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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

プラスティック・タイムマシーン

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もしタイムマシンが存在するのなら、自分が生きてきた時代に戻って、未来はこうなっているんだぞ、と昔の自分に教えたいと思ったことはないだろうか。

 

たとえばラグビー・ファンなら、2019年にラグビー・ワールドカップが日本で行われて、日本代表が決勝トーナメントに進出するという大躍進、日本中にラグビー・ブームを巻き起こした、と過去の自分に教えてあげたいだろう。

1995年、南アフリカで行われた第3回ラグビー・ワールドカップで日本代表は、ニュージーランド代表(オールブラックス)に17-145という大惨敗を喫して、日本のラグビー人気は最低限に落ち込んだ。

その後もラグビー日本代表は低迷を続け、ワールドカップでは全く勝てない時期が続いたが、2015年のワールドカップオールブラックスと並ぶ強国の南アフリカ代表(スプリングボクス)を34-32で撃破したのである。

スプリングボクスと言えば、日本代表が17-145と大惨敗した年のワールドカップで、そのオールブラックスを決勝で破って優勝した世界最強チームだった。

そんなスプリングボクスに、日本代表が勝つなど、誰も信じてなかったのだ。

そして日本代表は4年後の自国開催で、堂々のベスト8入りを果たした。

こんなこと、1995年当時の自分に話しても、全く信じないだろう。

 

同じ現象が、2021年の野球界にも起こっている。

言うまでもなく、メジャー・リーグ(MLB)のロサンゼルス・エンゼルス大谷翔平のことだ。

今でこそ日本人メジャー・リーガーは珍しくもないが、かつては日本人がメジャーに通用するわけがないと思われていたのである。

 

1985年、日本最高のクローザーだった江夏豊がメジャーに挑戦、ミルウォーキー・ブルワーズのキャンプに参加したが、開幕直前に解雇を言い渡され、メジャー昇格はならなかった。

翌1986年にはMLBオールスター・チームが来日、日本(NPB)オールスター・チームと対戦したものの、日本はMLBに1勝6敗と大惨敗を喫したのだ。

この時の日本の四番打者は、この年に2年連続3回目の三冠王を達成した落合博満

投手の江川卓、打者の落合を中心とする全日本はメジャーにもかなり善戦するのではないかと期待されたが、実際には全く歯が立たなかったのである。

 

落合がメジャーの投手から放たれた投球を完璧に捉え、打球は一直線にスタンドを目がけるかと思われた。

落合もホームランを確信してベースを一周しようと思ったが、打球は失速し、単なるセンターフライに終わったのである。

このシリーズで使われていたボールは、NPBとMLBの間を取った中間球。

MLBの公式球よりも小さくて飛びやすいボールだったにもかかわらず、そして当時の日本の球場はアメリカのボールパークよりも遥かに狭かったにもかかわらず、2年連続三冠王の落合はスタンドにボールを運ぶことはできなかった。

ちなみに、この年の落合のレギュラー・シーズン成績は、50本塁打、打率3割6分、打点116という、堂々たる三冠王

しかし、このシリーズのMLBとの対戦では、ホームランは打てず、打率も2割台に低迷したのである。

このシリーズでのMLBのホームランは19本、日本は僅かに2本と、圧倒的なパワーの差を見せ付けられた。

落合は、「日本野球がメジャーに追い付くのは半永久的に無理」と完全にシャッポを脱いだのである。

別の日本人選手は「肉を食っている連中と、米を食っている日本人では、パワーが違いますね」と諦め顔だった。

 

さらに翌1987年には、アトランタ・ブレーブスで四番打者だったボブ・ホーナーがヤクルト(現:東京ヤクルト)スワローズに入団。

それまで、日本の球団にやって来る外国人と言えば、3Aクラスのマイナー・リーガーか、メジャーで実績があると言ってもとっくの昔に盛りを過ぎたロートルというのが相場だった。

しかしホーナーは、30歳前後で脂がのり切った、まさしくバリバリのメジャー・リーガーだったのである。

 

