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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

金網の鬼からマイクの鬼へ

5月24日は、2010年(平成22年)に没したラッシャー木村の命日だった。


木村は大相撲(宮城野部屋)で幕下まで昇進したものの、その後はプロレスに転向し、日本プロレス東京プロレス国際プロレス新日本プロレス、第一次UWF、全日本プロレスプロレスリング・ノアと、実に多くの団体を渡り歩いた。
日本でこれだけ有名なプロレスラーで、これほど移籍を繰り返した人も珍しい。
しかもいずれもインディー団体ではなく、大手団体だ。
さらにそのほとんどが自分の意志というよりは、団体の都合に振り回されていたと言えるだろう。


1964年(昭和39年)、力道山が興した日本プロレスに入団。
力道山は既に死亡していたが、エース格だった豊登道春の付き人を務め、その僅か2年後の1966年(昭和41年)には豊登が興した東京プロレスに参加。
東京プロレスのエースは若かりし頃のアントニオ猪木だったが、猪木より1学年上とはいえプロレスのキャリアが浅かった木村は、挌では猪木とは雲泥の差だった。
だが、東京プロレスの興行は上手く行かず、翌年の1967年(昭和42年)には国際プロレスに吸収され、それを機に猪木は日本プロレスに復帰、木村は国際プロレス所属となった。


1年後の1968年(昭和43年)からTBSが全国ネットで国際プロレスを定期放送し、名称も「TBSプロレス」と改称(のちに「国際プロレス」に戻す)、日本テレビが定期放送する日本プロレスとの対立時代に突入した。
TBSはグレート草津を絶対的エースとして売り出そうとしたが、ルー・テーズに惨敗したためエースとしては定着せず、その後はサンダー杉山、ストロング小林マイティ井上らに受け継がれた。
意外なことに、国際プロレスのお抱えベルトだったIWA世界ヘビー級王座は、木村よりもマイティ井上の方が先に就いたのだった。
マイティ井上は後に全日本プロレスジュニアヘビー級として活躍したぐらいだから、団体のエースと呼ぶのにはいささかスケールが小さかっただろう。


木村を売り出すために考え出されたのが、日本初の金網デスマッチだった。
金網デスマッチとは、リングの周囲を金網で囲い、不透明な決着として有名なリングアウトを無くして、リングの中で完全決着を着ける試合方法である。
木村は金網デスマッチで大奮闘し、毎回のようにおびただしい流血をしながらも連戦連勝、「金網の鬼」という異名をとった。
しかし、正統派勝負を好む日本のプロレスファンに金網デスマッチが受け入れられたとは言い難い。


金網デスマッチは国際プロレスのヒット商品になったものの、興行成績はライバル団体の日本プロレスに遠く及ばなかった。
しかし1971年(昭和46年)、日本プロレスでクーデターが起こり、その首謀者とされた猪木が日本プロレスを永久追放、その煽りを食って馬場も翌年に独立、日本プロレスは二大スターを失うこととなった。
1972年(昭和47年)には猪木が新日本プロレスを、馬場が全日本プロレスを旗揚げし、日本プロレスはジリ貧になってしまい、翌1973年(昭和48年)に遂に崩壊。
日本最古のプロレス団体である日本プロレスに、国際プロレスはタナボタ式に勝ってしまった。
しかし、3団体時代になっても馬場と猪木の人気には敵わず、国際プロレスは「新参者」の全日本プロレス新日本プロレスに対しても大苦戦した。


1974年(昭和49年)はエースのストロング小林新日本プロレスに引き抜かれ、さらにTBSが定期放送を打ち切るなど、国際プロレスにとってはまさしく厄年となった。
幸い東京12チャンネル(現在のテレビ東京)が国際プロレスの定期放送を始めたものの、全国ネット網を持たない東京12チャンネルではますます知名度が下がった。
当時はまだテレビ大阪がなく、関西ではサンテレビやKBS京都といった地域UHF局で東京12チャンネルの放送をしていた。
それまではNWAに次ぐアメリカのプロレス団体だったAWAと提携していたため、バーン・ガニアビル・ロビンソン、ニック・ボックウィンクル、カール・ゴッチ、モンスター・ロシモフ(のちのアンドレ・ザ・ジャイアント)といった実力ある一流レスラーが国際プロレスに登場していたが、もはや彼らに高額なギャラを支払うことは不可能となり、AWAとの関係は消滅した。


