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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

アリゾナの風となった黄金左腕

先日は1995年に起きた阪神・淡路大震災について書いたが、この年はあらゆる意味で日本にとってターニングポイントになった年だ。
この年、震災以外でも日本中が注目した出来事があと二つあった。
一つはオウム真理教による地下鉄サリン事件
もう一つは、野茂英雄が日本人として二人目のメジャーリーガーになったことだ。


そして今日、ダルビッシュ有テキサス・レンジャーズと6年間で総額6000万ドルという、日本人で史上最高額の契約を結んだ。
今でこそ日本人メジャーリーガーは珍しくないが、17年前に野茂がメジャー挑戦と伝えられた時には、本当に日本人選手がメジャーで通用するのか?と誰もが半信半疑だったのである。
当時の野茂は26歳で、既に日本球界のエースだった。
そんな地位にある選手が、全てをなげうってメジャーに挑戦するのは、あまりにもリスクが大きかったのだ。
そう考えると、野茂の勇気ある行動がなければ、ダルビッシュがそうおいそれとメジャー挑戦とはならなかった可能性もある。


ちなみに、野茂が日本人二人目のメジャーリーガーと書いたが、日本人初のメジャーリーガーはマッシーこと村上雅則投手だった。
と言ってもマッシーは最初からメジャーを目指していたわけではない。
野茂がメジャーリーガーになる31年前の1964年、南海ホークスに入団2年目の時に野球留学という形でサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aチーム、フレスノ・ジャイアンツに参加したのだった。
マッシーはフレスノで活躍し、ジャイアンツ首脳陣の目に留まり、その年の9月にいきなりメジャーに昇格した。
1Aから2A、3Aを素っ飛ばしてのメジャー昇格は異例で、マッシーにとって全く思いがけない形で日本人初のメジャーリーガーとなった。
しかし翌1965年、マッシーの保有権を巡ってジャイアンツと南海が対立、結局その年はジャイアンツに所属し、その翌年以降は南海が保有権を持つということで合意した。
したがって、それから野茂がメジャー入りするまでの30年間は、一人も日本人メジャーリーガーはいなかったのだ。


だが、それまでメジャーを目指した日本人選手がいなかったわけではない。
たとえば読売ジャイアンツに所属していた小川邦和投手などがメジャーに挑戦したが、夢は叶わなかった。
しかも小川は日本球界で目を見張るような成績を挙げていたわけではなかったので、日本でもほとんど注目されなかった。
ところが、マッシーがメジャーに在籍した最終年の20年後、野茂がメジャー入りする10年前に、一人のビッグネームがメジャーに挑戦した。
「孤高のサウスポー」江夏豊である。


江夏は1967年に阪神タイガースに入団。
以降は左腕からの快速球を武器に阪神の大エースとして君臨し、数々の大記録を打ち立てた。
入団2年目の弱冠20歳の時には、401奪三振という世界記録を樹立。
1971年のオールスターゲームでは空前絶後の夢の9連続奪三振を記録した。
しかし孤高の性格は「わがまま」「自分勝手」と言われ、事あるごとにチームメイトや首脳陣と衝突。
さらに酷使され続けた左腕は速球の威力を失い、先発完投が困難になり、遂に1976年には南海にトレードに出された。
その後は流浪の野球人生を送る。


だが、南海の選手兼監督だった野村克也に、
「今までの投手は先発完投が当たり前やったが、打高投低のこれからの野球は投手分業制の時代や。リリーフ・エースとして球界に革命を起こしてみい」
と言われた。
まだ日本野球に「クローザー」なんて言葉がなかった時代、先発完投にこだわり続け、リリーフ転向を固辞していた江夏は「革命」という言葉がいっぺんに気に入り、クローザーとなった。
速球派の先発完投型から、技巧派のクローザーへの華麗なる転身である。


南海では野村解任事件で球団と対立し広島東洋カープに移籍、ここで野球人生で初めての優勝と日本一を経験する。
しかし2年連続日本一になった広島でも首脳陣とギクシャクし、僅か3年で日本ハム・ファイターズにトレードされる。
そして弱小球団の日本ハムも江夏の加入によって優勝し、江夏が所属した球団が3年連続リーグ優勝、優勝請負人と言われた。
だが日本ハムも僅か2年で退団、当時最強だった西武ライオンズに移籍した。
まだフリーエージェント(FA)制度がなかった時代、チームの中心選手がこれだけトレードされるのは珍しい。
これこそ江夏が一匹狼と言われる所以である。
そして一匹狼の江夏が、当時は管理野球を標榜する西武の監督だった広岡達郎とソリが合うわけがない。
当然、江夏と広岡は対立し、シーズン後半は完全に干されてしまい、江夏は西武を自由契約となった。
36歳の一匹狼に、獲得を名乗り出る球団はなかった。


