西鉄ライオンズ
西鉄クリッパース(1950年)~西鉄ライオンズ(西日本パイレーツを吸収合併:1951年-1972年)~太平洋クラブ ライオンズ(1973年-1976年)~クラウンライター ライオンズ(1977年-1978年)~西武ライオンズ(1979年-2007年)~埼玉西武ライオンズ(2008年-)~現在
日本一:13回(1956年、1957年、1958年、1982年、1983年、1986年、1987年、1988年、1990年、1991年、1992年、2004年、2008年)
リーグ優勝:21回(1954年、1956年、1957年、1958年、1963年、1982年、1983年、1985年、1986年、1987年、1988年、1990年、1991年、1992年、1993年、1994年、1997年、1998年、2002年、2004年、2008年)
まずは上記の表をご覧いただきたい。
この「消えた球団シリーズ」では、圧倒的な優勝回数を誇る。
つまり、身売り前と身売り後で二度の黄金期があったということである。
現在、日本プロ野球(NPB)で九州にある球団といえば、福岡ソフトバンク ホークスだ。
今や押しも押されもせぬ人気球団で、福岡のみならず九州全土から応援されている。
だがそれは、平成の世になってからの話だ。
昭和の時代、九州の球団といえば西鉄ライオンズだった。
今でも福岡在住のオールドファンの中には「俺は西鉄ファンだ」と断言する人も多いだろう。
西鉄ライオンズは昭和30年代に黄金時代を築き、人気・実力ともに圧倒的な存在感を放っていた。
しかし、そんな西鉄ライオンズが平成になる遥か前、昭和40年代に忽然と姿を消したのである。
しかも、その僅か数年後の昭和50年代には、九州からプロ球団そのものがなくなってしまったのだ。
一体、西鉄ライオンズに何が起こったのか。
西鉄ライオンズの親会社はもちろん、福岡を中心に路線網を張り巡らせている鉄道会社の西日本鉄道(通称:西鉄)である。
だが、西日本鉄道はライオンズを発足する前に「西鉄軍」という球団を経営していたことがあった。
しかし、戦時中に西鉄軍は解散したため、その後に結成された西鉄ライオンズとは別球団扱いになっている。
戦後の1946年(昭和21年)に西日本鉄道は社会人チームを立ち上げ、1948年(昭和23年)には都市対抗で優勝するほどの強豪チームに成長した。
翌年、西鉄軍を復活させようと日本野球連盟(現:日本野球機構=NPB)に復帰申請するも却下される。
理由は、前述のように西鉄軍は一旦解散したので新規参入扱いとなり、高いハードルがあったのだ。
だが1950年(昭和25年)の2リーグ分裂を機に加盟が認められ、再びプロ球界に参入することとなった。
その時に誕生したのが西鉄クリッパースである。
西鉄クリッパースはパシフィック・リーグ所属となったが、福岡にはもう一つ「西日本パイレーツ」という西日本新聞社が経営するセントラル・リーグ所属の球団も結成された。
だが、地方都市に過ぎない福岡に2球団もあると客の奪い合いになるため、僅か1年で経営は行き詰まり、西鉄クリッパースは西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズとなる。
西鉄ライオンズは1951年(昭和26年)、読売ジャイアンツを干されていた知将・三原脩を迎え入れ2位に躍進。
翌1952年(昭和27年)の途中には東急フライヤーズ(現:北海道日本ハム・ファイターズ)の大打者だった大下弘をトレードで獲得、さらにこの年には超大型新人の中西太も入団した。
そして1954年(昭和29年)、大下や中西、そして前年に入団した豊田泰光を中心とした打線が機能し、遂に念願のパ・リーグ初優勝を遂げる。
しかし、日本シリーズでは魔球・フォークボールを操る杉下茂をエースとした中日ドラゴンズに3勝4敗で敗れ、日本一は逃した。
1956年(昭和31年)、バッティング投手として入団した稲尾和久が21勝を挙げる大活躍で2度目のリーグ優勝。
日本シリーズの相手は日本プロ野球界の盟主、読売ジャイアンツ。
読売ジャイアンツの監督は、西鉄ライオンズの三原監督とはただならぬ因縁がある水原円裕(後の茂)で、人はこの勝負を「巌流島の決闘」と呼んだ。