翌年の1975年(昭和50年)に木村は初めてIWA王座に就き、名実共に国際プロレスのエースとなったが、相手レスラーはAWA系列の一流レスラーではなく、流血ばかり繰り返す外人レスラーばかりだったため、色物扱いされることが多かった。
台所事情が苦しい国際プロレスの屋台骨を必死に支え、エースがクルクル交代した国際プロレスでは珍しく、木村は6年間もエースの座を務めた。
しかし全日本プロレス新日本プロレスとの差は拡がるばかり。
そして1981年(昭和56年)3月、遂に東京12チャンネルの定期放送を打ち切られた。
全国放送網を持たないとはいえ、貴重な収入源だった東京12チャンネルの放送打ち切りは国際プロレスにとって大打撃だった。
ちなみに僕がプロレスを見始めたのが同年の4月からだったので、テレビでも国際プロレスを見たことがない。
当時はテレビ中継のないプロレス団体が成功したためしがなかったので、国際プロレスの崩壊は時間の問題と見られていた。
そして大方の予想通り同年の8月9日、札幌から遠く離れた北海道羅臼町での興行を最後に、僅かな観客の前で国際プロレスの歴史はひっそりと幕を閉じた。
日本プロレス崩壊以来、最古参団体となった国際プロレスにしては、あまりにも寂しすぎる最期だった。


人気薄だった国際プロレスが人気獲得のために色々な手を打ってきたが、ことごとく外してしまった。
とはいえ、それは国際プロレスの手法がまずかったというよりは、先見の明が有り過ぎたのかも知れない。
例えば木村の代名詞だった金網デスマッチは、後の大仁田厚による数々のデスマッチの先駆けだったとも言える。
複数エース制だって、当時は力道山、馬場、猪木といった絶対エース制が主流だったために受け入れられなかったが、平成プロレスでは闘魂三銃士や全日四天王など当たり前になった。
ストロング小林国際プロレスを脱退して、当時は日本人対決など考えられなかったにも関わらず猪木と対戦して大いに注目されたが、実は前年に小林と木村が国際プロレス内で日本人対決を実現させている。
しかし当時はさほど注目されなかった。
その後はどのプロレス団体でも日本人対決など当たり前になっている。
そう言えば、外国人同士のタイトルマッチを実現させたのも国際プロレスだった。
日本人×外人の戦いが当たり前だった時代、ルー・テーズ×ダニー・ホッジのTWWA世界ヘビー級選手権が行われたが、どちらが勝っても日本人がチャンピオンになるわけではないからと、こちらも注目されなかった。
その後は全日本プロレスザ・ファンクス×ブッチャー&シーク、新日本プロレスのスタン・ハンセン×アンドレ・ザ・ジャイアントなど、外国人同士のカードが目玉興行となっている。
さらに女子部なんていうのもあったが、女子プロレスは男子プロレスからは異端扱いされていた。
でも、大仁田厚のFMWは女子部を創設して成功している。
つまり、国際プロレスは時代を先取りし過ぎた不運な団体だったと言えるだろう。


国際プロレスが崩壊した1981年は、全日本プロレス新日本プロレスとの企業戦争が激化した頃だった。
新日本プロレスタイガーマスク(初代)をデビューさせて空前のブームを巻き起こし、さらに全日本プロレスからブッチャーを引き抜いて一気に優位に立った。
しかし全日本プロレスは報復としてタイガー・ジェット・シンとスタン・ハンセンを抜き返し、まさしく一触即発の状態となった。
そんな両団体の板挟みになった国際プロレスは、崩壊するしか道はなかったのかも知れない。


