カウンター

安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

悲運のラガーマン

昨秋のドラフト会議から今年の春季キャンプにかけて話題をさらったプロ野球選手と言えば、ドラフト7位で北海道日本ハム・ファイターズに入団した大嶋匠捕手だろう。
なぜたかがドラフト7位の無名選手が注目されたかと言えば、大嶋には硬式野球経験がなく、早稲田大学時代はソフトボール部だったからだ。
野球経験がない選手がプロ野球入りするというのは極めて異例だ。
かつて東京オリオンズ(現在の千葉ロッテ・マリーンズ)に所属した飯島秀雄は100m10秒1を記録した陸上短距離選手で、代走のスペシャリストとして入団したが、例外とすれば彼ぐらいか。


本の学校の運動部はシーズン制ではなく専門的にプレーするので、他のスポーツとの掛け持ちという例は少なく、例えば高校や大学でサッカー部だった選手がプロ野球入りすることはまずない。
アメリカではバスケットボールのスーパースターだったマイケル・ジョーダンマイナーリーグ入りしたが、これは学生時代に野球も経験していたから可能だったのであり、それでももちろんメジャーリーグに昇格することはなかった。


つまり、プロスポーツ選手になるにはアマチュア時代にそのスポーツを経験することが必要だが、その法則に当てはまらないスポーツもある。
プロレスである。


プロレスラーにはアマチュア時代にレスリングを経験したことがない選手が五万といる。
例えば日本のプロレスの父・力道山は大相撲出身だし、力道山の死後に日本マット会を二分したジャイアント馬場プロ野球出身、アントニオ猪木陸上競技出身だ。
ジャンボ鶴田長州力以降、レスリング出身選手も多くなったが、他競技出身者の方が圧倒的に多いだろう。


しかも「アマチュア・プロレス」なんていうわけのわからん言葉もある。
プロレスとは当然プロフェッショナル・レスリングの略であり、アマとプロという相反する言葉が同居するのはおかしい。
だったらアマチュア・レスリングと呼べばいいじゃないかとも思えるが、そういうわけにもいかない。
単にレスリングと言えばそれはアマチュア・レスリング(アマレス)のことを指し、プロレスとは全くの別物だからだ。
プロ野球とアマ野球が全く違う競技ということは有り得ないが、プロレスとアマレスではこのややこしい関係が成立する。


まず、プロレスはボクシングと同じようにロープで囲まれた四角いリングで行われるが、アマレスは平坦で円が描かれたマットで競技する。
相手の両肩をマットに着ける(ピンフォール、あるいは単にフォール)という目的は一緒だが、プロレスでは3秒、アマレスでは1秒で勝利と大きく違う。
プロレスでは打撃技が認められているが、アマレスでは打撃技は禁止だ。
アマレスではフォールがなくてもポイント制による判定で勝敗が決められるが、プロレスにポイント制などない。
しかもプロレスでは5秒以内に反則をやめればOKという、トンでもないルールもある。


これはもう、野球とソフトボールの違いどころではない。
野球とキックベースほどに違うだろう。
そんな全然違う競技なのに、同じ「レスリング」と呼称しているからややこしいのだ。
まあ「レスリング」というのは広義的には「格闘」という意味なのだから、決して間違えているわけではないが……。
村松友視の名著「私、プロレスの味方です」には、
「プロレスとはプロのレスリングではなく、『プロレス』としか呼びようがない、鬼っ子のようなジャンル」
と書かれていたが、言い得て妙だろう。


ところで、手許に1976年(昭和51年)発行の百科事典がある。
そこで「プロレスリング」の項を引いてみた。
当時の日本プロレス界には現在も続く全日本プロレス新日本プロレス、そして現在は消滅した国際プロレスの3団体があった。
そして記事には、それぞれの団体のスター選手が記されていた。


全日本プロレスジャイアント馬場ジャンボ鶴田
新日本プロレスアントニオ猪木坂口征二
国際プロレスグレート草津


全日本と新日本は納得できるが、国際プロレスのスター選手がグレート草津
確かに草津国際プロレスの有力選手には違いなかったが、一人しか書いていないということはエースというポジションであり、当時の草津国際プロレスのエースとは言えなかったはず。
ストロング小林が新日本に移籍していたとはいえ、当時のエース格は「金網の鬼」ことラッシャー木村だった。
とはいえ、国際プロレスは当時としては珍しい複数エース制を採っており、草津もエースの一人ではあったが、とても一枚看板とは言えなかった。
でも、国際プロレスは確かに草津を大エースに育てようとしていた時期があった。
では、グレート草津とはどんな人物だったのか?