三原は高松中(現:高松)、水原は高松商と共に香川県の出身で、大学では三原が早稲田、水原は慶應義塾と、中学から大学時代を通じてのライバル同士だった。
卒業後は共に東京巨人軍(現:読売ジャイアンツ)に入団するものの、戦後まもない頃には三原が読売ジャイアンツの監督を務めていたが、水原がシベリア抑留から復帰すると三原は監督の座を追われ、都落ちするように福岡の西鉄ライオンズに拾われた。
果たして、日本シリーズでは三原がその屈辱を晴らすように4勝2敗で読売ジャイアンツを打ち破り、西鉄ライオンズは初の日本一に輝いたのである。
翌1957年(昭和32年)も西鉄ライオンズはリーグ優勝、さらに宿敵:読売ジャイアンツを4勝1分と圧倒し、2年連続日本一を達成。
西鉄ライオンズは磐石の時代を迎えた。
そしてハイライトとなったのが1958年(昭和33年)である。
ペナントレースでは南海ホークス(現:福岡ソフトバンク ホークス)が新人投手である杉浦忠の大活躍により独走、西鉄ライオンズの3連覇は絶望と思われた。
しかし、シーズン中盤から西鉄ライオンズが猛追し、遂に最大11ゲーム差をひっくり返しての優勝となった。
この頃の西鉄×南海はパ・リーグの黄金カードであり、平和台球場と大阪球場のファンを熱狂させたのである。
今風で言うならば「メイク・ミラクル」によるリーグ優勝で日本シリーズに進出した西鉄ライオンズの相手は、3年連続で宿敵:読売ジャイアンツ。
球界の盟主の意地にかけても西鉄3連覇は許さじと水原監督は執念を燃やし、読売ジャイアンツが初戦から3連勝で日本一にリーチ。
しかし土俵際に追い詰められた西鉄ライオンズは驚異的な粘りを発揮し、その後3連勝して3勝3敗のタイに追い付く。
そして雌雄を決する第7戦では、西鉄ライオンズが6-1で読売ジャイアンツを下し、史上初の3連敗4連勝で3年連続日本一に輝いた。
特に3連敗してからエースの稲尾が4連投4連勝、特に第5戦ではサヨナラホームランまで放ち「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれたのである。
稲尾、中西、豊田、大下らの個性豊かな選手で構成された西鉄ライオンズは「野武士軍団」と称され、まさしく西鉄黄金時代を謳歌した。
今でもこの頃の西鉄ライオンズが、NPB史上最強チームと言う人は多い。
だが、黄金時代もこの年を境に失速する。
翌1959年(昭和34年)はBクラスの4位に沈んで三原監督が辞任、大下もこの年限りで引退した。
1961年(昭和36年)には稲尾がシーズン42勝というお化け記録(ヴィクトル・スタルヒンと並ぶ日本タイ記録)を樹立するも、その後は酷使が祟り成績は落ちていった。
そしてこの年、中西が選手兼監督に就任、さらに豊田が選手兼助監督、稲尾が選手兼投手コーチと「青年内閣」を形成する。
西鉄黄金時代を築いた中心選手達が、まだ若いにもかかわらずプレーに専念できなかったことが、後の凋落を生んだのかも知れない。
それでも1963年(昭和38年)にはトニー・ロイ、ジム・バーマ、ジョージ・ウィルソンという「外人三銃士」の活躍により、南海ホークスとの最大14.5ゲーム差をひっくり返して(NPB史上最大)、西鉄ライオンズは5年ぶり5度目のリーグ優勝に輝いた。
しかし、日本シリーズでは読売ジャイアンツに3勝4敗で敗れ、しかも最終第7戦は4-18という大惨敗だった。
結局、西鉄としての優勝はこの年が最後となる。
つまり、西鉄ライオンズにとって日本シリーズ最後の試合は4-18の大惨敗だったということだ。
西鉄ライオンズにはハンディもあった。
現在でこそ福岡~東京間の移動は飛行機なら1時間40分程度で済むが、当時は国内便が少ないうえ、新幹線もまだ開通していない。
東京への移動は在来線を使って20時間もかかった。
東京や大阪の球団に比べて、最も西にある西鉄ライオンズにとり、現在とは比べ物にならないほど大きな負担となる。
もし今の時代に西鉄ライオンズが存続していたら、まだ強豪チームの一角を担っていたかも知れない。
また、外国人選手頼みで優勝しても、戦力としては長続きせず、当時の世相として人気面でも振るわなかったので、稲尾や中西に代わる日本人選手のスターが必要だった。
そこで白羽の矢を立てたのが、甲子園優勝投手である池永正明と尾崎将司である。
