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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

命日

今日、5月29日は僕が尊敬する作家・山際淳司さんの命日である。

山際さんと言えば、スポーツ・ノンフィクションの草分け的存在として知られている。

 

山際さんが脚光を浴びたのは1980年のこと。

この年に文藝春秋から発行された、日本初の総合スポーツ雑誌「Sports Graphic Number(ナンバー)」の創刊号に、 山際さんが執筆したスポーツ・ノンフィクションの短編「江夏の21球」が掲載された。

それまでのスポーツ記事やコラムは、単なる戦評や根性論がほとんどだったが、山際さんはそれだけではなく、1球1球を丹念に検証して、勝負に生きる人間の心境を暴き出したのである。

「江夏の21球」を執筆するために、山際さんは当事者の江夏豊氏を徹底取材し、当時は現役選手だった江夏氏が話したくなかった内容まで引き出した。

「話したくなかった内容」には、監督批判まで含まれていたのだから、江夏氏ならずとも話したくなくて当然である。

だが江夏氏は、山際さんの鋭い質問に対して誤魔化すことができなくなり「話したくない内容」を喋ってしまったという。

臨場感溢れる「江夏の21球」は大評判となり、山際さんはスポーツ・ノンフィクションという新たな分野をたった1作の短編で確立しただけでなく、現在も発行されている「ナンバー」の方向性まで決定付けたのである。

そして山際さんは、その後もスポーツ・ノンフィクションの傑作を次々と発表した。

 

だが、この頃はまだ、僕は山際さんを知らなかった。

僕が初めて山際さんを知ったのは1988年のことである。

それも、作家としてではなく、テレビキャスターとしてだ。

この年、NHK総合テレビで「大リーグアワー」という番組が始まり、山際さんはメインキャスターに抜擢されたのである。

この頃のNHKでは、衛星放送(BS)に力を入れ始めていて、メジャーリーグ中継がその目玉だったが、まだまだBS加入者は少なく、宣伝を兼ねて地上波によるメジャーリーグのダイジェスト版放送を始めたのだろう。

まだ日本人メジャーリーガーなど夢また夢、という時代である。

初めてテレビで見た山際さんの印象は、そんな作家だったとは知らず、メガネをかけてインテリそうで、ハッキリ言うと胡散臭そうな人だな、というのが偽らざる感想だった。

しかし、毎週番組を見ていると、山際さんの話術に引き込まれていった。

低い声で要点をスパッと言って、それでいて知識豊富で、しかもそれをひけらかしたりはせず、メジャーリーグの面白さを淡々と伝えていた。

山際さんというとクールで理知的、というイメージがあるが、まさしくそのままの人柄がテレビ画面を通じて表れていたのである。

 

その後、僕は山際さんの作品をむさぼるように読むようになった。

前述の「江夏の21球」の他にも「逃げろ、ボクサー」「スローカーブを、もう一球」「自由と冒険のフェアウェイ」「みんな山が大好きだった」「最後の夏」、小説では「タッチ・タッチ・ダウン」など。

特にお気に入りが「逃げろ、ボクサー」だった。

ボクサーについて書くなら、普通は「打たれても打たれても立ち上がるボクサー」を描くものだが、「逃げろ、ボクサー」に登場するのは、そんなボクサーとは正反対の「逃げるのが専門のボクサー」だった。

そんなボクサーに焦点を当てるのはいかにも山際さんらしいが、この話にはまだ続きがあって、このボクサーとは後に世界チャンピオンとなった大橋秀行氏の兄だったのである。

山際さんも、まさか自分が書いたボクサーの弟が世界チャンピオンになるとは夢にも思ってなかっただろう。

ちなみに大橋秀行氏の兄は、日本チャンピオンにすらなれなかった。

後年、山際さんに会った大橋秀行氏は「憶えてますか?僕『逃げろ、ボクサー』の弟です」と挨拶したという。

(角川文庫「逃げろ、ボクサー」より)

 

山際作品の中で異色と言えるのが「ラブ・フォーティ」という短編だ。

なにか「40代の恋」みたいなタイトルでドキドキするが、そうではなくてテニスにおける「0-40」のことである。

だが、内容はテニスとは程遠くて、山際さんがかつて一緒に仕事をしたことがある元アイドルの女性と偶然再会する、というものだ。

山際さんは、この元アイドルの自伝(というより、タレント本のようなもの)のゴーストライターをしたことがあって、その時のペンネームが「船方康」だったことを明かしている。

