前回からの続き。
万年優勝候補
イギリスから日本に帰国した平尾は、社会人の有力チームである神戸製鋼(現:神戸製鋼コベルコスティーラーズ)に入社した。
神鋼は、平尾が同志社大を卒業した翌年度(1985年度)の全国社会人大会準決勝で、8連覇を目指した新日鉄釜石(現:釜石シーウェイブス)を13-9で破ったが、トヨダ自動車(現:トヨタ自動車ヴェルブリッツ)には3-12で完敗、初優勝を逃している。
その翌年度(1986年度)に平尾が神鋼に加入したが、社会人大会の準決勝で釜石に9-9で引き分けるも抽選負け、悲願達成はならなかった(決勝で釜石はトヨタに敗れる)。
1987年度は、優勝候補と言われながら社会人大会の一回戦で東芝府中(現:東芝ブレイブルーパス)に15-16で逆転負け、脆さを露呈したのである。
当時の神鋼は、3連覇当時の同大を中心に大学出のスター選手を揃えていた。
素材は一級品なのに、優勝はできない万年優勝候補。
神鋼にはそんなイメージが付きまとっていた。
そんな頃に、平尾が加入したのである。
ゆっくり進む改革
しかし神鋼でも、平尾加入前から改革はゆっくり進んでいった。
その第一歩が、監督制の廃止である。
1984年度、神鋼は慶應義塾大出身の東山勝英が主将の時、監督制を廃止してヘッドコーチとコーチのみを置く体制に変えた。
自分たちは学生と違って社会人の大人、監督から強制されるよりも自主的に練習したい、というわけである。
その年度の社会人大会で、神鋼は初めて決勝に進出した(決勝では釜石に0-22で完敗)。
翌85年度にはコーチだけになり、87年度からは遂にコーチすらいなくなって、主将を中心としたチーム体制に変わったのである。
神鋼が行った改革は、それだけではない。
毎日行っていた練習を、週3回に減らしたのだ。
普通、チームが勝てなくなれば、練習量を増やすのが当然である。
しかし、神鋼は逆の道を歩んだ。
それは、J・A・デュクローというカナダ人選手の一言からだった。
「僕たちは試合になるとワクワクしながらスパイクを履く。でもみんなは、試合でもスパイクを履くのさえ辛そうだ。練習のし過ぎじゃないのか?」
いずれも同大出身である。
二人は早速、同大の恩師である岡仁詩の元へ相談に行った。
あの、平尾のプレーを「オモロない」の一言で片付けた人物である。
「練習量を減らしたいと思うんですが」
林と萩本は岡に言った。
「オモロいやないか」
岡はそう答えた。
平尾の、セオリー通りのプレーがオモロなくて、林と萩本による常識外れの提案をオモロいと言う。
そもそも同大は、神鋼に先駆けて監督制を廃止していた。
岡は監督を退き、部長として一歩引いた立場から部を見守り、同大は大学選手権3連覇を果たしたのである。
こうして神鋼は、毎日練習するのが当たり前だった当時の日本スポーツ界では異例の、週3回の練習に留めたのだ。
しかし、それでも成果は出なかった。
いつもあと一歩のところまで詰め寄りながら、なかなか優勝には辿り着けない。
まだ1ピースが足りなかったのだ。
そこで、最後のピースを埋めるために、白羽の矢が立ったのが平尾だったのである。
パスには腰を入れるな
平尾がイギリスから帰国、神鋼に加入して最初に言った言葉が、
「パスには腰を入れるな。手足はバラバラに動かせ」
だった。
それは、神鋼の選手たちにとって初めて聞く言葉だったのである。
普通、ラグビーを始めた選手が初めて教わるのが、
「パスをするときは腰に力を入れなさい。力を入れるには、手足を揃えなさい」
ということだ。
たしかにその方が、綺麗なパスを放れるし、コントロールも付きやすい。
ところが実際には、試合になると相手がいる。
当然、相手は綺麗なパスを放らせまいとプレッシャーを掛けてくるのだ。
そうなると、「パスには腰を入れて、手足を揃えて」どころではなくなる。
つまり、実戦的ではない。
そんな「試合に即した技術」を、平尾はイギリスで学んできた。
それを神鋼に持ち込んだのである。