1965年(昭和40年)に両選手は西鉄ライオンズに入団したものの、甲子園の大スターを獲得するには莫大な費用がかかった。
池永1人を獲得するにも契約金3千万円で、その他雑費が3千万円、計6千万円もかかったという。
現在の貨幣価値だと、何億円になるだろうか。
親会社の西日本鉄道は大手私鉄とはいえ、悪く言えば田舎電車である。
新人獲得にこれだけの費用をかけていては、球団経営はおろか鉄道会社本体にも影響を及ぼしかねなかった。
そこでオーナーの西亦次郎がオーナー会議で提案したのが、アメリカのプロのアメリカン・フットボール・リーグ(NFL)で採用されていたドラフト制度である。
新人獲得にアップアップしていた他球団もほとんどが賛成、人気球団の読売ジャイアンツと阪神タイガースが難色を示したものの、メジャー・リーグ(MLB)もドラフト制度を採用したことが追い風となって、遂に1965年(昭和40年)のオフから日本でもドラフト会議が始まった。
いわば西鉄ライオンズがドラフト制度の生みの親である。
しかし、自由競争で獲得し、ドラフト制度採用の引き金となった池永、尾崎の存在が西鉄球団を追い込んでいく。
尾崎は野球選手としては大成せず、プロゴルファーに転向しジャンボ尾崎として大出世したのは皮肉だった。
一方の池永は、新人の年にいきなり20勝を挙げ、ポスト稲尾として期待されるも、とんでもない事件に巻き込まれてしまう。
1969年(昭和44年)10月、シーズン終了間際に西鉄ライオンズの永易将之投手の八百長行為が発覚、永久追放となった。
いわゆる「黒い霧事件」である。
ちなみにこの2日後、「日本プロ野球の父」と呼ばれた正力松太郎が死去した。
だが、これは悲劇の序章に過ぎなかったのである。
翌1970年(昭和45年)の開幕直前、永易を含む西鉄ライオンズの6選手が八百長行為をしていた、と発表された。
なんと、その6人の中に池永も入っていたのである。
黒い霧事件は他球団にも飛び火したが、最も被害を受けたのが西鉄ライオンズで、永易、池永を含む4選手が永久追放となった。
大幅に戦力ダウンした西鉄ライオンズはこの年、球団史上初の最下位に落ちてしまう。
西鉄ライオンズは事実上、この年に死んでしまったと言ってよい。
弱体化した西鉄ライオンズは3年連続最下位、さらにイメージダウンにより人気は急降下、西日本鉄道ももはやお荷物に成り下がった球団経営を続ける気が失せてしまった。
ちなみに1971年(昭和46年)の年間入場者数が32万人で、1試合平均が4900人というから、現在では考えられない数字である。
1972年(昭和47年)のオフ、パ・リーグは大激震に見舞われた。
身売りを切望していた西日本鉄道に対し、ロッテ オリオンズのオーナーだった中村長芳が仲介して、ペプシコーラ日本に球団買収を持ち掛けた。
しかし、この話は頓挫してしまい、ライオンズ消滅の危機に晒された。
さらにこの頃、東映フライヤーズも球団譲渡を模索していたが、買収先がなかなか見つからなかったのである。
この両球団の動きにより、パ・リーグ消滅、球界再編による1リーグ制移行が現実味を帯びてきた。
球団削減騒動が勃発した2004年(平成16年)より32年前に、その原型が既に作られていたのである。
ただ、平成の球団削減騒動と、当時とで違っていたのは、平成の時はパ・リーグのオーナー全員が1リーグ制移行に邁進していたのに対し、当時のパ・リーグのオーナーはリーグ存続に奔走していた点である。
そして、ウルトラCの大技を出したのが中村長芳だった。
中村長芳はロッテ オリオンズのオーナーでありながら、西鉄ライオンズを買収したのである。
もちろん、1人のオーナーが2球団を保有するのは野球協約違反になるので、中村長芳はロッテ・オリオンズのオーナー職を辞した。
異例の「オーナー移籍」である。
一方、東映フライヤーズは日拓ホームが買収、日拓ホーム フライヤーズとなって、パ・リーグは消滅を免れた。
しかし、中村長芳が球団買収したからといって、個人では球団経営が成り立たないことは高橋ユニオンズが証明済みだ。
そこで中村長芳が放った第二の矢は命名権譲渡、今でいうネーミング・ライツである。
新会社名は「福岡野球株式会社」だが、チーム名をゴルフ場開発会社の太平洋クラブに売却、1973年(昭和48年)からチーム名を太平洋クラブ ライオンズに変更した。
