「人気のセ、実力のパ」という言葉を、野球ファンなら一度は聞いたことがあるだろう。
言うまでもなく日本プロ野球のセントラル・リーグとパシフィック・リーグの特徴を言い現したものだが、この言葉が生まれたのはいつごろだろうか。
詳しくはわからないが、読売ジャイアンツ9連覇真っ只中の昭和40年代ではないかと推察する。
この言葉には「人気だけのセ・リーグと違って、パ・リーグには本物の力がある」という意味があるのだろうが、一方で人気のないパ・リーグを揶揄した言い方ともとれる。
第一「実力のパ」という割りには、日本シリーズでセ・リーグの巨人に9連覇を許したのだからあまり説得力がない。
それでもオールスター戦ではパ・リーグの方が成績が良かったので「実力のパ」と呼ばれたのだが、これもパ・リーグの選手が滅多に経験したことがない全国ネットでのテレビ中継に映るということでハッスルしていた、という説もある。
一方のセ・リーグの選手たちは、オールスター戦なんて所詮は花相撲なのだから、顔見世興行的にしか考えていなかったというわけだ。
日本プロ野球が2リーグに分裂したのは戦後間もない1950年(昭和25年)。
もちろん当時は「人気のセ、実力のパ」なんて言葉はなかったが、セ・リーグ所属となる巨人が人気、実力ともに抜きんでていたのは間違いないところ。
何しろ日本プロ野球を創めたのは、東京巨人軍の親会社である読売新聞社だったのだから、スター選手の多くが巨人に集まった。
とはいえ、最初からセ・リーグとパ・リーグに人気の差がそれほどあったわけじゃない。
たとえば巨人のライバルで1リーグ時代から人気球団だった大阪タイガース(現在の阪神タイガース)は、パ・リーグの新球団である毎日オリオンズ(現在の千葉ロッテ・マリーンズ)に主力選手をごっそり引き抜かれ、チームは弱体化した。
2リーグ分裂後、阪神のリーグ優勝は12年後の1962年(昭和37年)まで待たねばならず、その間に大スターだった藤村富美男の排斥事件などもあって、人気も地に落ちたものとなっていた。
たとえば、1959年(昭和34年)の天覧試合は、伝統の一戦である巨人・阪神戦が選ばれたと思われがちだが、実はそうではなく、天皇にお見せする試合は後楽園球場での巨人戦でなければならなかっただけで、相手はどのチームでも良かったのである。
天覧試合は当初、巨人×中日が予定されていたが、昭和天皇の体調の問題でお流れになり、その後スケジュールの都合でたまたま6月25日の巨人×阪神になったというだけだ。
時計の針を2リーグ分裂直後に戻すと、パ・リーグ発足の音頭を取ったのは、毎日オリオンズの親会社である毎日新聞社であった。
セ・リーグの中心は読売新聞社お抱えの巨人なのだから、パ・リーグの中心もマスコミが親会社である毎日オリオンズが望ましいのは当然の発想である。
しかし毎日オリオンズは初年度こそ日本一になったものの、その後は鳴かず飛ばずで経営も悪化。
やがて映画会社が経営する大映ユニオンズと合併、大毎オリオンズとなって『毎日』の『毎』の字は残ったものの、やがて毎日新聞社は経営から手を引くこととなる。
マスコミを中心にパ・リーグを発展させようという目論見は早くも頓挫した。
パ・リーグは設立当初から、不運に見舞われたのである。
とはいえ、パ・リーグの人気が落ちたわけではなかった。
大阪にあった南海ホークス(現在の福岡ソフトバンク・ホークス)と、福岡を本拠地とする西鉄ライオンズ(現在の埼玉西武・ライオンズ)のライバル関係があったからである。
杉浦忠、野村克也、広瀬叔功らの南海と、大下弘、稲尾和久、中西太、豊田泰光らの西鉄との対決はパ・リーグの黄金カードとなった。
しかも、このライバル対決を制したパ・リーグ覇者が、日本シリーズでは東京の巨人を倒すのだから、大阪や福岡のファンにとってみればたまらない。
1958年(昭和33年)では稲尾のまさしく獅子奮迅の活躍による西鉄の3連敗4連勝、翌1959年(昭和34年)は杉浦の快投乱麻により4連投4連勝で4勝0敗のストレート勝ちと、いずれも巨人を倒した日本シリーズは今や伝説となっている。