しかし、江夏はまだやれる自信があった。
「ムース(野村克也のこと)のように、ボロボロになるまでやって燃え尽きたい」
と。
朗報は、太平洋を飛び越えて渡ってきた。
当時、ミルウォーキー・ブルワーズでパートタイム・スカウトを担当していた団野村が、ブルワーズのキャンプ(スプリング・トレーニング)に参加しないか、と誘ってきた。
団野村とは野村克也の義理の息子であり、野茂や今回のダルビッシュの代理人を務めた男である。
江夏にとってメジャー挑戦は全く考えていなかったが、渡りに船とはこのことだ。
江夏は招待選手としてブルワーズのキャンプに参加することになった。


1985年2月21日、江夏はアリゾナ州サンシティにあるピオリア球場にいた。
ブルワーズのキャンプ初日である。
しかしいきなり、投手コーチが日本の一匹狼にカミナリを落とした。
「なんだ、その靴は!?運動靴で投球練習する気か!」
日本では自由な練習が許されていた江夏は面喰った。
日本プロ野球206勝193セーブの大投手でも、ここではただのルーキーである。
江夏は慌ててロッカールームに戻り、スパイクに履き替えた。


日本とは何もかもが違い、江夏は戸惑いを隠せなかった。
日本のキャンプは、2月1日に全球団が一斉にスタートする。
12月と1月は野球協約により球団が選手を拘束できないためだ。
だが、当時は「合同自主トレーニング」という奇妙な名前の事実上のキャンプが、1月上旬から行われていた。
合同自主トレとキャンプとの違いは、ユニフォームを着ているか否か、である。
しかしこれでは野球協約に違反すると、選手会の反対によって現在では指導者付きの強制的な合同自主トレは禁止されている。
とはいえ、合同自主トレが堂々と行われていた時代でも、江夏がこれに参加することはなかった。
「自主トレなんやから、参加するかしないかは個人の自由やろ」
という当然の理由だったが、このあたりも一匹狼と呼ばれる面目躍如と言えよう。
もちろん、江夏ほどの実績があるベテランに、参加を強制する首脳陣もいなかった。
江夏はオフシーズンには1月31日まで遊びまくり、2月1日のキャンプからは野球モードに切り替えて1ヶ月間鍛え抜く、というスタンスを貫いていた、


ところが、アメリカのキャンプ開始はチームによって違うが、日本よりも約20日も遅い。
しかもバッテリー組集合が2月20日前後、野手組集合が2月25日前後とバラバラである。
そして3月上旬ぐらいにオープン戦(アメリカではエキシビジョン・ゲームと呼ぶ)が本格化するのは日米共通だが、日本では2月が終わるとキャンプが打ち上げられるのに対し、アメリカではオープン戦真っ只中の3月中でもキャンプは続く。
もっとも、それが練習と呼べるのかどうかはわからないが。
要するに、オープン戦が本格化しても、キャンプ地から離れるわけではないのだ。


前述のようにこの年のブルワーズのキャンプ初日は2月21日。
江夏もさすがにこれでは自主トレしないわけにもいかず、イースト・ロサンゼルス市立大学のグラウンドを借りて団野村と約1週間の自主トレを行った。
そして2月20日にアリゾナ州サンシティ入り。
モーテルのような宿舎に入る間もなく、ピオリア球場に直行した。
江夏は日本球界で最高給とも言える推定年俸約8000万円を手にしていた。
当時はまだ、日本人で1億円プレーヤーなんていない時代だったのだ。
江夏の約8千万円の年俸は、破格と言っても良かった。
しかしアメリカでは、週給僅か175ドル。
キャンプの間だけ支払われるこの僅かな給料で生活しなければならない。
モーテルのような宿舎で寝泊まりしていたのは当然のことだったのだ。


