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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

最強の称号・チャンピオンベルト物語〜その4

インターナショナル・ヘビー級選手権


1958年、アメリカ合衆国のカリフォルニア州・ロサンゼルス市のオリンピック・オーデトリアムで力道山が「20世紀最強の鉄人」と謳われたルー・テーズを2−1で破った。
力道山は世界最高峰と言われたNWA世界ヘビー級王座に何度も挑み、そのたびにテーズの厚い壁に何度も跳ね返されてきた。
それが敵地でテーズを破り、遂に念願のNWA世界ヘビー級チャンピオンに東洋人として初めて輝いたのである。


ところがNWAの説明によると、この試合はNWA世界タイトルマッチではなく、インターナショナルヘビー級タイトルマッチだということだった。
永くNWA世界チャンピオンとして君臨してきたテーズの功績を称え、インターナショナルタイトルを新設して、その初代チャンピオンにテーズを指名したのである。
そして力道山が勝ったのはNWA世界ヘビー級のチャンピオンであるテーズではなく、インターナショナルヘビー級チャンピオンとしてのテーズだった。


同じレスラーに勝ったにもかかわらず、そのベルトの権威は全く違う。
誰もが認める世界最高峰のNWA王座に対し、同じNWAが認可するタイトルであるインターナショナルには「世界」の二文字は付いていない。
しかも、力道山がテーズを破った時は、インターナショナルのチャンピオンベルトすらなかった。
「ベルトは日本で勝手に作りなさい」というのがNWA側の説明だった。
つまり「インターナショナルなんて日本用のローカルタイトル。あとは勝手に使ってくれて構いませんよ」というわけだ。
こんなにバカにしたタイトルもないだろう。


しかし力道山はインターナショナルのベルトを作り、このタイトルを後生大切にした。
何しろ世界最大のプロレス団体であるNWAが認可するタイトルである。
インターナショナルベルトを柱とし、力道山は同王座を我が物にせんとする外人レスラー達を次々と迎え撃った。
このインターナショナルベルトを巡るタイトルマッチが、日本プロレスの興行を支えたと言っていい。
だが、1963年に力道山は死去。
インターナショナルベルトは力道山一代限りのタイトルとして封印された。


ところが、力道山に代わる新しいスターとしてジャイアント馬場が台頭してきた頃、馬場にインターナショナルベルトを、という機運が高まった。
1965年、馬場は同王座決定戦でディック・ザ・ブルーザー・アフィルスを2−0で破り、見事に第3代インターナショナルヘビー級チャンピオンとなった。
以降、インターナショナルは日本の主砲と呼ばれるようになり、馬場の代名詞的な王座となった。


だが1972年に馬場が日本プロレスから独立、全日本プロレスを設立した際に、インターナショナル王座を返上した。
たとえNWAが認可するタイトルであっても、管理運営しているのは日本プロレスであり、その団体から離脱するのであればベルトは返上するというのがプロレス界の常識だった。
つまり、ベルトはレスラー個人の物ではなく、管理運営するプロレス団体の所有物、というわけである。


空位となったインターナショナルタイトルは大木金太郎ボボ・ブラジルの間で「頭突き世界一決定戦」として争われ、ブラジルが勝って第8代インターナショナルチャンピオンとなった。
その後、大木がブラジルを倒して第9代インターナショナルチャンピオンとなるが、間もなく日本プロレスは崩壊した。


管理団体を失ったインターナショナルベルトはその後も大木が巻き続け、韓国や国際プロレスで防衛戦を行ったが、その価値は疑問視されていた。
プロレス界には「チャンピオンは3ヵ月に一度、防衛戦を行わなければならない」という不文律があり、事実上の一匹狼だった大木には定期的に防衛戦を行うことなど不可能だったのである。


そこでNWAは大木に対し、インターナショナルベルトの返上を勧告し、今後このタイトルは全日本プロレスに管理運営が任されることとなった。
1981年、全日本プロレスでインターナショナル王座決定トーナメントが催され、NWA世界チャンピオン経験のあるドリー・ファンク・ジュニアが優勝、第10代チャンピオンとなった。
しかし若さとパワーに勝るブルーザー・ブロディが防衛戦でドリーを破り、第11代王者となった後はブロディの代名詞的なタイトルとなる。


完全に海外流出した「日本の主砲」インターナショナルタイトルを再び日本人の手に、と、立ち上がったのが全日本プロレスの次期エース、ジャンボ鶴田だった。
鶴田はUN(ユナイテッド・ナショナル)ヘビー級チャンピオンだったが、同王座を返上、インターナショナルベルト奪取に照準を合わせた。
1983年、鶴田はブロディにリングアウト勝ち、久しぶりにインターナショナルベルトが日本人の腰に戻った。


その後、インターナショナルベルトを巡る争いは激化し、特に1988年、ブロディが新日本プロレスに移籍したあと再び全日本プロレスに戻ってきたときに、鶴田にピンフォール勝ちしてインターナショナルベルトを奪還した時は「ブロディ、武道館での涙のインター戦」として永くファンに記憶されることになる。
おおよそ涙など似合わない「超獣」ブロディが、涙を流してインターナショナルベルト奪取の喜びをファンと分かち合う姿は、ブロディ最後の雄姿として有名なシーンだ。
この4ヵ月後、ブロディはプエルトリコで刺殺され、二度と帰らぬ人となった。


ブロディ存命中から、ブロディ、鶴田、スタン・ハンセン、天龍源一郎らによって三冠統一の気運が高まってきた。
三冠とは、インターナショナルヘビー級を含む、UNヘビー級と、PWF(太平洋レスリング連盟)ヘビー級である。
1989年、インターナショナルヘビー級王者だった鶴田が、PWF、UNの二冠王だったハンセンにピンフォール勝ち、初めて三冠を統一した。


現在、インターナショナルヘビー級王座は、全日本プロレス最高峰と言われる三冠ヘビー級王座のうちの一つとなっている。