この頃の大阪の人気球団は、セの阪神ではなくパの南海だった。
だが、そんなパ・リーグの至福の時も、昭和40年代に入ると終わりを告げた。
巨人V9が始まると共に、南海と西鉄の弱体化が始まったのである。
特に西鉄の低迷ぶりは著しく、大下、稲尾、中西らが次々引退し、豊田も他球団に移籍して、スター選手を失った西鉄は球団経営も悪化の一途を辿った。
そのためドラフト制度を発案して実現させたり、甲子園のヒーローである池永正明を入団させたりしたが、決定的な事件が起こってしまった。
1970年(昭和45年)、池永らが八百長を発端とする「黒い霧事件」に巻き込まれ西鉄から3選手が永久追放、他3選手も処分を受けたのである。
他球団にも永久追放になった選手はいたが、とりわけ6人の処分者を出した西鉄は戦力的にもイメージ的にも大きなダメージを被った。
クロかシロかはハッキリわからず、スター選手だったエースの池永にはファンから同情が集まったが、処分が覆ることはなかった。
親会社の西日本鉄道は福岡の人達にとって欠かせない足だが、そんな会社が八百長をしていたなんて利用者に顔向けができない、と考えても不思議ではない。
1973年(昭和48年)、遂に西鉄は球団譲渡を決定、太平洋クラブ・ライオンズとなったのである。
福岡の人に馴染み深かった「西鉄」の名前がなくなって、太平洋クラブなんて聞いたこともない会社がスポンサーとなったので、感情移入がしにくかったに違いない。
実際に球団経営をしていたのは西鉄から引き継いだ「福岡野球株式会社」で、太平洋クラブというのは今でいうネーミングライツのようなものだった。
しかしこの不自然な形態では長続きせず、1977年(昭和52年)からはスポンサーが代わり、クラウンライター・ライオンズとなる。
だが、クラウンの運命はセミのように短く、僅か2年後の1979年(昭和54年)からは、首都圏の大手私鉄である西武鉄道を持つ国土計画に買収され、西武ライオンズとなって埼玉県所沢市に移転が決まった。
福岡の人にとってかけがえのない存在だったライオンズが、遂に九州を離れることになったのである。
埼玉移転が決まった頃、西鉄ファンによって歌われた「甦れ!俺の西鉄ライオンズ」というレコードが発売された。
この歌にはこんな歌詞がある。
太平洋 クラウンと 名前が変わる
そのたびに 俺たちは 戸惑うばかり
返せ 返せ ライオンズを返せ
返せ 返せ ライオンズを返せ
ライオンズを失った福岡の人達による心の叫びだろう。
福岡の人達にとって愛着のある「西鉄」の名前が一方的に消され、「大人の事情」によってライオンズを、そしてプロ野球そのものを失った嘆きが感じ取れる。
西鉄ライオンズの名前が消滅した1973年(昭和48年)はライオンズのみならず、パ・リーグにとって大きなターニング・ポイントとなる年だった。
ちなみにこの年は、巨人がV9を達成する年である。
この年、やはりパ・リーグの名門球団だった東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハム・ファイターズ)が球団譲渡、日拓ホーム・フライヤーズとなった。
ちなみにこの日拓ホームは球団経営についてド素人だったため、僅か10ヶ月で球団を手放し、1974年(昭和49年)日本ハム・ファイターズとなった。
この前年、1972年(昭和47年)の、パ・リーグ球団の顔ぶれを見てみよう。
ロッテ・オリオンズ
東映フライヤーズ
南海ホークス
近鉄バファローズ
阪急ブレーブス
西鉄ライオンズ
このチーム名を見て、何か感じないだろうか。
まずは、現在も残っているチーム名は一つもなく、親会社も残っているのはロッテだけという事実である。
パ・リーグ各球団がいかに身売りと親会社変更を繰り返してきたかよくわかる。
もう一つは、親会社が6球団中4球団、鉄道会社となっている点だ。