日本のキャンプには4勤1休というように休日があるが、アメリカのキャンプには休日はない。
その代わり、練習時間は極端に短く、朝10時ごろに始まり、たいてい正午過ぎには終わってしまう。
長くても午後2時ぐらいまでだろう。
ある日の江夏は、球拾いだけで練習が終わり、
「楽でいいが、こんな練習で本当にいいのか?」
と日記に綴っていた。


キャンプ開始から一週間後の2月28日、野手組もキャンプに合流して、江夏は初めてフリーバッティングに登板した。
アメリカのフリーバッティングは、日本流の打者に打たせるための練習と違い、投手と打者の真剣勝負である。
江夏は打者の構えからクセを読み取り、メジャーリーガーたちにジャストミートを許さなかった。
ジョージ・バンバーガー監督も江夏の投球内容にはご満悦で、
「さすが日本で実績を残した投手。制球力および打者との駆け引きは素晴らしい」
と、日本の報道陣に対して、メジャー入りの可能性は高い、と示唆した。
3月4日の紅白戦でも好投し、江夏株はまた上がった。


「江夏、メジャー入りの可能性高し!」
日本メディアが過熱する一方、アメリカのメディアも江夏に注目し始めた。
キャンプに取材に来た全米ネットのテレビ局に対し、江夏は言い放った。
「ワシは日本では一匹狼と言われた男。同じくアメリカの一匹狼と言われたレジー・ジャクソンから三振を奪いたい」
全米ネットでのインタビューで放たれた江夏の言葉に、全米中が仰天した。
極東から来たヤツが、偉大なるレジーから三振を奪う!?
イナーツ(江夏)はなんてビッグマウス野郎なんだ、誰もがそう思った。
レジー・ジャクソンと言えば「ミスター・オクトーバー」と言われ、ポストシーズンに滅法強かった男。
通算563本塁打の実力もさることながら、ニューヨーク・ヤンキースの名物監督だったビリー・マーチンや、独裁オーナーのジョージ・スタインブレナーにもケンカを売り、最も存在感のあるメジャーリーガーだった。
江夏が実績のある投手と言っても、所詮はレベルの低い日本野球でのことだろ。
そんなヤツがレジーから三振宣言などおこがましい!
全米の野球ファンはそう思ったに違いない。


だが江夏は、メジャーリーガーをキリキリ舞いさせた実績があった。
プロ2年目の、シーズン401奪三振をした年。
江夏のメジャー挑戦から遡ること17年前、1968年のことである。
この年の秋に来日したセントルイス・カージナルスに対して、江夏は2試合に登板した。
当時のカージナルスには盗塁の神様、ルー・ブロックがいたが、江夏は合計9イニングを投げて被安打4、15奪三振で無失点という、完璧なピッチングを披露した。
この江夏の投球に対し、カージナルスレッド・シェーンディーンスト監督は、
「こんなサウスポーはメジャーリーグにもいない。こんな凄い投手を初めて見た!」
と絶賛した。
前にも述べたように、この時の江夏は弱冠20歳。
そもそも20歳でメジャーに上がれる選手なんてほとんどいない。
しかし江夏は、名うてのメジャーリーガーたちを全く寄せつけなかったのだ。
「メジャーリーガーと言っても全然怖くなかった。シーズン中と違って気楽にやってるんだろうけど、ド真ん中に投げてやっても全然打てないんだもの。王さんや長嶋さんの方がずっと怖いですよ」
という言葉を残して。


時計の針を1985年に戻すと、3月13日に江夏がオープン戦初登板した。
地元のサンシティでのサンフランシスコ・ジャイアンツ戦である。
この試合で2イニングを投げ、無安打無失点と完璧なピッチング。
江夏株はまた上がった。
ところがその翌日、江夏はトンでもないものを見てしまった。


キャンプに参加していた投手メンバーは総勢26名。
しかし江夏がオープン戦に登板した翌日には、8名がカットされたのである。
メジャーの厳しい生存競争を目の当たりにした瞬間だった。
開幕メジャーに登録される投手メンバーは10名。
現在残っているのは18名となり、もちろん江夏はその中に入っていたが、6名いる左投手は全員生き残っていた。
まだまだ江夏にとって厳しい戦いは続く。