行き場を失った国際プロレスの選手たちの多くは全日本プロレスに引き取られたが、ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇の3名は新日本プロレスに戦いの場を求めた。
同年9月23日の田園コロシアム、木村と浜口は私服姿で新日本プロレスのリングに立った。
目の前には、メインエベントでの試合を控えているガウン姿のアントニオ猪木が立っている。
東京プロレス時代は、木村にとって一つ年下ながら雲の上の存在だった猪木だ。
アナウンサーが木村と浜口を紹介し、さらにエースの木村に一言喋ってもらおうとマイクを差し出した。
国際プロレスのエースだった木村が猪木に向かってどんな啖呵を切るか、誰もが注目した。
木村は会場のファン、いや全国のファンに向かって言った。


「こんばんは」


このマジメくさった挨拶にファンから失笑が湧いた。
間が悪いことに、前の試合ではハンセン×アンドレという歴史に残る超ド迫力ファイトでファンが酔いしれていただけに、その雰囲気を一瞬にしてブチ壊してしまった。
しかも木村は空気が読めず、その後も、
「我々は今、秩父でトレーニングしています」
などとマジメなスピーチを続けたために、場はますます白けた雰囲気になった。
秩父ってアンタ、東京から電車で行けるやないか。
特訓するならハワイかサイパン、金がなくてもせめて沖縄ぐらい行ってくれ!とプロレスファンは思っただろう。
この挨拶に猪木は失望したのか、酷く不機嫌な表情でアナウンサーからのコメントを拒否した。
「よその団体に上がるから、礼儀として挨拶しただけ。なんで笑われなければいけないのか」
と木村は憤慨したが、その場にいた浜口も、秩父にいたために「こんばんは事件」を後から伝え聞いた寺西も頭を抱えてしまった。
つまり木村は人間としては正しかったが、レスラーとしては間違っていたということだろう。
だが、この「こんばんは事件」が、遥かのちにラッシャー木村というレスラーを輝かせる原点となろうとは、本人や周りの人はもちろん、神様だってわからなかった筈だ。


同年の10月8日での蔵前国技館で、遂にラッシャー木村とアントニオ猪木の一騎打ちが実現。
折しも翌日には、同じ蔵前国技館で全日本プロレスが旗揚げ10周年記念興行を行う予定で、それにケンカを売る形での興行だったのだから、その日のメインエベントに抜擢された木村にとって晴れの大舞台だった。
実は国際プロレス時代、木村は猪木に挑戦状を送っていた。
しかし「誰の挑戦でも受ける」がモットーだった猪木は、
「木村よ、己を知れ。お前はオレの挑戦者としてふさわしくない」
とケンもホロロの扱いだった。
それがようやく、一騎打ちまでこぎつけた。
と言ってもそれは、国際プロレスが崩壊したおかげで生まれたものだったが……。
試合は、木村が反則勝ちを拾って緒戦をものにした。
しかし、試合内容は猪木が攻め続け、ロープブレイクを無視して腕ひしぎ逆十字をかけ続けていたための反則勝ちで、猪木の強さが際立った試合だった。


第2戦、1ヵ月後の11月5日の蔵前では、ランバージャック・デスマッチとして木村×猪木戦が行われた。
ランバージャック・デスマッチとは、リングの周りにレスラーを配置して、戦っている選手がリング下に落ちそうになるとリングの周りにいるレスラーがリングに戻して、あくまでもリング内で決着させるという方法である。
猪木は第1戦でポイントとなった腕ひしぎ逆十字をかけ続け、一方的な試合となったが、木村は意地でもギブアップしなかった。
だが、新国際軍団(当時はそう呼ばれていた)のセコンドがタオルを投げ、木村はTKO負けとなった。
木村は涙を流しながらタオルを投入した新国際軍団のセコンドたちにチョップをふるった。
「オレは腕が折れてもギブアップしない覚悟だったのに、なんで勝手にタオルを投げたのだ」
と。
猪木もそんな木村の根性を認め、木村に握手を求めた。
しかし、猪木(というより新日本プロレス)が木村を立てていたのは、この第2戦までだっただろう。