パ・リーグは鉄道リーグと言ってよく、鉄道会社は高度成長期に合わせて沿線の宅地開発をし、野球などの娯楽客を鉄道で運んでいた。
しかしその時代も終わり、現在のパ・リーグで鉄道会社が経営しているのは埼玉西武だけである(セ・リーグでは阪神)。
さらに見逃せないのが、映画会社の東映だ。
かつては映画会社と言えば鉄道会社、新聞社と並んで球団経営の御三家と呼ばれていた。
しかしこの年限りで、日本を代表する映画会社の東映が球団経営から身を引くこととなる。
もう一つ、曲者なのが現在も続く菓子メーカーのロッテだ。
ロッテ・オリオンズの元となったのは、パ・リーグの創始者である毎日オリオンズである。
前述した通り毎日オリオンズは大映ユニオンズと合併して大毎オリオンズとなるが、その大映こそ東映のライバルである映画会社だ。
その後、都市名を冠した東京オリオンズに改称するが、1969年(昭和44年)からはロッテに命名権を売却してロッテ・オリオンズとなる。
つまり、ロッテも当初は球団経営をしていたわけではなくネーミングライツであり、経営権があったのはあくまでも大映であり、オーナーは「ラッパ」の愛称で親しまれた名物オーナーである大映社長の永田雅一だった。
しかし、強気で鳴る永田オーナーも時代の流れには勝てず、1971年(昭和46年)に大映は倒産、遂に経営権を放棄せざるを得ず、ロッテが正式にオリオンズの親会社となった。
この際、ロッテは永田オーナーが私財をなげうって建設した東京スタジアムを本拠地としていたが、既に大映を失った永田に球場維持は不可能で、問題の1973年(昭和48年)に東京スタジアムは取り壊され、この年からロッテは本拠地を持たないジプシー球団となったのである。
つまり、1973年は映画会社がプロ野球から完全に撤退した年でもあった。
テレビ全盛となった日本において、映画界は斜陽産業だったのである。
映画界に頼っていたパ・リーグは、この頃の映画会社はかえって足かせになったとも言える。
セ・リーグも発足時には松竹ロビンスという映画会社を親会社とする球団があって、初代セ・リーグ王者に輝いているが、僅か3年で大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)に吸収合併されている。
要するにパ・リーグは、古いビジネスモデルに捉われていたとも言えよう。
現在の球団の親会社がソフトバンク、楽天、DeNAといったIT企業が大手を振って参上してきた現状を鑑みると、プロ野球は時代を映し出す鏡かもしれない。
2004年(平成16年)日本プロ野球に球界再編の嵐が吹き荒れ、10球団1リーグ制に移行か、と騒がれたのは記憶に新しいが、その原型があったのがこの1973年(昭和48年)である。
この年からパ・リーグは人気回復策として前後期制を採り、プレーオフを行ってファンの注目を集めようとしたが決定打には至らなかった。
そして東映から経営権を譲り受けた日拓ホームの西村昭孝オーナーが、ジプシー球団となったロッテに合併を持ちかけ、さらに大阪では人気が低下していた南海と、未だリーグ優勝がない近鉄との合併が噂され、1リーグ10球団構想が浮かび上がったのである。
ライバル鉄道会社である南海と近鉄の合併はともかく、日拓ホームとロッテの合併は時間の問題と言われていたが、土壇場でロッテが合併を拒否、日拓ホームは僅か10ヶ月で球団経営権を日本ハムに移譲して、2リーグ12球団体制は維持された。
しかし、パ・リーグの暗黒時代はまだ続くのである。
ジプシー球団となったロッテは1974年(昭和49年)、仙台の宮城球場(現在のクリネックス・スタジアム宮城)を仮の本拠地としたが、仙台や東北のファンのハートは掴めなかった。
この年、ロッテは見事リーグ優勝、さらに日本シリーズでは中日ドラゴンズを破って巨人以外のチームでは10年ぶりとなる日本一を勝ち取ったものの、日本シリーズでロッテのフランチャイズとしたのは巨人の本拠地球場である東京の後楽園球場で、宮城球場は使用しなかった。
さらに、日本一のパレードも仙台では行わず、東京の銀座で敢行された。