「実戦では相手がいるので、セオリー通りのパスが放れるケースは少ない。そんな状況でも正確なパスを放れるように練習しろ。それに、実戦では正確なパスが飛んで来るとは限らないので、受ける選手はどんなパスでも捕れるようにしろ」
と平尾は説いたのだ。
この考え方は「練習ありき」の日本スポーツ界に一石を投じ、実戦に即した練習を日本にもたらしたのである。
平尾の理論は神鋼に浸透し、入部から僅か3年目の1988年度から新主将に選ばれた。
前年度には東芝府中に社会人大会で一回戦負け、平尾にとって満身創痍からのスタートだった。
ラグビーは格闘技じゃない
それは、フォワード(FW)偏重のチームを作り変えることである。
当時の神鋼には、同大のFWとして活躍した前主将の林や、平尾新主将の下で副将を務めるFWリーダーの大八木淳史ら、同大出身のFW荒くれ者が揃っていたのだ。
彼ら強力FWは、相手をブッ飛ばすことが3度のメシより好きな暴れん坊である。
「試合には負けたけど、相手FWをブッ潰した」
などと自慢するのが、FW連中の論理だった。
だが平尾は、そんなFW連中に意識改革を求めた。
当時の神鋼は、FWが力に任せて狂ったように前進するも、フォローがないために孤立してしまい、チャンスを逃すことが多々あったのである。
「ラグビーは、相手を潰してナンボの格闘技やない。点を取ってナンボの球技なんや。ボールを持ったら行く所まで行かず、ボールを活かすことを考えてくれ」
平尾はFWに対して口酸っぱく言った。
しかし、FW連中は聞く耳を持たなかった。
「平尾はラグビーの醍醐味がわかっとらん。格闘技こそがラグビーの本質やないか」
ところが、平尾の考え方に賛同を示した、意外な人物がいた。
副将でFWリーダーの大八木である。
大八木は平尾にとって、伏見工業高(現:京都工学院高)および同大の先輩の人物だ。
そして何よりも、FWとして「相手をブッ潰すことが3度のメシより好きな選手」でもある。
その大八木が、後輩である平尾の考え方に賛同し、ボールを活かすプレーを始めた。
FWリーダーの大八木がチームプレーを率先してやるのなら、他のFWも従わざるを得ない。
こうしてFWによる、チームプレーが生まれ始めた。
神鋼の致命的な弱点
FWは、ボールを活かすプレーをするようになったが、それ以上に致命的な弱点があった。
それは、スクラムが異常なほどに弱かったのである。
当時のラグビーでは、スクラムの弱いチームが優勝するなど有り得なかった。
日本選手権7連覇を達成した釜石は”鉄のスクラム”が代名詞だったし、その後の盟主となったトヨタは軽量FWながら「ラグビーはスクラムに始まりスクラムに終わる」の哲学で釜石から覇権を奪い取った。
しかし神鋼は、重量FWが不思議なぐらいにスクラムが弱かったのである。
プレース・キッカーがいなかったのである。
ペナルティ・ゴールで3点、トライ後のコンバージョン・ゴールで2点を奪えるプレース・キッカーは、勝ち抜くためには絶対条件だった。
優勝チームには名プレース・キッカーあり、である。
この原則は、現在のラグビーでも変わらない。
しかし、当時の神鋼には、貴重な得点源となるプレース・キッカーが不在だった。
平尾が主将に就任した年、神鋼は苦難の道を歩んだ。
スクラムが弱い、プレース・キッカーがいないでは、勝てるわけがない。
関西リーグでは、近年は問題にしなかった古豪の近鉄(現:近鉄ライナーズ)に敗れ、さらに昇格したばかりのワールド(現:六甲ファイティングブル)にも敗れて、トヨタなどと共に2位に甘んじる。
社会人大会には出場を果たしたものの、前年度までとは違い、優勝候補とは程遠かった。
「本当に、平尾で勝てるのか?」
と。
そんな所で、スクラムせんかったらええねん
全国社会人大会に向けて、最大の課題はスクラムだった。
特に致命傷となるのは、自陣ゴール前でのスクラムである。
ここでスクラムを押しまくられては、トライを奪われるのは必至だ。
そこでFWは、入念に自陣ゴール前でのスクラムの練習を繰り返す。
しかし、主将の平尾はこう言い放った。
「そんなとこで、スクラムを組ませんようにしたらええねん」
要するに、自陣ゴール前で相手ボールのスクラムを組ませないようなゲーム・プランを立てよう、というわけだ。
