昨年のラグビーワールドカップで優勝したニュージーランド代表(オールブラックス)のソニー・ビル・ウィリアムズ(SBW)が、日本のトップリーグ(TL)、パナソニック・ワイルドナイツに入団すると発表された。
世界的なプレーヤーの来日に、日本のラグビーファンの期待が高まっている。
昨季は同チームに南アフリカ代表(スプリングボクス)のジャック・フーリーが在籍するなど(今季は神戸製鋼コベルコスティーラーズに移籍)、TLには有名外国人選手が多く存在する。
ワールドカップでは過去1勝しかしていないラグビー二流国の日本に、なぜこれだけの世界的スタープレーヤーがやってくるのだろう。
WBCで2連覇を果たしながら、外国人と言えば3A級か、メジャーリーグ(MLB)でも準レギュラークラスしか来日しない日本プロ野球(NPB)とは対照的だ。
今季、MLB通算119勝の実績を引っさげて福岡ソフトバンク・ホークスに入団したブラッド・ペニーは、たった1試合登板しただけで日本を後にしてしまった。
WBC2連覇でございと豪語しながら、日本も随分ナメられたものである。
考えてみれば、NPBに在籍したバリバリのメジャーリーガーで実績を残したのは、1987年にヤクルト・スワローズに在籍したボブ・ホーナーぐらいしか思い当たらない。
それ以外のメジャーリーガーは、日本をナメ切っていて「なんで極東まで来て野球をしなければならないんだ」という態度をとっている選手がほとんどだった。
いや、日本で大活躍したホーナーだって、僅か1年だけ日本でプレーしたあとは、
「日本のベースボールは“野球”という名の、別のスポーツだ!」
という捨てゼリフを吐いて、とっととアメリカに戻ってしまった。
もっとも、日本の野球に慣れてしまったのか、出戻ったMLBでは実績を残せず、僅か1年で引退を余儀なくされたが……。
ちなみに史上最強の助っ人と呼ばれるランディ・バース(阪神タイガース)は3A級の選手で、MLBでの通算本塁打は僅か9本である。
「ホーナー以前」のNPBはもっと酷かった。
「現役メジャーリーガー」という触れ込みで入団しても、実際は遠の昔に盛りを過ぎたロートルばかりで、高い契約金を持ってドロン!なんてケースが後を絶たなかったのである。
代表的な例が1974年、太平洋クラブ・ライオンズに在籍したフランク・ハワード。
2mの大きな体で、しかもMLB通算382本塁打という実績も相まって、開幕前から大人気だった。
球団のハワードに対する期待は大きく、契約金は総額1億円と言われた。
開幕前には「ハワードのホームランクイズ」という企画を打ち出し、正解者には海外旅行をプレゼントする、という大盤振る舞い。
で結局、正解は0本。
何しろ故障持ちで満足に動くことができず、たった1試合に出場しただけで帰国してしまったのだから。
通算3打席、2打数0安打1四球、打率.000の選手に1億円もの大金をドブに捨てたのである。
当時の1億円は、現在のそれとは価値が全く違う。
その頃の日本人最高年俸は長嶋茂雄、王貞治の約5千万円で、それも他の選手と比べると破格の値段だったのだから、ハワードの待遇がいかに凄かったかわかるだろう。
ちなみに、ホームランクイズの正解者は数名いたそうだが、赤っ恥をかいた球団は急遽企画を変更したとか。
1億円もの契約金を払い、ファンには海外旅行をプレゼント(企画倒れとはいえ)するなんて、太平洋とはなんと金持ち球団だったのだろうと思われるかも知れないが、実態は正反対。
現在は埼玉西武ライオンズとなっており、本拠地は首都圏の所沢市だが、当時のライオンズは九州の福岡市を本拠地としていた。
太平洋は極貧球団、というか、そもそも太平洋クラブという会社は親会社ですらなかったのである。
悲劇の球団、太平洋クラブ・ライオンズは誕生した時から異常な出発だった。
かつては野武士軍団と呼ばれ、パシフィック・リーグの最強チームとして博多っ子を熱狂させた西鉄ライオンズが、一気に坂道を転がり落ちたきっかけが1969年に勃発した八百長事件、いわゆる「黒い霧事件」である。