これでは仙台のファンに愛されるわけがない。
今では当たり前の地域密着という考え方が、当時は育ってなかったのである。
その後、ロッテは川崎球場を正式な本拠地とした。
1978年(昭和53年)のことである。
この年に横浜スタジアムが完成し、それまで川崎球場を本拠地としていた大洋ホエールズが横浜スタジアムに移転したため横浜大洋ホエールズと改称、空いた川崎球場をロッテ・オリオンズがちゃっかり本拠地として使用することとなった。
ロッテにとって仙台のファンなどどうでもよく、人口密集地域である首都圏に本拠地を置いた方が宣伝効果が高い、と考えたのである。
翌1979年(昭和54年)、福岡のライオンズが上京して九州からプロ球団が消滅、埼玉に西武ライオンズが誕生した。
この年のパ・リーグの球団と本拠地は以下の通り。
西武ライオンズ(埼玉県所沢市・西武ライオンズ球場)
日本ハム・ファイターズ(東京都・後楽園球場)
ロッテ・オリオンズ(神奈川県川崎市・川崎球場)
南海ホークス(大阪府大阪市・大阪球場)
近鉄バファローズ(大阪府藤井寺市・藤井寺球場、大阪府大阪市、日本生命球場)
阪急ブレーブス(兵庫県西宮市・阪急西宮球場)
なんと、首都圏に3球団、関西に3球団という、実に歪な構造である。
しかもそのうちの日本ハムは、後楽園球場を巨人と共有している。
これでまともなフランチャイズ制度と言えるのか。
「パシフィック・リーグ」とは、要するに太平洋リーグである。
世界で最も広い大洋を名に冠したリーグなのだ。
ちなみにメジャー・リーグは「ナショナル・リーグ」と「アメリカン・リーグ」に分かれているが、直訳すると「国のリーグ」と「アメリカのリーグ」である。
つまり、アメリカ国内に留まっている、実に狭いリーグなのだ。
それに比べて「パシフィック・リーグ」とは、全世界に跨ったなんと雄大なリーグ名であろうか。
しかしその実態は、極東国である日本の首都圏と関西にしか存在しない、実にセコいリーグだったのである。
看板に偽りあり、と言わざるを得ない。
ちなみに当時のセ・リーグは、現在とは変わらない配置とはいえ、パ・リーグに比べるとバランスが取れている。
読売ジャイアンツ(東京都・後楽園球場)
ヤクルト・スワローズ(東京都・明治神宮球場)
横浜大洋ホエールズ(神奈川県横浜市・横浜スタジアム)
中日ドラゴンズ(愛知県名古屋市・ナゴヤ球場)
阪神タイガース(兵庫県西宮市・阪神甲子園球場)
広島東洋カープ(広島県広島市・広島市民球場)
6球団中のうちの半分である3球団が首都圏にあるのは歪だが、太平洋ベルト地帯である名古屋、大阪(に近い西宮)、広島に球団があるというのは、日本プロ野球の成り立ちを見ると比較的バランスが取れていると言えるだろう。
少なくとも、首都圏に3球団、関西に3球団というパ・リーグよりは遥かにいい。
昭和50年代、巨人V9が終わったとはいえ、巨人人気はさらに加速していった。
ドラフト制度の効果が出て、巨人以外のチームが優勝したために、ペナントレースがより白熱したからである。
1975年(昭和50年)に広島が初優勝、1978年(昭和53年)にはヤクルトが初優勝、1982年(昭和57年)には中日が優勝し、1985年(昭和60年)の阪神21年ぶりの優勝の際には、日本国中を巻き込む社会現象まで引き起こした。
セ・リーグ人気の絶頂期と言っても良い。
あくまでも巨人が中心ではあるが、それと戦うチームが脚光を浴びた時期でもある。
それに対しパ・リーグは、西武が大資本をバックに強力チームを作り上げ、巨人に代わる球界の新盟主となろうとしていた。
パ・リーグでは西武が常に優勝し、日本シリーズでは巨人を中心とするセ・リーグ勢を蹴散らしていたが、本当の意味での人気球団になるには至らなかった。
そんなパ・リーグに危機が訪れたのが、1988年(昭和63年)のシーズン終盤間際だった。
まずは、名門球団の南海ホークスが、大手スーパーのダイエーに球団譲渡する噂。
