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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

宿沢ジャパン平尾組〜W杯唯一の勝利〜その1

スコットランドには勝てると思います」。


この一言で宿沢ジャパンはスタートした。
時に1989年5月8日、ラグビー日本代表監督に選ばれたばかりの宿沢広朗が就任記者会見で言い放った。
この僅か二十日後に秩父宮ラグビー場スコットランドとのテストマッチが予定されていた。
宿沢のこの言葉に、集まった記者連中は我が耳を疑った。
ジャパンがスコットランドに勝つ?
なんてビッグマウスなヤツがジャパンの監督になったのだろう、皆そう思った。
しかし、この一言こそが宿沢広朗という人物の全てを現していた。
そのことに記者連中が気付くのは、ずっと後のことである。


1980年代後半、ジャパンは最悪の状況にあった。
1987年、念願だった第一回ラグビーワールドカップニュージーランドとオーストラリアで開催された。
ジャパンはアジア代表として出場したが、勝てると思われていたアメリカにまさかの苦杯を舐め、3戦全敗で南の地を去った。
その年の秋、来日した第一回W杯チャンピオンのオールブラックスニュージーランド代表)に二度のテストマッチを行い、0−74、4−106という歴史的な惨敗を喫してしまった。
さらに、アジア大会では韓国代表に敗れ、アジアの盟主の座から滑り落ちた。
それ以外でも、全早大が勝ったアイルランド学生代表にこともあろうにジャパンが敗れ、オックスフォード大にもジャパンは負けた。


この頃のマッチメイクも、今では考えられないような理不尽なものだった。
第一、なんで来日した学生相手に国の代表チームが戦わなければならないのか。
代表チームが他国に遠征した際、テストマッチに向けて地元の大学チームやクラブチームと調整試合を行うのはよくあることだが、その国にやってきた学生チームに国の代表チームが迎え撃つことはありえない。
こんなことをすれば、代表チームとしてのモチベーションが保てないのは当たり前ではないか。
この頃のジャパンの選手たちは、代表チームとしての誇りを持てないままでいた。


韓国に敗れた後、当時ジャパンの監督だった日比野弘は日本協会に辞意を伝えていた。
それを受け、ジャパンの強化委員長だった白井善三郎は後任を探した。
しかしなかなか見つからず、見つけても断られ、やがて「宿沢はどうだろう」という結論に到った。
当時の宿沢は弱冠39歳。
早大でプレーをしていて「伝説のSH(スクラム・ハーフ)」と言われていたが、卒業後はラグビーとは無縁の住友銀行に就職し、本格的なラグビーからは足を洗った。
それでもジャパンに召集され、テストマッチには出場したが、キャップは僅かに3。
引退後は臨時コーチの経験はあるものの、本格的に指導したことはなかった。
ただ、住友銀行の英国支店に転勤になり、本場のラグビーを目の当たりにして日本のラグビージャーナルに情報を送ったり、またコラムを書いたりしていた。
本格的な指導歴こそないものの、伝説のSH、銀行マンとしてのクレバーな頭脳、ラグビーの本場を知り尽くしている知識は、ジャパンにとって救世主だと思えた。


ある日、宿沢は日比野と白井に呼び出された。
前監督の日比野は「なんのことかわかるだろう」と切り出したが、宿沢は「早大の強化のことですか?」と答えた。
日比野と白井は宿沢と同じく、早大OBだったのだ。
いや違う、ジャパンの監督を引き受けてくれ、と言われた宿沢は、「やってみたい」という想いと、「住友銀行がOKを出さないだろう」という想いが交錯した。
しかし、住友銀行側は、「出世に響いてもいいなら、やってみろ」と言ってきた。
要するに、やる気があるのならやっても構わない、という意味である。
むしろ、名誉なことだから、ぜひやって欲しい、という意味でもある。
もちろん、白井と日比野も住友銀行にはちゃんと根回しをしておいた。
こうして、宿沢広朗ラグビー日本代表監督就任が決定した。


白井と日比野が宿沢に課した条件はただ一つ、1990年に東京で行われる第二回ワールドカップ、アジア・太平洋予選を勝ち抜いて、W杯に出場することだった。
アジア・太平洋予選には日本の他に韓国、トンガ、西サモア(現・サモア)が出場予定だった。
この4ヵ国のうち、W杯に出場できるのは2ヵ国。
厳しい戦いになることは目に見えていた。