本名・草津正武、1942年(昭和17年)2月13日生まれ、熊本県出身
熊本工業高校でラグビーを始め、高校卒業後は当時のラグビー強豪チームだった八幡製鉄(のちの新日鉄八幡)に就職した。
当時の八幡製鉄は無敵の強さを誇り、かろうじて近鉄が対抗馬に挙げられる、という状態だったが、そんな八幡製鉄の中でも草津はメキメキ頭角を現した。
高卒ながら八幡製鉄で1年目からレギュラーを張り、NHK杯(現在の日本選手権に相当)の優勝に貢献して、ベスト15にも選ばれた。


189cm、93kg(ちなみにプロレスラー時代の公称は192cm、118kg)という恵まれた体で、ポジションは当然のことながらロック。
現在でもロックとして通用する体格だが、当時の日本人ロックとしては最大級の大きさだったのではないか。
しかもこの体格で、100m11秒台の俊足だったというのだから凄い。
オールブラックスの伝説的ウィング、ジョン・カーワン(前日本代表ヘッドコーチ)並みである。
もし現在の日本代表に選ばれて、ウィングを務めれば間違いなくジャパン史上最高のウィングとなるだろう。
当時、ジャパンが世界に誇るウィングだった「フライイング・サカタ」こと坂田好弘と競走しても負けなかったという。


もちろん当時の日本代表にも選ばれ、キャップは1個と少ないが、これは当時の日本代表があまりテストマッチを行わなかったためである。
八幡製鉄も積極的に海外遠征を行い、オーストラリアやニュージーランドのクラブチームと対戦したが、互角以上の戦績を収めた。
草津自身も、敵がいない国内での相手と違い、体格の大きい外国人選手との戦いはスリルがあり、面白かった。
そして一つの思いが頭をもたげてきた。
「海外に出て、体格が大きい外国人選手相手にプレーしたい」
と。


しかし、当時の状況はそれを許さなかった。
八幡製鉄にとって、草津は至宝とも言える選手だった。
そうおいそれと手放すわけにはいかない。


だが、当時のラグビーは所詮アマチュア・スポーツ。
プロ契約なんてない。
いくら会社のPR活動に使われても、高卒の草津が大企業の中で出世するのは無理な話だった。
草津八幡製鉄に辞表を出した。
弱冠23歳。
草津八幡製鉄から、そしてラグビー界から去った。


ラグビーから足を洗った草津は1965年(昭和40年)、日本プロレスに入団。
プロレス界にとって、ネームバリューがあり、体格と運動神経が抜群な草津はスター候補生だっただろう。
アマレス経験者が少なかった当時の日本プロレスに、草津レスリング経験がなかったのは問題とはならない。
草津ジャイアント馬場の付き人となり英才教育を受け、さらに当時のスター候補生に与えられるアメリカ武者修行にも行くことが出来た。
ラグビー時代には思うように出来なかった海外遠征である。


だが、当時の日本プロレスは大きな転機を迎えていた。
草津日本プロレスに入団する前年に、力道山が死去。
大黒柱を失った日本プロレスは迷走を始め、日本プロレスの幹部だった吉原功国際プロレスを設立、日本プロレスの二代目社長だった豊登がギャンブル狂のため追放され、アントニオ猪木を連れたって東京プロレスを興した。
しかし東京プロレスはスキャンダルのため間もなく崩壊、国際プロレスに吸収合併され、猪木は日本プロレスに復帰した。
この時の草津は、自分の思惑とは関係なくプロレス界が大きなうねりを持って激動していたわけだが、世話になっていた吉原に追随する形で国際プロレスに参加した。


力道山ゆかりの日本プロレスは、日本テレビという巨大なスポンサーを持っていて、新興の国際プロレスとは雲泥の差があった。
さらに馬場、猪木という、力道山に代わるスターも育ちつつあった。
そんな国際プロレスが圧倒的不利の中、全国ネット網を持つTBSが国際プロレスを定期放送することになった。
草津のプロレスデビューから3年後の、1968年(昭和43年)のことである。