これは南海は常に最下位争いを演じており、経営難に陥っていることは知れ渡っていたから、あまり驚きはなかった。
ところが、西武と近鉄が優勝争いをしていて、この日にパ・リーグの優勝が決定するという10月19日、やはり名門球団の阪急ブレーブスがオリエント・リース(現在のオリックス)に身売りしたというニュースが駆け巡った時は、さすがに激震が走った。
阪急電鉄は関西大手私鉄の中でも最も経営が安定した企業で、しかも野球でも常に優勝争いをしていたから、まさか球団を身売りするなど誰も考えていなかったのだ。
この日、南海や阪急と同じ関西大手私鉄を親会社とする近鉄バファローズは、川崎球場でロッテとダブルヘッダーを行い、視聴率46%を叩き出すという日本国民の目を釘付けにしながらも、惜しくも優勝を西武に譲った。
この頃、西武、近鉄、阪急というパ・リーグの優勝争いは「熱パ」と呼ばれたが、阪急は実力に関係なく経営難から脱落してしまった。
ただし、名門球団であるホークスは、かつてのライバルだった西鉄の本拠地である福岡に根を降ろして、人気球団となっていく。
福岡の人達は、おらがチームを手放すという悲劇を二度と繰り返さないため、ホークスを熱烈歓迎をしたのだ。
これが後のパ・リーグ人気に繋がるのだが、この頃のパ・リーグにはまだまだ試練が待っていた。
1993年(平成5年)日本初のプロサッカーリーグであるJリーグが開幕。
日本中にサッカーブームが吹き荒れ、プロ野球は過去の遺物と称されるようになった。
このサッカー人気に対して、日本プロ野球が採った政策は、なんと逆指名ドラフト。
要するに巨人にスター選手が集まって昭和40年代のような巨人V9時代になれば、プロ野球人気も復活するだろうという、実に安直な方法だったのである。
この頃の巨人は長嶋茂雄を監督に迎えて、長嶋人気に頼ればプロ野球人気は安泰だという、前近代的な考え方をしていた。
実に愚かな思考回路だと言わざるを得ない。
その後、逆指名ドラフトとは全く関係なく、プロ野球界にイチローというスーパースターが登場したこともあってプロ野球人気は回復したが、パ・リーグの地盤沈下は目を覆うばかりだった。
いくらイチローが一人で頑張っても、メディアは読売主導の巨人に目が向けられているのだから、パ・リーグは盛り上がりようがない。
そのイチローも、メジャー・リーグに流出してしまった。
西武が覇権を握っていた1980年代後半、西武×オリックスといったパ・リーグの中継を全国ネットで中継していたが、Jリーグ発足以降はほとんど見られなくなった。
巨人人気がプロ野球を救うという、30年前の論理が頭をもたげていたのである。
やがて、プロ野球中継はCS放送による有料テレビが主流となり、巨人戦は地上波テレビから姿を消していった。
もはや巨人戦中継は、優良コンテンツではなくなった証しである。
しかし、巨人中枢部(ハッキリ言うとナベツネ)はそのことに気付いていない。
いや、頭の中では気付いているのだろうが、認めたくはないのだ。
2004年(平成16年)、関西の大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブが合併を発表し、一気に球界再編、1リーグ10球団制へ移行か、と騒がれた。
もはや誰もが、球団削減も仕方がないと思った時、ナベツネによる「たかが選手が」発言によって、プロ野球ファンのハートに火を点けた。
プロ野球ファンにとってかけがえのない存在である球団が、「大人の事情」によって簡単に潰される事実が許せなくなったのである。
このファンの声は、経営者にとってとてつもない大きな叫びとなった。
この声を無視することは、今後の会社運営にとってマイナスになると感じ取ったのである。
これはプロ野球経営に携わっていた人間が、それまではファンの声など無視していたのだが、初めてファンの声が届いた出来事だと言っていい。
それまでの球団経営者は、ハッキリ言ってファンの存在など眼中になかったのだ。
しかし、近鉄とオリックスの合併は避けられなかった。