3月18日、シアトル・マリナーズ戦でオープン戦2度目の登板となった江夏は、2イニングで1安打無失点という、上々の内容。
メジャー昇格への期待が大きく膨らんだ。
日本メディアも毎日のように江夏の動向を報じていた。
「江夏、開幕メジャーも夢ではないぞ!」
と。
バンバーガー監督も手放しで江夏の投球術を褒めた。


しかしそれでも、江夏の心は晴れなかった。
実はこの前日、またしても厳しい現実を見せられたからだ。
朝のロッカールームに行くと、メキシコ人の若い左投手が荷物を整理していた。
前の日の試合で打たれたため、解雇を言い渡されたのだ。
「朝からイヤなものを見てしまった」
と江夏は日記に綴っている。
イヤなものどころか、ライバルの左投手が解雇されたのだから、江夏にとっては喜ばしい事態ではないのか。
だが江夏にとって、若きメキシカンのサウスポーの姿は、明日の我が身に思えて仕方がなかった。
一匹狼たる江夏も、とても他人の不幸を喜べる心境ではなかったのだ。
これでサウスポーは江夏を含めて5人となった。


そして迎えた3月23日の、サンディエゴ・パドレス戦でのオープン戦3度目となる登板。
アッパースイングで振り回してくる右打者に対し、外角低めにコントロールされた速球を投げ込み、計算通り外野フライに打ち取った。
と思った瞬間、江夏は信じられない光景を目にした。
平凡なセンターフライと思った打球が、そのまま右中間スタンドに飛び込んだのである。
江夏は我が目を疑った。
失投をホームランされるのは仕方がない。
だが、計算通り投げた球を、ホームランされたのは初めての経験である。
右打者が完璧な外角低めのコースを、流し打ちで苦もなく広い右中間スタンドに放り込んでしまったのだ。


パワーが違う。
江夏がメジャーリーガーの恐ろしさを骨の髄まで思い知らされた瞬間だった。
日本球界で百戦錬磨の実績を築き上げた江夏が、初めて投げるのが怖くなった。
どんな球種を投げても、どのコースにボールを投げても、全てのボールがあのパワーの前にホームランを打たれるのではないか、と思ってしまったのである。


この日を境に、江夏のピッチングは大幅に狂った。
3月26日のシカゴ・カブス戦では1イニングで4安打2四球の4失点。
バンバーガー監督は試合終了後、
「ナッツ(江夏)のメジャー入りの可能性は68%」
とインタビューで答えたが、これは江夏の背番号である68に引っ掛けたブラック・ジョークで、実際には50%以下に急落したに違いない。
3月30日のオークランド・アスレチックス戦では、2イニングを投げてホームランを含む4失点。
江夏はまさしく崖っぷちに立たされた。


だが江夏には、最後のチャンスが残されていた。
4月2日の、カリフォルニア・エンゼルス戦である。
開幕直前のこのカードが、おそらく江夏にとって最後の登板になるだろう。
この試合で打たれたら、招待選手たる江夏は間違いなく解雇だ。
しかしここで好投すれば、メジャー入りも夢ではない。
そして何よりもエンゼルスには、江夏が三振に斬って取って見せると豪語した、あのレジー・ジャクソンがいたのだ。


江夏はメジャー昇格を目指して、オープン戦とはいえギリギリの戦いをしている。
もちろん、他の若い選手たちも同じだ。
しかしレジーは違う。
開幕メジャーを約束されているスーパースターのレジーにとって、オープン戦などファンに対する顔見世興行に過ぎないのだ。
したがってレジーは、このオープン戦はほとんど眼中になかったに違いない。


だがレジーの視線の先には、江夏の姿があった。
自分を三振に斬って取ると全米に宣言した男を。
江夏は4回裏から登板し、そして5回裏、遂にレジー・ジャクソンとの対決を迎えた。
この時の江夏は、レジーの頭のテッペンから足の爪先まで、じっくりと見たという。
ランナーを二塁に置いた場面、江夏は外角低めに絶妙のチェンジアップを投げ込んだ。
しかしレジーは、いつものフルスイングを封印し、ジャストミートで対応した。
エキシビジョンではなく、公式戦のつもりで江夏に牙を剥いたのだ。
打球はセンター前に落ち、江夏は失点を免れることはなかった。
結局この試合で江夏は2イニング投げて2失点。
日本の一匹狼・江夏は、アメリカのローンウルフ・レジーに引導を渡された。