国際プロレスはTBSプロレスと改称し、テレビの力で老舗の日本プロレスに対抗しようとしていた。
テレビ局が本格的にプロレス興行運営に携わろうとしたのである。
力道山ゆかりの日本テレビによる日本プロレス中継は、あくまでも日本プロレスが日テレに試合を提供する、という関係であり、日本プロレスは日テレから放映権料をもらって経営を成り立たせ、日テレは日本プロレスを放送することによって視聴率を稼いで儲ける、という図式だった。


しかし国際プロレス改めTBSプロレスは違った。
テレビ局がプロレス経営をしようとしたのである。
現在ではアメリカのWWEがこの手法を採っており、別に珍しくないのだが、当時としては画期的だった。
というより、時代を先取りしすぎたのかも知れない。


TBSプロレスには新鮮なスターが必要だった。
そこで白羽の矢が立ったのがグレート草津である。
ラグビーで実績があり、素質も体格もマスクも申し分ない、海外武者修行でプロレスも覚えただろう、ということで、草津をスターダムに乗せようとした。


しかし、草津の相手が問題だ。
名もない外人レスラーに勝ってもインパクトがない。
そこで目を付けたのが「20世紀最強の鉄人、ルー・テーズ」だった。
テーズは世界最高峰とされるNWA世界ヘビー級チャンピオンに何度も君臨した男。
力道山とも死闘を繰り広げ、日本のファンに対してもネームバリューはある。
草津をスターダムに伸し上げる相手としては申し分ない。
しかも、TBSにはテーズを呼ぶだけの資金は豊富にあった。


TBSは国際プロレス(当時のTBSプロレス)をゴールデンタイムで全国中継をする際、大々的な宣伝を行った。
新エースのグレート草津を4週連続でTWWA世界ヘビー級チャンピオンであるルー・テーズに挑戦させる、というものである。
4週連続でチャンピオンに挑戦、という文言がいかにもプロレス的で胡散臭いが、当時はそういう表現がまかり通っていた。
ボクシングで挑戦者が「4回連続でチャンピオンに挑戦!」なんて言われても、じゃあ初戦で挑戦者が勝ったらどうなるの?という話である。
でも当時のプロレスでは、そんなことは日常茶飯事だった。

「NWA世界ヘビー級チャンピオンのドリー・ファンクJr.大阪府立体育館でアントニオ猪木と防衛戦を行い、その1週間後に東京の蔵前国技館ジャイアント馬場と防衛戦を行う」
というスケジュールが発表されていた。
ちょっと待てよ。
じゃあ大阪で猪木がドリーに勝ってNWA世界王座に就いたら、翌週は東京で馬場が挑戦者として猪木とタイトルマッチを行うの?ということになる。
でも、そんなことを質問する記者は皆無だったという。
ただでさえ日本人対決がタブー視されていた時代、猪木に馬場が挑戦するなんて図式が実現するわけがない。
当時の記者は、誰もが”大人の事情”を知っていたのだ。


話を元へ戻すと、TBSの幹部はテーズが草津に負けてくれることを確信し、草津を大々的に売り出すつもりだった。
TBSの幹部は、プロレスにはシナリオがあるものだと思い込み、レスラーはその通りに動いてくれるものと信じていたのである。
プロレスにシナリオがあるのは事実だが、レスラーのプライドを無視して思い通りに動かすことが出来る、とTBSの幹部が考えていたのは誤算だった。


テーズは若い頃からグレコローマン・スタイルレスリングで鍛えられ、その経験を元にプロレスに転向した。
そのレスリング技術をプロレスでも活かして、世界最高峰のNWA世界ヘビー級チャンピオンの座に何度も就いて「20世紀最強の鉄人」と言われるようになったわけだ。


テーズが草津と対戦した時、既に51歳になっていてNWAチャンピオンからは退いていたが、まだまだ全米のメインを張っていてトップレスラーだった。
そんなテーズにとって、グリーンボーイ(新人)に過ぎない草津に負けるなんて、考えられないことだったのである。
草津は体格もいいし、良い素質も持っている。
でも、レスリングは知らない。
タックルひとつ取ってみても、ラグビーのタックルとレスリングのタックルは全く違う。
今の段階で、テーズがレスリング的に未熟な草津に負けるなんて、とても譲歩できなかった。


