西日本パイレーツ
西日本パイレーツ(1950年)~
<西鉄ライオンズ(西鉄クリッパースに吸収合併:1951年)~(現:埼玉西武ライオンズ)>
最高順位:6位(8チーム中:1950年)
西日本パイレーツの最高順位は8チーム中6位で、最低順位も同じく8チーム中6位。
当たり前である。
1年間しか存在しなかったチームなのだから。
こんな球団は78年続くNPBの中で唯一無二である。
そのためにほとんど印象に残らない球団名で、筆者などは日本プロ野球のパイレーツと言えば千葉パイレーツ<①>を連想するのだが、パイレーツを名乗るプロ球団がたった1年間だけ日本に実在したのだ。
西日本パイレーツが創設されたのは1950年(昭和25年)。
そう、日本プロ野球が2リーグに分裂した年である。
つまり、2リーグ分裂がなければ、西日本パイレーツという球団は存在しなかったのだ。
この年、それまで8球団だった日本プロ野球が新球団加盟をめぐり対立、7球団増えて全15球団となり、2リーグに分裂した。
セントラル・リーグが8球団、パシフィック・リーグが7球団だが、西日本パイレーツはセ・リーグに所属することになる。
2リーグ構想を掲げたのは、読売ジャイアンツのオーナーだった正力松太郎である。
戦前のプロ野球は「職業野球」と呼ばれ、学生野球が人気を博していた日本では「野球で金銭を得るなど邪道」と蔑まれていたが、戦後になると日本を占領していたGHQがプロ野球を奨励、人気が急上昇した。
軌道に乗り始めたプロ野球を、アメリカのメジャーリーグに倣って2リーグ制にする絶好のチャンスと考えた正力松太郎は、毎日新聞社にプロ野球参入を勧める。
つまり、読売球団を中心としたリーグと、毎日球団を中心としたリーグを興せば、新聞マスコミによる宣伝効果によってプロ野球は大いに盛り上がると踏んだのである。
戦前、正力松太郎がプロ野球リーグを創設した時も、新愛知新聞社(名古屋軍=現在の中日ドラゴンズを創立)、名古屋新聞社(名古屋金鯱軍を創立)、國民新聞社(大東京軍を創立)といった同業他社に声をかけ、球団を創らせている。
今回の2リーグ構想の時も、敢えてライバル新聞社の毎日新聞社に協力を求めているあたり、正力松太郎は単に読売の利益だけでなく、プロ野球全体の繁栄を考えていたのだ。
ところが、毎日新聞社のプロ野球参入に待ったをかけたのが、他ならぬ読売新聞社だった。
読売新聞社が正力構想に反対するというのも妙な話だが、当時の読売新聞社は労働争議の関係で正力松太郎は既に退陣、社内には反・正力の空気が蔓延し、さらにプロ野球市場をライバルの毎日新聞社に荒らされてはたまらないという思惑があったのである。
中日ドラゴンズを抱える中日新聞社も読売新聞社に同調、大陽ロビンスも読売側に付いた。
しかし、読売中心主義に反発した関西私鉄系の大阪タイガース、阪急ブレーブス、南海ホークスは新球団加盟に賛成、さらに同じ私鉄系の東急フライヤーズや映画系の大映スターズも賛成派に回る。
賛成派多数により新加盟球団が続出、前年から倍近い15球団になってしまった。
2リーグ推進派の正力松太郎でさえ、最初は2球団増やして1リーグ10球団制とし、徐々に2リーグ制に移行しようという構想だったので、これほどの急激な球団増と拙速な2リーグ制移行は望んでなかったのだが……。
かくして、親・読売派を中心とするセ・リーグと、反・読売派のパ・リーグに分裂したが、反・読売派だったはずの大阪タイガースはセ・リーグに加盟する。
その理由として、大阪タイガースはドル箱の巨人戦を失いたくなかったからだと言われているが、この裏切りにパ・リーグの中心となった新球団の毎日オリオンズが激怒、大阪タイガースから主力選手を多数引き抜いて、2リーグ分裂後初の日本一球団となった。
一方、戦前は巨人軍と優勝を分け合ってきた大阪タイガースは弱体化し、優勝から遠ざかるようになる。
随分と前置きが長くなったが、そんな状態の時に誕生したのが西日本パイレーツである。
セ・リーグに九州の球団が欲しいと考えていた読売は、福岡に拠点を張る同じ新聞社の西日本新聞社に声をかけた。
しかし、当時の西日本新聞社は西日本鉄道(西鉄)と共にパ・リーグ参入球団を経営しようと考えていたのである。
だが、それでも諦めない読売は何とか説得して、西日本新聞社をセ・リーグに引き入れた。
こうして、福岡には共に平和台球場を本拠地とするセ・リーグの西日本パイレーツと、パ・リーグに所属する西鉄クリッパースという2球団が誕生したのである。
しかし、当時は人口100万人に満たない地方都市の福岡市に、2球団が競合するのは共倒れになる可能性が高い。
実際に西日本パイレーツの経営は悪化し、チームも下位に低迷、元々読売に誘われただけでプロ野球経営に熱意を持ってなかったので、同じ福岡の西鉄クリッパースとの経営統合を考えるようになる。
というより、元々新規参入の際には、西鉄との共同経営を考えていたのだ。
ところが読売がセ・リーグの6チーム化を実現するために、中国地方にあった広島カープと大洋ホエールズ(当時の本拠地は山口県下関市)を合併させ、西日本パイレーツを解散させようとしたので激怒、「読売の横暴には耐えられない」という声明を出して、僅か1年後の翌1951年(昭和26年)の開幕前に西鉄クリッパースと電撃的に合併、パ・リーグ所属の西鉄ライオンズとなる。
だが読売の悪あがきは続き、「西日本パイレーツの選手はセ・リーグ所属だ」という理由にならない理屈をこねて、西日本パイレーツの選手を何名か引き抜いている。
しかし、新たに誕生した西鉄ライオンズは1950年代に黄金時代を築き、博多っ子を熱狂させたのだから、球団合併は正しかったのだろう。
ただし、西日本パイレーツは西鉄球団に吸収合併されたという形だったので、1年しか存在しなかった球団となっている。
僅か1年間だけの球団だった西日本パイレーツだが、実は球史に残る記録がある。
1950年6月28日、青森市営球場で読売ジャイアンツの藤本英雄投手が日本プロ野球史上初の完全試合を達成しているが、その時の相手チームが西日本パイレーツだった。
たった1年しか存在しなかったのに、そんな不名誉な記録を作られるとは、なんと不運な球団なのだろう。
しかもその相手が因縁浅からぬ読売ジャイアンツだったのだから、西日本パイレーツはとことんまでに読売とは相性が悪かったと言えよう。
①千葉パイレーツ……1970年代後半から80年代初頭にかけて週刊少年ジャンプで連載されていた野球ギャグ漫画の「すすめ!!パイレーツ(作:江口寿史)」に登場する架空のプロ野球チーム。チーム名通り千葉球場(架空の球場)を本拠地とするセ・リーグ所属のチームで、13シーズンで最下位が12回(残り1回は8チーム中7位)という超ダメ球団。ある年の開幕戦ではレギュラー選手が「田植えで忙しい」という理由で欠場、選手が8人しか集まらないという、とてもプロとは思えないチームだった。球団のスポンサーは千葉農協。