試合後、ロッカールームでたたずむ江夏に、1本のバットが贈られた。
贈り主はレジー・ジャクソン
そのバットには、レジーのサインが添えられていた。
「Good luck(幸運を祈る)」
と。
翌日の4月3日、江夏は球団から解雇を言い渡された。
こうして、江夏の43日間にわたる36歳のメジャー挑戦は終わりを告げた。


江夏との投手10人枠の最後の一席を争ったのは、若いメキシコ人の左腕投手であるテッド・ヒゲラだった。
当時のヒゲラは妻と二人の子供を養っていく身だった。
しかし、マイナーリーグの給料では生活するのも厳しい。
そしてヒゲラは故郷の家を売り払い、全てを賭けてブルワーズのキャンプに参加したのだった。
キャンプ中の給料は、前述したように週給175ドル。
日本球界で高額年俸をもらい、一人身だった江夏(当時の江夏は夫人と別居中であり、その後まもなく離婚した)に比べて、一家4人で週給175ドルは相当苦しかっただろう。
練習が終わっても暑いさなか、ビールの一杯も呑めやしない。
見かねた日本人の記者が、ヒゲラに缶ビールを手渡した。
ヒゲラは済まなさそうに礼を言い、缶ビールを抱えてそそくさと宿舎に消えた。
そんな男が、江夏に勝ったのだ。


江夏はヒゲラに敗れたが、ヒゲラがメジャー昇格を家族全員で泣いて喜ぶ姿を見て、
「いいものを見せてもらった」
と思ったそうだ。
普通なら他人を妬むところなのに、一匹狼の江夏は、実は人一倍優しい心の持ち主なのだ。


メジャーに昇格したヒゲラはその年に15勝を挙げ、見事に一本立ちした。
さらに翌年の1986年には20勝を挙げ、全米オールスターにも選ばれて来日し、全日本と対戦した。
MLB選抜×NPB選抜の試合はこの年が初めてだったが、第一戦でヒゲラと落合博満が対戦したのは憶えている。
当時の落合と言えば、2年連続3回目の三冠王を達成した、全日本の押しも押されもせぬ四番打者。
しかし落合は、ヒゲラの高めの速球を空振りして三振を喫し、全く歯が立たなかった。
この光景を見た時、日本最高の打者でもメジャーの投手には手も足も出ないのか、と落胆したものだ。
このヒゲラが、江夏に勝った男だと知ったのはもっと後のことである。


江夏はこの時、ヒゲラと会って旧交を暖めていた。
この時のヒゲラとその夫人は、一流のブランド品を身に纏い、キャンプで自分とメジャー入りを争っていた頃とは全くの別人だったという。
缶ビールを有り難く恵んでもらっていたヒゲラの姿とはかけ離れていた。
でも、
「イナーツ!元気かい?」
と話しかける姿だけは、変わることはなかった。


結局、江夏のメジャーリーグ挑戦は失敗に終わった。
でも、決して無駄な挑戦ではなかったと思う。
江夏のメジャー挑戦が、10年後の野茂のメジャー挑戦に繋がったと思えてならないのだ。


野茂がメジャー挑戦したのは、江夏より10歳若い26歳の時。
この頃には既に日本にもFA制度があったので、野茂がFAの権利を獲得すればメジャー挑戦は可能だったのだ。
しかし、FAを待っていると全盛期を過ぎてしまい、メジャー挑戦も失敗する公算が高い。
当時はまだポスティングなんて制度すらなかったのだ。
そして野茂は団野村と相談して、日米協定の穴を見つけて無理やり任意引退を勝ち取り、強引にメジャー挑戦に突き進んだ。


野茂が年数がかかるFAではなく26歳という年齢にこだわったのは、全盛期のストレートが通用する間にメジャー挑戦したかったのだろう。
当時の野茂の行動は「わがまま」と批判されたが、その影には江夏の姿があったのではないか。
江夏ほどの投手が全盛期を過ぎればメジャーに通用しなかった。
ならば自分は、全盛期でメジャーに挑戦し、成功したいと思ったのも当然だろう。
いわば江夏は、10年後の野茂のメジャー挑戦を後押ししたと言える。


そういう意味でも、江夏のメジャー挑戦は決して無駄ではなかったと思えるのだ。
もし江夏の存在がなければ、野茂やイチロー、松井、松坂、そしてダルビッシュのメジャー挑戦があっただろうか?