主力選手に多数の永久追放者を出した西鉄はあっという間に弱体化、イメージも悪くなり人気は凋落の一途を辿った。
1972年、西鉄は球団経営を続けられなくなり、身売り先を探すもなかなか見つからず、球団削減によるパ・リーグ消滅の危機すら生まれた。
しかし、パ・リーグの灯を消してはならんと立ち上がったのが、当時はロッテ・オリオンズのオーナーだった中村長芳である。
中村はなんと、ロッテのオーナーを辞任して他球団であるライオンズを買い取ったのだ。
中村は「福岡野球株式会社」を設立し、ライオンズの経営に当たったが、いかんせん資金力不足は否めなかった。
そこで太平洋クラブという会社に球団命名権を与える、今で言うネーミングライツで経営を成り立たせようとした。
太平洋クラブというのは今年、民事再生法の適用を申し立てた、あのゴルフ場開発会社である。
当時はあまり知られていない会社で、有名でない会社がプロ野球のチーム名になることに難色を示す球団もあった。
NPBとはステータスを重視する業界なのである。
翌1973年から太平洋クラブ・ライオンズとして再出発したが、西鉄時代のファンを取り戻すために努力は惜しまなかった。
翌年にハワードを入団させたのもその企業努力の一つだが、それなりに成果は上がって観客動員も増えた。
しかしそれは一過性のものであり、本当の意味でのライオンズファンを定着させるには至らなかった。
博多っ子は何よりも「西鉄」という名前に愛着を持っていたのである。
しかも、多少は観客が増えても球団経営の苦しさは変わらなかった。
現在はどの球団でも専用バスを持っているが、当時のライオンズにはそんな物はなく、選手たちはビジターでも電車やタクシーを使ってバラバラに球場入りしていた。
宿泊先のホテルでも食事は用意せず、球団は定食代程度の金を渡し、選手たちは外でわびしい食事をせざるを得なかった。
極め付けは練習場で、専用のグラウンドなど持たず、福岡大学のグラウンドを借りていたというのだから、現在の感覚から言えばとてもプロ球団とは思えない。
それでも1975年には太平洋になって初めてのAクラス(3位)になったのだから大したものだが、台所事情は変わらない。
1976年、太平洋は最後の力を振り絞って乾坤一擲の勝負に出た。
MLBの名監督と言われたレオ・ドローチャーを監督として招聘したのである。
NPBとしては、前年に広島東洋カープの監督となったジョー・ルーツに次ぐ二人目の外国人監督(日系人を除く)であり、MLBの名監督ということでまた話題を呼んだ。
ところが、スプリング・キャンプが始まっても、ドローチャー監督はなかなか来日しない。
70歳を超える高齢のうえ、持病を患っていたからアメリカを出ることができなかったのだ。
キャンプでのミーティングで、監督が座るべきイスにはテープレコーダーがデンと鎮座している。
通訳が再生ボタンを押すと、テープレコーダーが喋り出す。
いや、喋っているのはドローチャー監督なのだが、当然英語なので選手たちには伝わらず、キリがいいところで通訳が停止ボタンを押して、日本語に翻訳する。
ところが通訳は野球に関してはド素人なので、野球用語になるとチンプンカンプン、選手たちも理解できるわけがない。
こうしてテープレコーダー監督の指揮によるキャンプは進むが、成果が出るわけもなく、結局はドローチャー監督の来日は不可能となって、鬼頭政一が監督に就任することになった。
当然の結果としてこの年は最下位に転落し、太平洋クラブはスポンサーを降りてしまった。
翌1977年はクラウンガスライターが命名権を得てクラウンライター・ライオンズとなるが、経営難からは脱却できず、僅か2年で経営破綻。
ライオンズは国土計画社長の堤義明に買収されて本拠地は関東の埼玉県に移転し、1979年から西武ライオンズとして生まれ変わって、福岡のライオンズはここに消滅した。
3打席のみの0割打者に1億円を払い、テープレコーダー監督を雇った太平洋クラブ・ライオンズ。
今年に入って太平洋クラブ倒産というニュースを聞いた時は、「ああ、あの時の太平洋クラブか……」と、約40年前の出来事に思いを馳せたものだ。