ちなみに「山際淳司」という名前もペンネームで、本名は「犬塚進」という。

結局、この女性はアイドルとしてはほとんど売れないまま引退して、その後はあまりいい人生を送ってなかったらしい。

アイドル時代の昔話ばかりしたがるこの女性に対し、山際さんは「昔話なんて時間の無駄だ。それよりテニスをやった方がいい」とたしなめる。

テニスではラブ・フォーティからでも逆転できる。

逆転できなくても、次のゲームで取り返せる。

次のゲームも落として仮にセットを取られても、次のセットで取り返せる。

いつでも逆転する可能性があるのがテニスだ、と山際さんは言う。

でも、逆に言えば勝っていても最後まで油断できないってことでしょ?しんどいな、それって、と元アイドルは反論した。

負けた時は――山際さんが答える。

ビールを呑めば気分は良くなるさ。

(角川文庫「夏の終りにオフサイド」より)

 

その後も、山際さんは執筆活動とテレビ番組で活躍を続けた。

アサヒ・スーパードライのCMで、ビールを旨そうに飲み干している山際さんの姿を憶えている人も多いのではないか。

最も有名だったのは、NHK総合テレビでメインキャスターを務めた「サンデースポーツ」だろう。

しかし、この番組を始めた頃の山際さんは、既に病魔に蝕まれていた。

 

1995年5月29日、胃癌による肝不全のため急逝。

サンデースポーツ」のキャスターになってから約1年後のことだった。

その僅か4日後には、野茂英雄メジャーリーグ初勝利を挙げている。

「大リーグアワー」のキャスターを務めた男は、メジャーリーグでの日本人選手の活躍を見ぬまま去ってしまった。

 

実は急逝する約1週間前、山際さんは「サンデースポーツ」のキャスターを普段通り務めていた。

その時の山際さんは、一目で病魔に侵されているとわかるほど、顔は痩せていたのである。

山際さんのパートナーを務めていた草野満代氏は、痩せた山際さんを見て驚いたものの「大丈夫ですか?」という声すら掛けられなかったという。

この人に、答えを無理強いしてはいけない、と。

 

体調を崩した時、山際さんは医者に向かって言った。

「長いものを書きたいので、病名を教えてくれませんか」

山際さんの、物事を冷静に見極めるという習性は、自らの病に向けられた。

そして、医者から治療方法とその時間を聞き、仕事のスケジュールが空いた時間を利用して治療に充てた。

山際さんが癌の告知を受けた時、山際さんの妻である犬塚幸子さん(ペンネームは山際澪)は、山際さんからこう言われたという。

「癌だって。参ったね。君、大丈夫?」

なんと、自分のことよりも真っ先に妻のことを心配したのだ。

さらに、今後の治療についてはこんな考えを示した。

「病気は自分の意思とは関係ないところからやって来た。仕事は僕の意思でやっている。だから僕は、自分の意思でやっている仕事を優先する。自分の意思とは関係ない病気に対しては、空いた時間に治療すればいい」

講談社「急ぎすぎた旅人―山際淳司」山際澪:著)

 

ある日、幸子さんは一人息子を連れてママ友たちと一緒にテーマパークへ行った。

フランスから来た大道芸人のショーを見てみんな笑っていたが、ふと、

「あの人が入院しているのに、それを知っているのは私だけ。寂しい思いで見ているのも私だけ」

と思ってしまい、悲しくて涙が溢れそうになったという。

ママ友たちと別れた後に病院へ行き、「とても悲しくなった」とその時のことを山際さんに話した。

すると、山際さんは答えた。

「ないものをカウントすると、寂しくなるのは当たり前だよ」

と。

「それよりも『あるもの』をカウントしたらいい。自ずから不安なんてなくなるよ」

と、さらに続けた。

幸子さんはハッと気付いて、

「今、この人と一緒にいて、看病できる時間が幸せなのに、私は何を考えていたんだろう」

と気が楽になったという。

ちなみに幸子さんは、自分の夫のことをずっと「山際さん」と呼んでいたのだそうだ。

(中公文庫「みんな山が大好きだった」あとがきより)

 

山際さんが亡くなって19年。

僕は今年、山際さんの享年と同い年になった。

幸いなことに、僕はまだ生きている。