博多っ子が愛してやまなかった西鉄ライオンズの名前は、この世から消えてしまったのである。
しかも、西鉄は福岡県民の足となっている会社なので馴染み深いが、太平洋クラブなんていう会社は、ほとんど知られてなかったのだ。
これでは愛着の持ちようもない。
なお、ドラフト制度導入に尽力した西亦次郎は、西鉄ライオンズが消滅した2年後の1974年(昭和49年)11月13日に、この世を去っている。
ライオンズの悲劇はまだ続く。
1976年(昭和51年)のオフにはクラウンガスライターが命名権を買収、1977年(昭和52年)からチーム名をクラウンライター ライオンズとした。
太平洋クラブ ライオンズになってから僅か4年後のことである。
しかし、クラウンライター ライオンズの命は太平洋クラブ ライオンズよりもさらに短かった。
僅か2年で経営難に陥り、命名権の売却などという小手先のことではなく、球団譲渡を真剣に考えるようになる。
クラウンライター ライオンズの貧乏ぶりは惨めそのもので、練習場は福岡大学のグラウンドを借りていたぐらいだ。
遠征時も、宿舎から球場までのバスを手配せず、選手は電車などでめいめい球場に向かっていた。
また、宿舎で食事を用意すると金がかかるので、選手達にラーメン代程度の僅かな食費を手渡していたのである。
立派な二軍球場や合宿所を構え、豪華なバスやホテルを用意する現在のプロ球団とは大違いだ。
ライオンズは毎年のように身売り話が出て、選手達も貧乏球団から脱することができるなら、とっとと身売りしてくれと思っていた始末である。
1977年(昭和52年)オフのドラフト会議では、超目玉選手だった江川卓投手を敢然と指名したが、「九州は遠い」という一言によってアッサリと袖にされた。
1978年(昭和53年)オフ、とうとうライオンズが身売りされる時が来た。
買収先は西武グループの国土計画。
しかも、ただの球団買収ではない。
本拠地を福岡から関東の埼玉県所沢市に移転するというのである。
1979年(昭和54年)からの新球団名は西武ライオンズと、西鉄ライオンズとは1字違いとなったが、チームは遥か遠くに離れてしまった。
九州からとうとう球団がなくなってしまったのである。
西武グループに買収されるちょっと前、「甦れ!俺の西鉄ライオンズ」というレコードが発売された。
この歌は、ドナドナの仔牛のように首都圏へ売られていくライオンズを嘆いたのではなく、かつての黄金時代が嘘のように弱くなって、さらに愛着が持てない球団名にコロコロ変わることを憂いているのである。
甦れ!俺の西鉄ライオンズ 黒田武士
この曲が発表された僅か半年後、ライオンズは本当に九州からいなくなった。
「返せ 返せ ライオンズを返せ」
という博多っ子の心からの叫びは、図らずも現実のものとなってしまったのである。
しかし、埼玉に移転した西武ライオンズは皮肉にも常勝球団となった。
福岡時代と違い、自前で西武ライオンズ球場(現:西武ドーム)という超豪華な新球場をブッ建て、豪華な練習設備と合宿所を選手に提供したのである。
1980年代から90年代にかけて、西武ライオンズは無敵の黄金時代を築き上げた。
しかしそれは、西武グループ挙げての大金を使ったバックアップと、管理野球による賜物である。
同じ獅子でも、野性味たっぷりの野武士軍団だった西鉄ライオンズとは全く異質の野球だ。
博多っ子にとって、西武ライオンズと西鉄ライオンズは、全く別の球団と思うに違いない。
九州にプロ球団が戻ってくるのは、ライオンズがいなくなってからちょうど10年後の1989年(平成元年)、平成の時代になってからだった。
その球団とは福岡ダイエー ホークス。
九州にやって来たのは、西鉄ライオンズ最大のライバルだった南海ホークスの後身球団だったとは、歴史の皮肉と言わざるを得ない。
福岡ダイエー ホークスは、かつて西鉄ファン一色だった平和台球場を本拠地とした。
博多っ子も、もう二度とライオンズの悲劇を繰り返すまいと、ホークスを愛するようになった。
野球を失う悲しさを、身に染みて知ってしまったからである。
そして、福岡ドームが完成したため、西鉄ファンを沸かせた平和台球場は役目を終え、もう既に存在しない。
博多っ子を熱狂させた平和台球場の跡地。2006年撮影