そんなテーズのプライドは、レスラー出身である国際プロレス代表の吉原には一番よくわかっていた。
そもそも吉原は、レスラーのプライドなど全く無視してマッチメイクを行うTBSに不信感を憶えていた。
だったら、テレビ局が考える以上のアングルを仕掛けてやれ、と。


吉原はテーズに「草津を叩きのめしてくれ」と言い、さらに「このことはTBSには内緒だ」と言った。
つまり、テーズの独断で草津を叩きのめしてくれ、と言ったわけである。
吉原にとって、大スポンサーであるTBSに背くことはできない、でもテーズのプライドを傷付かせるわけにもいかない、だったら事情を知らない外国人のテーズが勝手にやったことにしてやれ、といったところだろうか。
ケーフェイ」なんて言葉がプロレスファンにも知られていない時代の話である。


ともかく吉原がTBSの意向を無視して、テーズに草津を叩きのめすように指示した。
もちろん、そのことは草津にも伝えられていたと思われる。
草津は一本目でルー・テーズの必殺バックドロップを食らい、失神してしまって二本目以降は試合続行不可能として惨敗を喫してしまった。
まさしく国際プロレスの命運が決まった瞬間である。


力道山以来の大スターを生み出そうとしていたグレート草津が、テーズのバックドロップ一発で失神してしまった。
もっともこの失神は、草津自身の演技だったのだが。
TBSが抱いていた壮大なグレート草津の大エース創作計画は完全に破綻してしまった。
4週連続で草津がテーズに挑戦するはずが、第一戦の草津の惨敗により二週目はサンダー杉山、三週目は豊登がテーズに挑戦し、いずれも2−1でテーズが防衛した。
一本目で失神させてしまった草津と違い、アマレスの実績があるサンダー杉山、そして大相撲で鳴らした豊登に一本を与えたのは、彼らは草津とは格が違う、と言いたかったのだろうか。
そして四週目、テーズの相手が出来る日本人選手がいなくなったので、外国人選手のダニー・ホッジがテーズに挑戦した。
脂が乗り切った全盛時のホッジは見事にテーズを2−1で破り、TWWA世界ヘビー級王座に輝いた。
当時としては斬新な、外国人同士によるタイトルマッチだったが、やはり日本人のファンには受けなかった。
現在では外国人同士の試合でも内容が良ければ評価されるのだが、国際プロレスは時代を先取りし過ぎたのだろう。


その後、国際プロレスグレート草津ストロング小林ラッシャー木村といういわゆる「3K」を軸に、複数エース制で全日本プロレス新日本プロレスに対抗しようとした。
しかし、大スターであるジャイアント馬場アントニオ猪木には対抗する術もなく、ジリ貧に追い込まれる。
ストロング小林新日本プロレスに引き抜かれ、グレート草津がエースとしての輝きを失ってからは、国際プロレスは衰退の一途を余儀なくされた。


全日本プロレス新日本プロレスとの熾烈な競争の合間に、国際プロレスはますます窮地に立った。
そして国際プロレスは1981年(昭和56年)に、遂に崩壊したのである。
当時は国際プロレスの吉原代表と近しかった新日本プロレス国際プロレスの選手たちを引き受ける条件だったが、多くの選手がこれを拒否、マイティ井上や阿修羅・原、アポロ菅原らは全日本に入団し、新日本に参戦したのはエースのラッシャー木村の他ではアニマル浜口寺西勇の3人だけであった。
この時すでに、グレート草津の名前はなかった。


グレート草津というのは、どういう存在だったのだろう、と時々考える。
そのままラグビーを続けていれば、スターになっていたはずだ。
でもそれに飽き足らず、プロレスに転身。
しかし、会社から将来の大スターを約束されるも、思わぬボタンの掛け違えでスターダムから外れてしまう。


ある意味、順風満帆に行くはずのグレート草津の人生は、他人の論理に振り回されて不幸だったとも言える。
でもその反面、これだけ様々な体験をできたというのは、草津の人生において大きな財産とも思えるのだ。