翌年の1982年(昭和57年)2月9日、大阪府立体育会館での両者の一騎打ちでは、新国際軍団の乱入によって木村がリングアウト勝ち。
木村および新国際軍団はヒールへの道を確実に歩み始めた。
さらにこの頃、木村は猪木との試合以外で明らかな「差別」を受けている。
猪木戦ではそれなりに立てられていた木村も、猪木と互角の勝負を演じるアンドレ・ザ・ジャイアントやローラン・ボックといった外人に対しては、僅か数分でフォールされるという失態を演じている。
これは猪木と木村の差(もっと言えば、新日本プロレス国際プロレスの差)を際立たせるためのマッチメイクに他ならない。


新日本プロレスファンというのは「猪木信者」「新日信者」という、新興宗教信者のように他団体を蔑視する人が多かった。
マイナーな国際プロレスはもちろん、ライバルの全日本プロレスも一切認めない。
ベストセラーとなった村松友視の「私、プロレスの味方です」も、実際には「プロレスの味方」ではなくて「猪木プロレスの味方」だった。
他団体からやってきたレスラーを猪木や新日レスラーがやっつけると「やはり新日本プロレスが一番強い」と新日ファンは溜飲を下げるのである。
国際プロレスから移籍したストロング小林や剛竜馬は、猪木や藤波辰巳の軍門に下ったが、ヒールという扱いではなかった。
だが、ヒールではなくその後は新日本プロレスの一員となったためかえってその地位を失い、目立たないレスラーとなってしまった。
小林は国際プロレスのエースだったのにも関わらず、新日本陣営に入ってからは、ナンバー2どころか坂口征二よりも下のナンバー3の地位に甘んじ、その後は若い藤波や長州力の「噛ませ犬」となったのである。
剛竜馬も藤波と戦っていた頃は輝いていたが、その後は第一線から退いてしまった。
そんなふうになるよりは、と木村たち新国際軍団もヒールに徹しようとしたのかも知れない。


同年9月21日での大阪府立体育会館での猪木×木村の一騎打ちは、なんと髪切りデスマッチ。
要するに負けた方が丸坊主になるというわけである。
この試合で木村は猪木に初めてピンフォール負け、当然木村はリング上で丸坊主になるという屈辱を味わうはずだったが、木村はリング外へ逃走、新日ファンの怒りはピークに達した。
かつては国際プロレスのエースとして外人レスラーを倒し、日本人のファンから声援を受けていた木村が、ここまでやらなければならなかった。
卑怯な木村に対して、怒った猪木は「3人束になってかかってこい!」とアピールした。
そしてあの、非常識で破廉恥きわまりないマッチメイクが実現するのである。


同年11月4日、蔵前国技館。
アントニオ猪木×ラッシャー木村&アニマル浜口&寺西勇という、前代未聞の1対3のハンディキャップマッチ。
これほど新日本プロレス国際プロレスを見下したマッチメイクもないだろう。
試合は、まずは猪木が寺西から腕ひしぎ逆十字でギブアップを奪い、次に浜口を延髄斬りで仕留めたが、最後には息が上がってしまい、木村の猛攻を受けてリング負けしてしまった。
さすがに1対3で勝ってしまっては、新国際軍団の商品価値が下がってしまうと考えたのだろう。
それでも、猪木は木村にフォールを許さなかったというのが、猪木の国際プロレスに対する見方だったと言える。


この頃の新日信者の暴走ぶりもハンパではなかった。
会場では新国際軍団が登場するたびに「木村、死ね!」とブーイングを浴びせるのはまだ可愛い方だ。
遂には木村の自宅まで新日信者が押し掛け、自宅を荒らしたため、木村の愛犬がノイローゼで円形脱毛症になったほどである。
若気の至りだろうが、この罪を犯した当時の新日信者たちは大人になった今、この頃の暴挙をどう思っているのだろうか?
それでも木村は、この仕打ちに耐え続けた。


