先日、日本プロ野球(NPB)とメジャーリーグ(MLB)の球団変遷を記した「日米球団変遷史」を書いて、気付いたことがあった。
それは、MLBが1901年に現在まで続く二大リーグ制となってからの113年間、球団の合併や消滅は一度たりともなかったのに、NPBは創設期から合併と消滅の繰り返しだったということである。
ここにNPBが抱える問題点があるのではと考え、NPBにかつて存在したが現在はない球団を紹介していくことにした。
また、NPBではなくても「プロ球団」と名乗ったチームについても取り上げる。
消滅した球団を探ることにより、NPBの真実が見えて来るかも知れない。
松竹ロビンス
大東京軍(1936年 - 1937年春)~ライオン軍(1937年秋 - 1940年)~朝日軍(1941年 - 1945年)~パシフィック(1946年)~太陽ロビンス(1947年)~大陽ロビンス(1948年 - 1949年)~松竹ロビンス(1950年 - 1952年)~
<大洋松竹ロビンス(大洋ホエールズと合併:1953年)~洋松ロビンス(1954年)~大洋ホエールズ(経営から撤退:1955年)~(現:横浜DeNAベイスターズ)>
リーグ優勝:1回(1950年)
松竹ロビンスなんて球団名を、今の若い人が聞いてもピンと来ないだろう。
いや、50代の人すら知らないかも知れない。
今や「松竹」も「ロビンス」も、名乗る球団なんてないのだから。
しかし、松竹ロビンスはNPB史に偉大な功績を残しているのだ。
実は、この松竹ロビンスこそセントラル・リーグの初代優勝チームなのである。
普通、消滅した球団は弱小チームであることが多いのだが、松竹ロビンスの場合はそうではなかったのだろうか。
松竹ロビンスの歴史は古く、プロ野球リーグが始まった1936年(昭和11年)から既に参加していた。
國民新聞社というのは新愛知新聞社の傘下にあり、新愛知新聞社とは現在の中日新聞社である。
新愛知新聞社は、現在の中日ドラゴンズの前身である名古屋軍の親会社であり、プロ野球の創成期には同系列会社が二つの球団を持っていたことになる。
今の感覚で言えば、名古屋の中日ドラゴンズの他に、東京中日スポーツが東京を本拠地とした球団を抱えているようなものだ。
大東京軍は東京市の洲崎球場を本拠地としていたが(ただし、当時はフランチャイズ制度はなかった)、経営状態は思わしくなく、間もなく経営権は共同印刷の大橋松雄と田村駒商店の田村駒治郎の手に渡り、1937年(昭和12年)の秋のシーズン(この年は春秋の2シーズン制)には早くもライオン軍と改称した。
ライオン軍、と言っても現在の埼玉西武ライオンズや、戦後に一世を風靡した西鉄ライオンズとは何の関係もない。
ライオンとは、今でも歯磨きやシャンプーなどの洗剤メーカーとして有名なあのライオン株式会社である。
当時の社名は小林商店と言ったが、単なるスポンサーで経営権はなく、自社ブランドの「ライオン」をチーム名に入れることで宣伝効果を狙ったわけだ。
つまり、今でいうネーミングライツのようなものである。
戦前で既に現在のような手法を用いていたのだ。
なお、この年のシーズン終了後には、大橋松雄は経営から撤退し、経営は田村駒治郎の手に委ねられた。
しかし、世は戦争に向かってまっしぐら、「ライオン」という敵性語は当然のことながら問題視され、他球団がチーム名を日本語化する中、ライオン軍だけは小林商店からのスポンサー料が入らなくなることを恐れ、頑としてライオン軍という名称を貫き通した。
その理由として「『ライオン』は既に日本語だ」と主張したが、時代の流れには勝てず、太平洋戦争が始まる1941年に朝日軍と改称し、小林商店とのスポンサー契約も解消した。
戦後の1946年(昭和21年)、朝日軍はパシフィックと名を変え、再びプロ野球リーグに参加した。
翌1947年(昭和22年)には各球団がMLBふうのニックネームを導入、パシフィックは太陽ロビンスと改称。
「ロビンス」の由来は、田村駒治郎の”駒”を取って、駒鳥を意味する「ロビン」から来ている。
「太陽」は、田村駒(田村駒商店から改称)の子会社だった「太陽レーヨン」から取った。
しかし太陽ロビンスという名も僅か1年限りで、翌1948年(昭和23年)には大陽ロビンスに改称してしまう。
「太」が「大」に変わっただけで、何のための変更かと思うだろうが、前年の太陽ロビンスのチーム成績は8チーム中7位と振るわず、田村駒治郎の「野球は点を取る競技だから、”太”から点を取ってしまえ」という言葉により、日本語にはない「大陽」となった。