そして監督就任会見の僅か二十日後、スコットランドとのテストマッチを控えていた。
スコットランドと言えば、当時のIRB加盟8ヵ国の一つ、つまり世界トップ8のチームだった。
ジャパンがかつて、IRB加盟国に勝ったことはなかった。
しかも、今のジャパンは最悪の状態である。
スコットランドには勝てると思います」そんな言葉を信じる者は誰もいなかった。


しかし、宿沢は景気付けでそんなことを言ったわけではなかった。
英国勤務をしていた宿沢はスコットランドの試合を数多く観ていて、その長所と弱点を知り抜いていたのである。
特にそのときのスコットランド代表は、ブリティッシュ・ライオンズのNZ遠征で多くの選手を取られ、ベストメンバーとは言えなかった。
と言っても一流選手の集団であることには変わりがなく、明らかにジャパンよりは格上だったのだが、付け入る隙はあると思われた。


宿沢はまず、スコットランドの弱点はスクラムにあると考えた。
FW(フォワード)にはモール、ラックといった密集プレー、ラインアウトのセットプレー、そしてスクラムのセットプレーがあるが、その中でジャパンが外人の大男に勝てるとしたらスクラム以外にはないと考えた。
当時の世界ラグビーの流れでは機動力のあるPR(プロップ)が要求され、ジャパンもその流れに乗ろうとしていたが、宿沢はあえてその流れに逆らった。
「走れるPR」を起用してスクラム戦に負ければ、勝つ確率は非常に低くなる。
それならPRの機動力を度外視しても、スクラムの強いPRを求めた。
そこで白羽の矢が立ったのが京産大卒の田倉政憲(三菱自工京都)であった。
当時の田倉は走力がないためにあまり評判は良くなく、「スクラムが強いだけのヤツ」と思われていた。
しかし、宿沢が求めていたのは「スクラムが強いだけのヤツ」だった。
強力スクラムが自慢の京産大から初のジャパン入りだった。


さらに、FW第三列には、両FL(フランカー)に梶原宏之東芝府中)と中島修二(日本電気)、No.8にシナリ・ラトゥ(大東大)と、タックルの強い三人を並べた。
「ディフェンス重視」が宿沢の戦略で、失点を20点以内に抑えることが大方針であった。
スコットランドを20点以内に抑えると、ジャパンは20点以上は取れる、と。


宿沢は、ジャパンBK(バックス)のオープン攻撃には自信を持っていた。
特に平尾誠二神戸製鋼)と朽木英次(トヨタ自動車)のCTB(センター)陣はかなりレベルが高く、世界に通用する実力があった。
ボールさえ獲れれば外に振り回し、大きなゲインが期待できたからだ。
そして外には決定力のあるWTB(ウィング)吉田義人(明大)が控えている。
英国勤務をしていた宿沢は、スコットランドの弱点を完全に把握していた。
スコットランドは二線防御が弱く、ジャパンのBK陣ならかなりの得点が期待できる、と。
あとはスクラム戦で優位に立ち、ディフェンスを完璧にやればスコットランドに勝てると信じていた。


宿沢は、ジャパンのキャプテンに平尾を指名した。
平尾は監督のいない神戸製鋼でリーダーシップを発揮していて、そのキャプテンシーを高く評価していた。
ラグビーにおける「キャプテン」というポジションは極めて重要である。
ラグビーでは野球、アメフト、サッカー、バスケットやバレーと違って、ゲームが始まってしまえばハーフタイム以外に監督は一切指示できない。
それだけにラグビーでのキャプテンは、「フィールドでの監督」としての資質が求められる。
宿沢はキャプテンの条件として「ゲームの中で、ピンチとチャンスの意識を徹底させる」ことが重要で、それ以外はどうでもいいと言っている。
そして、そんな簡単に見えて実に難しいことを「さらっと」やってのけるのが平尾だったと宿沢が語る。


宿沢からキャプテン就任を要請されたとき、平尾は即答を避けたという。
平尾はずっとジャパンの選手として活躍してきたものの、ジャパンの方向性が全く見えなくて、失望していた状態だった。
しかし、宿沢と話をする中で、この人ならジャパンを強くすることができると確信し、キャプテンを引き受けることになった。


こうして、宿沢ジャパン平尾組は走り出した。


(つづく)



補足1:所属チームは全て当時のものとした。
補足2:最近では「宿澤」と表記されているが、このシリーズでは当時表記されていた「宿沢」に統一している。