日本人悪役レスラーと言えば、真っ先に上田馬之助が挙げられるだろう。
当時としては珍しかった金髪に染め、竹刀を持って反則の限りを尽くし、やはり悪党派ナンバー1の外人レスラーだったタイガー・ジェット・シンと共闘し、猪木や新日レスラーたちを散々痛めつけた。
だが、真のヒールとは上田馬之助ではなく、ラッシャー木村だったと思う。
上田の場合は「日本人のくせに反則ばかりするヤツ」という程度の認識だっただろう。
しかし木村は「他団体のエースで、しかも汚いことばかりするヤツ」という、新日信者からの憎悪を買ったのだ。
これはもう、新日本プロレス絶対崇拝、他団体蔑視思考という、新日信者の心理をモロに突いたものだった。
新日本プロレスは、この新日信者たちによるファン心理を巧く利用したと言えよう。


だが、浜口や寺西たちは、猪木や新日本プロレスの理不尽とも思えるマッチメイクには怒り心頭だった。
猪木と木村がガチンコで戦えば、木村の方が強い、と浜口や寺西は思っていた。
実際に、”20世紀最強の鉄人”ルー・テーズが「馬場、猪木、木村の中では、一番強いのは誰か」と聞かれて、「スモウとレスリングをマスターしているキムラが一番強い」と答えたという。
しかし、木村はそんな浜口や寺西の不満をたしなめた。
これが俺たちに与えられた仕事だ、と。
国際プロレスの晩年では、ファンからの声援なんてほとんどなかった。
何しろ、会場に客なんていなかったのだから。
それが今では、ブーイングとはいえ1万人ものファンの声を浴びている。
しかも、国際プロレスが崩壊した頃は2億5千万円もの負債を抱え、無給状態だった。
だが新日本プロレスアントニオ猪木社長は、我々にちゃんとギャラを支払ってくれる。
こんな有り難いことはないではないか、と。


しかし、翌年の1983年(昭和58年)2月7日の蔵前国技館で行われた猪木×新国際軍団の1対3のハンディキャップマッチは、もはやマンネリした感があった。
第1戦と同じマッチメイクというわけにはいかず、猪木は最初にクイック(スモール・パッケージ・ホールドや逆さ押さえ込みなど、負けた方が弱さを感じさせないフォール)で木村にフォール勝ちし、2人目は寺西をコブラツイストでギブアップ、浜口には場外フェンスアウトで敗れたものの、もはや新国際軍団の3人が束になってかかっても猪木には敵わない、という印象を受けた。
この頃から、新国際軍団の価値は暴落したと言えよう。
猪木と新国際軍団の対立構造は、ファンから飽きられ始めていたのだ。


その後、長州力が同年代のスターである藤波辰巳に対し「俺はお前の噛ませ犬ではない!」と発言し、その後は長州を中心とする「維新軍団」を結成して、維新軍団×新日正規軍の抗争がメインとなった。
新国際軍団は新日本プロレスの本流から外れ、さらにアニマル浜口は木村と仲間割れになる形で維新軍団と合流した。
もはや新国際軍団は新日本プロレスにとって「いらない子」となってしまったのである。


それを如実に表したのが、同年9月21日の大阪府立体育会館での、今となっては最後となってしまったアントニオ猪木×ラッシャー木村のシングルマッチだ。
この試合では、猪木のセール(相手を引き立てる行為)は全くない。
猪木はキックやパンチで攻め続け、木村はなす術もなく大流血。
猪木はフォールを奪うこともなく僅か5分9秒、KOで猪木が圧勝した。
猪木にすれば、もうラッシャー木村なんてキャラクターはいらないよ、という戦略だったのかも知れない。
もうこの頃になると、新日信者による「ラッシャー木村憎し」の感情は薄れていたのだろう。
だが木村は、こんな屈辱的なマッチメイクにすらも耐えてみせた。
おそらく「これが俺の仕事だ」と、心の中で呟きながら……。
この頃のことを、国際プロレスからのラッシャー木村ファンの人はどう感じていたのだろう。
それを聞いてみたい。
木村は新日本プロレスファンの期待には応えていたが、国際プロレスファンに対しては裏切っていたとも言えるのだ。
この試合に関し、ジャイアント馬場は、
「アイツ(猪木)は、レスラーを使い物にならなくなることを平気でする……」
と嘆いたという。