とはいえ、この合併劇は思わぬ産物を生んだ。
新球団の東北楽天ゴールデンイーグルスの誕生である。
球団発足当初は近鉄残党の寄せ集め球団と言われ、事実初年度はぶっちぎりの最下位に甘んじた。
だが、楽天は仙台の市民球団と認知され、大きな人気を博した。
仙台を取り敢えず仮の本拠地としたロッテとは大違いだ。
仙台を捨てて川崎に行ったロッテは川崎でも人気を得ることはできず、1994年(平成6年)に千葉に移転して千葉ロッテ・マリーンズとなると、地域密着の努力が実って千葉の人気球団となった。
さらに球界再編騒動が起こった2004年(平成16年)、日本ハムは巨人と同じ東京ドームの本拠地を捨てて、札幌ドームに本拠地移転して北海道日本ハム・ファイターズとして生まれ変わった。
移転当初は、北海道は巨人ファンがほとんどだし、移転しても成功するはずがないと言われていたが、実際は札幌ドームには連日超満員の大観衆が詰めかけ、大成功だった。
これは、ホークスが福岡に移転して人気球団になった経緯と酷似している。
現在のパ・リーグには東京を本拠地とする球団はないが、それでも隆盛を博しているのだ。
一方のセ・リーグには、地盤沈下が囁かれている。
巨人人気はもはや地に落ち、読売グループお抱えの日本テレビですら巨人戦の全国ネット中継をしない。
大阪の阪神人気に抜かれ、広島のカープ人気にも押されている有様である。
ただし、名古屋では圧倒的人気を誇っていた中日も、いくら優勝してもクソつまらない落合野球に辟易して、ナゴヤドームには客が集まらないようだが。
それでも、名古屋、大阪、広島に球団があるのはいい。
未だにセ・リーグ半数の3球団が首都圏に集っているのはなぜなのか。
横浜は常に最下位争いをしているので、身売りの噂が絶えなかったが、遂に今年、DeNAに身売りされた。
それでも、横浜市は政令指定都市の中で最大の人口を誇っているし、東京とは違う独自性を保っているので、ベイスターズは横浜市に留まって欲しいと思う。
しかし、ヤクルトに関しては、いつまでも東京にいる必要があるのか。
本拠地の明治神宮球場は大学野球のための球場なので、日程的な制約を受けざるを得ない。
ハッキリ言って、東京に留まっている理由は何もないと思う。
北陸の金沢あたりに移転して、日本海側にプロ野球球団を作って欲しい。
現在の、日本プロ野球(NPB)の球団は以下の通り。
読売ジャイアンツ(東京都・東京ドーム)
東京ヤクルト・スワローズ(東京都・明治神宮球場)
横浜DeNAベイスターズ(神奈川県横浜市・横浜スタジアム)
中日ドラゴンズ(愛知県名古屋市・ナゴヤドーム)
阪神タイガース(兵庫県西宮市・阪神甲子園球場)
広島東洋カープ(広島県広島市・マツダスタジアム広島)
北海道日本ハム・ファイターズ(北海道札幌市・札幌ドーム)
東北楽天ゴールデンイーグルス(宮城県仙台市・クリネックススタジアム宮城)
埼玉西武ライオンズ(埼玉県所沢市・西武ドーム)
千葉ロッテ・マリーンズ(千葉県千葉市・QVCマリンフィールド)
オリックス・バファローズ(大阪府大阪市・京セラドーム大阪)
福岡ソフトバンク・ホークス(福岡県福岡市・福岡Yahoo!JAPANドーム)
もはや、パ・リーグの方が日本全国に球団が散らばっているのは明らかである。
現在では地域密着の戦略がマッチして、ほとんどの球団が満員御礼の大盛況だ。
だがセ・リーグは、阪神が一人勝ちの様相で今や巨人人気を追い抜き、広島は独自の人気を保っているものの、名古屋では落合野球のつまらなさからか中日がいくら優勝しても人気は頭打ち、首都圏の東京ヤクルトや横浜は、主催ゲームでも阪神ファンの方が多いという体たらく。
昭和40年代とは逆に、21世紀に入ってからはセ・リーグの方が古いビジネスモデルに捉われてしまった。
さらに日本シリーズでもここのところはパ・リーグが優位、さらにシーズン中のセ・パ交流戦では、パがセを圧倒しているのが実情だ。
今では「人気のパ、実力のパ」と言っていい。