリオンズから改称)も、やはり経営が悪化していた。
ライバルであり戦友だった東映と大映は、テレビ時代という大きなうねりに飲み込まれてしまったのである。
1969年(昭和44年)、東京オリオンズは菓子メーカーのロッテに命名権を譲渡、チーム名を「ロッテ オリオンズ」とした。
翌1970年(昭和45年)にはロッテ オリオンズがリーグ優勝を果たすものの、大映本体の経営悪化は止められず、翌年早々にはロッテに球団身売りを正式にせざるを得なくなった。
そして、1972年(昭和47年)を最後に、本拠地の東京スタジアムも取り壊しとなったのである。
一方のセ・リーグでは、テレビ時代の特性を活かし、日本テレビの読売ジャイアンツ戦を中心としたプロ野球中継により、業績を大きく伸ばした。
昭和40年代以降、セとパの人気の差が如実に表れてきたのである。
それは、読売ジャイアンツV9時代の始まりでもあった。
それでも、東映フライヤーズはかつての「駒沢の暴れん坊」時代の臭いを残していた。
若手の強打者である大杉勝男が、韓国出身の白仁天と一触即発状態になり、あわや大乱闘かという寸前で張本勲が仲裁に入った、なんてこともあったという。
腕っ節自慢のこの3人による大立ち回りなんて、スクリーンなら岩に荒波がブチ当たって、三角マークの「東映」のロゴが映し出されただろう。
しかし、永田雅一がオリオンズを手放した1971年(昭和46年)、東映フライヤーズの名物オーナーだった大川博が死去。
大川博と永田雅一という、パ・リーグの二大オーナー時代の終焉だった。
名物オーナーがこの世を去れば、球団維持ができなくなるのはこの世の習いである。
倒産した大映と違い、東映は映画会社として生き残ったものの、赤字ばかりを生み出す球団経営を続ける意味はもうなかった。
既に、歯止めとなるべき大川博は他界している。
1972年(昭和47年)オフ、パ・リーグは大荒れに荒れた。
かつては隆盛を誇った福岡の西鉄ライオンズが「黒い霧(八百長)事件」の煽りを受け、身売りすると発表されたのである。
この件を端に発し、パ・リーグによる球団合併、1リーグ制移行が囁かれた。
いわば、2004年(平成16年)に巻き起こった球団削減騒動の原型が、この年に勃発したのである。
しかし、西鉄ライオンズは身売りされたものの、ロッテ オリオンズのオーナーだった中村長芳が福岡野球株式会社を設立、ライオンズの命名権を太平洋クラブに売って「太平洋クラブ ライオンズ」を発足させたのだ。
このウルトラC的裏技により、パ・リーグ消滅の危機は回避された。
だが、騒動はこれで終わらなかった。
年が明けた1973年(昭和48年)1月、東映フライヤーズが突如として身売りを発表したのである。
映画産業は衰退し、もはや球団を持てる状況ではなかった。
東映しかり、大映しかり、戦後まもない頃には球団を持っていた松竹(松竹ロビンス)しかりである。
この時点で、映画産業はプロ野球ビジネスから完全に手を引いた。
東映フライヤーズの身売り先は、不動産会社の日拓ホーム株式会社である。
創業は新しく、球団買収の僅か8年前である1965年(昭和40年)。
「プロ野球の親会社は信頼できる大企業に限る」
という不文律を、根底から覆す身売りだった。
言ってみれば、2004年(平成16年)の球団削減騒動の時に、大阪近鉄バファローズ買収に手を挙げたライブドア(当時の社長はホリエモンこと堀江貴文)を想像すればよい。
現在でこそライブドアは誰でも知っているが、大阪近鉄バファローズの買収を表明した頃は、ライブドアなんて企業は全く知られてなかったのである。
それと同じように、西鉄ライオンズから命名権を得た太平洋クラブと共に、日拓ホームは得体の知れない企業と訝しがられた。
しかし、伝統ある東映フライヤーズは、名もない新興企業に身売りされた。
そして、日拓ホーム フライヤーズとして再出発したのである。
ちなみに、この年から水島新司の傑作野球漫画「あぶさん」が連載されたが、そこには「日拓ホームズ」と書かれていた。
新球団は全く認識されていなかったのがわかる。
だが、日拓ホーム フライヤーズは長くは続かなかった。
プロ野球経営に関してはド素人で、赤字ばかりが膨らんだのである。
今や伝説となっている日拓の「七色のユニフォーム」で有名になったものの、時代が早すぎたのか当時は「ただのおバカユニフォーム」としか認識されず、集客には至らなかった。