もっとも、この年の大陽ロビンスは8チーム中6位、翌1949年(昭和24年)は最下位と、点を取った効果は見られなかったが……。
なお、この大陽ロビンス時代の2年間は、田村駒が関西(大阪)の企業だった関係で、阪急西宮球場を本拠地としている。
チームは低迷し、経営難に陥っていたが、映画会社の松竹がプロ野球経営に興味を示し、1949年のシーズン終了後には大陽ロビンスに経営参加、チーム名も松竹ロビンスと改称した。
テレビなどない時代、当時の娯楽の王様と言えば映画で、他にも大映や東映(1954年から)などが球団経営に乗り出し、新聞や鉄道と並んで映画界は「プロ野球経営の御三家」と呼ばれた。
今で言えばソフトバンクや楽天、DeNAなどのIT系企業のようなものだろう。
ちょうどこの頃、プロ野球界は大荒れに荒れた。
新球団加盟をめぐり、各球団が対立。
松竹ロビンスは読売ジャイアンツや中日ドラゴンズと共に加盟反対派に回ったが、結局はセントラル・リーグとパシフィック・リーグの2リーグに分裂、松竹ロビンスはセ・リーグ所属となった。
かつてはパシフィックと名乗った球団がセ・リーグ所属というのも皮肉なものだが……。
プロ野球はそれまでの8球団から一気に7球団も増えて15球団となり、セ・リーグは8球団体制となった。
1950年(昭和25年)、2リーグ制が始まった年の松竹ロビンスは、松竹が京都を起源とする会社だったということもあって、京都市の衣笠球場を本拠地とした。
また、松竹のライバルである大映のお抱え球団、パ・リーグの大映スターズに内紛が起こり、その主力選手を松竹ロビンスが引き取ったおかげで戦力が充実した。
特に大映スターズから移籍してきた小鶴誠が、51本塁打という当時の日本新記録で本塁打王を獲得。
当時のプロ野球では人気獲得のためにはホームラン量産が必要と考え、それまでのボールよりも飛距離が出るラビット・ボールを使用、小鶴のホームラン倍増の原因となった。
小鶴を中心とした松竹打線は水爆打線と呼ばれ、137試合で98勝、2位の中日ドラゴンズに9ゲーム差を付けて、ダントツでセ・リーグの初代チャンピオンとなった。
ただ、残念ながら第1回日本シリーズ(当時は日本ワールド・シリーズと呼称)ではパ・リーグの覇者である毎日オリオンズに2勝4敗で敗れ、初代日本チャンピオンの栄誉は逃している。
セ・リーグ初代王者となった松竹ロビンスだったが、1球団減った翌1951年(昭和26年)のセ・リーグでは、ラビット・ボール禁止の影響があったのか水爆打線が振るわず、7チーム中4位と低迷する。
さらに、その翌年の1952年(昭和27年)は田村駒の経営悪化により主力選手を大量に放出したためにチーム力は低下、2年前の優勝が嘘のようにブッチギリの最下位だった。
この年のシーズン前、セ・リーグは奇数の7球団では日程が組みにくいので、勝率3割を切った球団には処罰を科すと決められていたが、勝率.288の松竹ロビンスがこの条件に当てはまってしまった。
経営難の田村駒は松竹ロビンスから撤退、翌1953年(昭和28年)からは下関市営球場を本拠地とする大洋ホエールズと合併し、大洋松竹ロビンスとして再出発することになった(本拠地は大阪球場に移転)。
この年、セ・リーグはこの合併によって1球団減り、現在まで続く6球団体制となっている。
一応は対等合併だったものの、創業者に近い田村駒治郎を失った松竹は既に球団経営には力を入れなくなり、大洋側に任せっきりとなった。
翌1954年(昭和29年)には通称である洋松ロビンスと改称し、とうとう「松竹」の名も消えてしまう。
そして1955年(昭和30年)、チーム名は大洋ホエールズ(本拠地は川崎球場に移転)に戻って松竹は球団経営から完全に手を引き、プロ野球創設期から続いた球団は事実上消滅した。
松竹ロビンスがセ・リーグ初代王者になってから僅か5年後のことである。
ちなみに、合併した1953年のロビンスは6チーム中5位、翌1954年は最下位で、大洋ホエールズに戻った1955年から1959年まで5年連続最下位(洋松ロビンズ時代を含めると6年連続)である。
なお、ご存知のように大洋ホエールズとは現在の横浜DeNAベイスターズだが、大東京軍から松竹ロビンスに至るまでの記録は含まれていない。
プロ野球創成期からの老舗球団であり、セ・リーグ初代チャンピオンが既に存在しないというのは、あまりにも寂しい。
ただ、松竹ロビンスは大東京軍時代から計17シーズン(洋松時代を含まず)で最下位が5回もあり、Bクラスは14回を数えながら、唯一の優勝がセ・リーグ初年度だったのは、まさしくNPBの歴史で一瞬だけ輝いた眩い光だったと言えよう。