とはいえ、この木村の「仕事ぶり」に、猪木が一目置いていたような気もする。
この頃、新日本プロレスは大ブームを迎えており、大繁栄していたが、その裏では団体崩壊の危機を迎えていた。
いくら新日本プロレスが儲けても、その利益分は猪木が興した事業会社「アントン・ハイセル」が抱えた20億円もの負債に全て流れていたのである。
その繁栄の裏で新日本プロレスは倒産しかかっており、遂にクーデターが起きた。
このクーデターにより、アントニオ猪木社長と坂口征二副社長が退陣、「プロレス陰の仕掛け人」と言われた新間寿営業本部長は退社を余儀なくされた。
しかし新体制は長くは続かず、猪木と坂口はそれぞれ元の鞘に収まるものの、反主流派がいつ再びクーデターを起こすかわからなかった。
そこで不満分子を新日本プロレスに置き去りにし、新間を中心とした新団体「UWF」を発足させ、やがては猪木以下主力レスラーをUWFに移籍させる計画を立てた。


新団体・UWFの第一陣メンバーとして、ラッシャー木村に白羽の矢を立てた。
猪木と新間は、猪木が経営するレストランの「アントン・リブ」に木村を連れて行き、木村に対してUWFに行ってくれ、と二人で説得した。
ところが、新間がトイレに立って猪木と木村が二人きりになった時、猪木は木村に対して、
「木村よ、何も新間のところ(UWF)に行って苦労することはないじゃないか。このままウチ(新日本プロレス)に残れよ」
と慰留したという。
わけがわからなくなった木村は、このやり取りを新間に伝えると、猪木の豹変ぶりに新間はたいそうビックリした、と新間は自著で述懐している。
このエピソードから考えると、猪木は木村を手放したくなかった、とも言えるだろう。


だが木村は、当初の予定通りに新団体UWFに参加した。
ノーテレビでネームバリューの選手が少ない新団体で、興行的には大苦戦していた。
若手のホープだった前田日明をエースに押し立てていたが、まだスターレスラーとは言い難かったのである。
木村は新日本プロレス時代のような悪役とは離れ、若き新エースの前田を補佐する立場となっていた。
チケットの売れ行きは悪く、営業部員がチケットを売り歩いても、
「どんなレスラーが出るの?」
と客先から問われ、一番ネームバリューがある、
「ラッシャー木村が出場します」
と答えると、客先からは、
「あんな悪いことをするヤツの試合なんて見たくないよ!」
と激怒されたという。
「ラッシャー木村=悪役」のイメージがあまりに強過ぎ、新団体UWFにとってはかえってマイナスだったのだ。


1984年(昭和59年)4月11日、大宮スケートセンターで第一次UWFが旗揚げした。
当初の予定と違い、テレビ放映がない前途多難なスタートだったが、木村は新エースの前田を補佐するという、新日本プロレス時代とは正反対のファイトを演じた。
そして開幕シリーズの最終戦である蔵前国技館に、絶対に来る、という約束を猪木は破ってUWFには合流せず、UWFは孤立無援の団体となってしまった。
この猪木の裏切りに前田は激怒し、さらに新間も猪木に5千万円とも言われる契約金を支払ったとして責任を問われ、UWFを離れることになった。
これを契機に、UWFは独自の道を歩き始める。
即ち、「格闘プロレス団体・UWF」というスタイルに突き進むのだった。
だが、木村はこのファイトスタイルには合わず、国際プロレス時代からの同僚である剛竜馬と共にUWFを脱退、ジャイアント馬場に誘われて同年に全日本プロレスに参加する。


当初は馬場のタッグパートナーとしてのサプライズ参戦だったが、世界最強タッグリーグ戦途中に馬場と仲間割れ、馬場と敵対する関係となった。
木村は元国際プロレスの阿修羅・原や剛竜馬、鶴見五郎らと「国際血盟軍」を結成したが、新日本プロレス時代の新国際軍団の二番煎じの感は否めなかった。
折しもその頃、新日本プロレスから長州力を中心とするジャパン・プロレスが全日本プロレスに参戦してきて、全日本正規軍とジャパン・プロレスとの抗争が目玉となっていた。
それでもラッシャー木村は、
「馬場、俺と勝負しろ!鶴田、長州、お前らもだ!」
と、マイクを片手に叫び続けた。
もうそこには、あの田園コロシアムでの、
「こんばんは」
という場違いな雰囲気はなかった……。