結局、日拓ホーム フライヤーズは1年しかもたなかった。
その後、日拓ホームが注目されたのは、それから34年後の2007年(平成19年)のことである。
この年、二代目社長の西村拓郎がタレントの神田うのと結婚したため「フライヤーズを買収した日拓ホームか」と思い出されたのだった。
いずれにしても、日拓ホームはプロ野球参入したために企業の名を売ることには成功したが、球団経営をするだけの資金力はなかった。
ロッテ オリオンズとの合併を企てるが失敗、プロ野球経営から撤退する。
そして、球団買収に名乗りを挙げたのが日本ハム株式会社だった。
日本ハムといえば、今では誰もが知っている大手ハム会社だが、本社は大阪にあるので、当時としては全国的な知名度は今ひとつだった。
日本ハムの本社が大阪にある、というのは意外に思われるかも知れないが、現在ではJリーグのセレッソ大阪のスポンサー企業である。
いずれしても、大阪の食品会社に過ぎない日本ハムが、首都圏を本拠地とするプロ野球チームを持つというのは大きなメリットがあった。
日本ハムはプロ球団を持つことによって、日本ハムという大阪ローカルのハム会社を全国区に押し上げたのである。
かくして、日拓ホームは僅か1年で球団身売り、1974年(昭和49年)から日本ハムが球団を買収した。
この際、日本ハムは新球団名をファンから公募し、日本ハム ファイターズとして生まれ変わったのである。
頭文字こそ「F」が残ったものの、「フライヤーズ」の名を消し去ったのには明確な理由があった。
言うまでもなくフライヤーズの「暴れん坊」のイメージを払拭するするためだったのである。
映画会社ならともかく、主婦がスーパーで手にするハムが「暴れん坊」のイメージでは良くない。
そこで、日本ハム球団は暴れん坊時代のイメージを一掃すべく、大型トレードを断行した。
白、大杉、張本らを、他球団に次々と放出。
東映フライヤーズ時代の臭いは完全に消し去った。
日本のプロ野球では、身売りされた場合、前の球団のイメージを払拭するためにトレードを断行するのは、よくある手法である。
だがそれは、古くからのファンを裏切る行為とも言える。
そして1981年(昭和56年)、日本ハム ファイターズとして初めてのリーグ優勝を飾る。
しかし、東映フライヤーズ時代からは完全に選手が入れ替わり、ほとんど新球団としての優勝だった。
ちなみにこの日本シリーズは、史上初めて同一球場で全試合が行われた。
同一球場というのは、東京の後楽園球場である。
NPBはフランチャイズ制が確立してからも、日本ハム ファイターズと読売ジャイアンツは後楽園球場を本拠地として共有していたのだ。
今から考えると異常なことだが、当時はこのことを不思議に思う人はいなかったのである。
首都圏に進出して知名度を上げたという点では、目論見は成功したと言える日本ハムだったが、それは所詮、親会社の都合だった。
球団としては、後楽園球場から東京ドームに本拠地が移ったものの、読売ジャイアンツと共用していることには変わりない。
人気という点では全くの頭打ちだった。
この頃、あるテレビ局が調査したテーマがある。
東京ドームの近辺で、どの球団のファンかを道行く人にインタビューしたのだ。
1位はもちろん読売ジャイアンツ。
2位は大阪の阪神タイガース。
ここまでは予想できたが、それ以外の球団は団子状態。
そして最下位は、なんと日本ハム ファイターズだった。
本拠地周辺での調査ながら、最も不人気球団だった日本ハム ファイターズ。
元々は、東京とは縁もゆかりもない企業だし、東京に留まる理由はなかった。
そして2004年(平成16年)、ファイターズは札幌に移転、北海道日本ハム ファイターズとして再出発するのである。
その後の北海道日本ハム ファイターズの活躍はご存知のとおり。
読売ジャイアンツのファンしかいないと思われた北海道に完全に根付き、今や押しも押されもせぬ人気球団である。
地域密着が成功した好例と言えよう。
さらに強さでも、北海道移転後はリーグ優勝4回、日本一1回という充実ぶり。
「球団経営は首都圏でないと成り立たない」という常識を覆した。
ただ、そこに辿り着くまでには「駒沢の暴れん坊」と呼ばれた東映フライヤーズの時代があったことを忘れてはならない。