ホーナーの日本デビューは鮮烈だった。

開幕から遅れて来日したホーナーは、5月5日の初試合、阪神タイガース戦の第3打席で早くもホームラン。

翌日の5月6日の阪神戦では1試合3ホーマーを記録して、日本にホーナー・フィーバーを巻き起こしたのである。

今では想像できないほど、プロ野球が注目されていた時代だったが、それでも外国人選手が野球ファン以外の人も巻き込んで大ブームを生んだのは極めて異例だった。

 

ホーナーは、シーズン途中の入団だったため、タイトルには手が届かなかったものの、僅か93試合で31ホーマーを放ち、ホームラン率ではダントツだった。

ちなみに、この年の落合のホームラン数は125試合で28ホーマーである。

 

しかしホーナーは、たった1年で日本を去り、MLBの世界へ戻った。

「日本のベースボールは『野球』という名の、別のスポーツだ」

という捨て台詞を残して。

つまりホーナーは「日本の野球は、アメリカのbaseballとは全く異質の、レベルの低いスポーツ」と感じたのである。

 

ところが、MLBのセントルイス・カージナルスに移籍したホーナーは、60試合の出場に留まり、僅か3本のホームランしか打てなかったのである。

この惨憺たる成績に、ホーナーはメジャー復帰後、たった1年で引退を余儀なくされた。

日本の「レベルの低い野球」に慣れてしまったホーナーは、メジャーのベースボールで通用しなくなったのである。

 

そもそも、来日以前のホーナーだって、ブレーブスの四番打者だったとはいえ新人王以外のタイトルとは無縁の選手だった。

地元のアトランタではスターだったものの、全米で見ればさして有名な選手ではなかったのである(同僚のデール・マーフィーはまさしく全米のスーパースターだった)。

そんなホーナーでも、レベルの低い日本野球では大フィーバーを巻き起こした。

 

落合が言うように「日本野球はメジャーには半永久的に追い付けない」と思われていたが、その壁をブチ破ったのが1995年にロサンゼルス・ドジャースへ移籍して奪三振ショーを繰り広げた野茂英雄である。

投手では日本選手でもメジャーで通用すると証明した野茂だったが、野手では2001年にシアトル・マリナーズへ移籍したイチロー首位打者を獲得した。

 

だが、日本人選手がメジャーで通用したのは、投手かアベレージ・ヒッターである。

日本人のパワー・ヒッターがメジャーで通用するのかどうかは、判らずじまいだった。

 

日本からホームラン打者がメジャーに殴り込んだのは、2003年にニューヨーク・ヤンキースへやってきた松井秀喜

しかし前年、日本では50本塁打を放ってホームラン王に輝いた松井も、メジャー1年目では僅か16本塁打に留まった。

期待外れの成績に、アメリカのメディアからは「ゴロキング」という有り難くないニックネームを頂戴している。

翌年はメジャーの水に慣れて31ホーマーを放ったが、タイトル争いとは縁遠かった。

それでも筆者は「日本人でもメジャーで30本塁打を放つ選手が現れたか」と感嘆したが、日本ではダントツの長距離砲だった松井でさえ、メジャーでは中距離砲に過ぎなかったのである。

 

そこへ、大谷翔平が現れた。

現時点(2021年7月11日現在)での大谷は、約半分の83試合で松井を超える33ホーマーを放ち(松井の最高記録は162試合で31ホーマー。ちなみにホーナーは『レベルの低い日本野球』で93試合の31ホーマー)、投手としても4勝1敗、防御率3.49の成績を残している。

「レベルの低い日本野球」でも、投手と打者の二刀流なんて既にマンガだが、かつては日本人選手が手の届かなかった「メジャーのベースボール」でも、大谷は二刀流を実現してしまった。

日本人では到底かなわないと思われたパワー部門でも、ホームラン王争いで大谷が首位独走、さらに投手としては奪三振ショーを繰り広げている。

 

もし、筆者がタイムマシンに乗って、1986年頃の自分に会い、この事実を伝えたら、当時の筆者はどう思うだろうか。

「俺って、未来ではトンデモないホラ吹き野郎になっているのか」

と幻滅するに違いない。

 

hitomi/プラスティック・タイムマシーン

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