翌年の1987年(昭和62年)3月に長州力が率いるジャパン・プロレスが全日本プロレスから離脱した。
これにより全日本プロレス×ジャパン・プロレスという対立構造が崩れ、国際血盟軍の立場も中途半端になった。
日本プロレスでの戦いの目玉はジャンボ鶴田×天龍源一郎の対戦が主流となり、それまでのエースだったジャイアント馬場は隠居状態となった。
それでも、ラッシャー木村はジャイアント馬場をしつこく挑発した。
かつては「こんばんは」発言で失笑を買った、マイクを通して。
当初は馬場を挑発する勇ましい文句が多かったが、やがてその内容は変質していった。


「馬場、お前はハワイでグァバジュースを飲んで特訓していたのかも知れないけど、俺だって日本で、ポカリスエットを飲んで鍛えていたんだぞ!」
「馬場、最近なーんか元気だと思っていたと思っていたら、やっぱりお前はジャイアント・コーンを食っているな!」
「馬場このやろテメー!まあ試合は別として、昨日、大熊に言っておいたんだけど、今日は直接、お前に新年の挨拶をするからな!明けましておめでとう」


という、啖呵を切っているのか、ギャグを言っているのかわからない(というより、明らかなギャグだろう)ことを、毎試合後にマイクを通じてファンにアピールした。
これが全日本プロレス名物となる、ラッシャー木村のマイク・パフォーマンスである。
新日本プロレスでは失笑を買った「こんばんは」発言が、数年後にマイク・パフォーマンスとして甦ったのだ。
それ以来、木村は「マイクの鬼」と呼ばれることになる。


その後、木村は馬場に対して、
「お前と戦っているうちに、お前のことを他人と思えなくなっちゃったよ。これからお前のことを『アニキ』って呼んでいいか?」
という呼びかけにより、馬場&木村の「義兄弟タッグ」が結成。
それ以来、馬場に対する悪態を突くマイク・パフォーマンスは影を潜め、馬場に対しては立てる一方、渕正信や永源遥に対しておちょくるようになった。


ジャイアント馬場の死後、全日本プロレスは大揺れに揺れ、同団体のエースだった三沢光晴が新団体「プロレスリング・ノア」を旗揚げし、ラッシャー木村もそれに参加した。
だが寄る年波には勝てず、2004年(平成16年)には引退発表、希代の名レスラーが2度とリングに上がることはなかった。
そして2010年(平成22年)5月24日、木村政雄(ラッシャー木村の本名)が永眠。


プロレス関係者によると、
「ラッシャー木村ほど、『プロレス』という仕事を理解し、プロに徹した人はいない」
という。
どんな理不尽な要求にも耐え、それを実行した木村こそ「プロ中のプロ」というわけだ。


あまりにも善人がゆえ、史上最悪の極悪人を演じ続けていたラッシャー木村。
自分がブーイングを浴びるのは平気だったとしても、ファンによって家族が危害を加えられる気分はどんなものだっただろう。
それでも、ラッシャー木村は耐え続けた。


最初から悪役と割り切っていたらまだ救われるだろうが、一時は国際プロレスのエースを担っていた男である。
だが、団体崩壊後は、極悪非道のヒールを演じなければならなかった。
こんな屈辱にも、ラッシャー木村は耐えきってみせたのだ。


ラッシャー木村は「金網の鬼」から「こんばんは事件」を経て、「マイク・パフォーマンス」に活路を見出す。


現在のプロレス関係者およびプロレスファンで、ラッシャー木村のことを悪く言う人は、一人もいないだろう。


ラッシャー木村が新日本プロレスに参戦、「こんばんは事件」も収録


そして全日本プロレスでの、マイク・パフォーマンス