自陣ゴール前でノックオンやスローフォワードなどのつまらないミスを防げば、相手ボールによる自陣ゴール前スクラムを防ぐことができる。
自チームの弱点をさらけ出さないようなゲームメイクをすれば、失点は最小限に食い止めることができるというわけだ。
トライを獲ったらええ
スクラムを極力避ける、というゲーム・プランを立てても、プレース・キックで点を取れなければどうしようもない。
当時のラグビーは、スクラムとプレース・キッカーが金科玉条のように勝利への絶対条件だったのだ。
しかし、当時の神鋼には、その両方ともない。
神鋼の必敗は、自明の理だった。
だが、平尾の結論は、セオリーとは逆の方向へ行く。
つまり、
「プレース・キックで点を取られへんのやったら、トライで点を取ればええ」
と。
スクラムもそうだが、プレース・キッカーなんて、一朝一夕で出来るものではない。
今さらスクラムを強くしようとしたり、プレース・キッカーを育てるなんて無理なのだ。
そこで、平尾は現実に沿ったゲーム・プランを企てたのである。
俺が駒になる
FW主体のチームながらスクラムが弱体ならば、バックス(BK)でトライを獲りに行くしかない。
しかし、当時の神鋼はFW偏重のチームだったので、バックスの駒が足りなかったのである。
BKの駒が足りなければ、トライを獲るなど絵に描いた餅だ。
平尾は頭を抱えてしまった。
だが、平尾はふと閃いた。
「BKの駒が足りんのやったら、俺がその駒になったらええんとちゃうか?」
と。
当時、平尾のポジションは司令塔たるスタンドオフ(SO)。
野球で言えばキャッチャー、アメリカン・フットボールならばクォーターバック(QB)的な存在で、まさしくチームの頭脳だった。
しかし、その平尾がスリークォーター・バックス(TB)ラインに入れば、攻撃の幅が広がるのではないか。
平尾は同大時代、インサイド・センター(CTB)の経験を積んでいる。
平尾は、自身が駒になるべく、CTBに入ることを決めた。
しかし、空いたSOはどうする?
そこで、平尾がSOに指名したのが無名の新人、薮木宏之だった。
薮木は名門の明治大出身ながら、レギュラー・ポジションは獲れなかった、いわゆる「負け組」の選手である。
しかし平尾は、大学では全く実績を残していない薮木に注目した。
セオリーでは考えられないようなプレーをするのである。
薮木の、大学時代のポジションはスクラムハーフ(SH)。
司令塔たるSOは、全くのド素人だった。
しかし平尾は、薮木のSOに全てを賭けた。
こうして薮木は「パスはヘタ、キックはヘタ、ゲームメイクはできない」という、前代未聞のないないずくしSOとなったのである。
ところが、このセオリー無視のSOが功を奏した。
普通なら、蹴って来る場面でも、薮木はキックしない。
スキあらばとばかりに、ディフェンスのギャップを突いてくるのである。
相手は薮木の動きを読めずに、神鋼の前進を許してしまった。
平尾は薮木に対し、
「困った時は俺にボールを回せ。自分が行ける時は、自分で行け」
と指示した。
この指示が、薮木を自由奔放に動かしたのである。
キックがヘタな薮木にとって、これは有り難い指示だった。
関西リーグでは近鉄やワールドに敗れ、暗雲が立ち込めた頃にトヨタには勝って、社会人大会への進出は決めた。
だが、その後の快進撃は、薮木のSO起用がなければ、果たせなかったのである。
そして、この時から神鋼の快進撃が始まった。
社会人大会での二回戦では、優勝候補の三洋電機(現:パナソニック・ワイルドナイツ)を破り、準決勝は関西での宿敵・トヨタを屠って、決勝では東芝府中を粉砕、遂に悲願の社会人王者となった。
「万年優勝候補」と揶揄された神鋼とは思えない、試合巧者ぶりである。
そして日本選手権では、トンガ・パワーを信条とする大東文化大が相手。
スクラムでは神鋼が圧倒的に不利、試合としても大東大が有利ではないかとさえ言われた。
当時は現在とは違って、社会人と大学では互角に近い実力だったのである。
前年は早稲田大が東芝府中を破って日本一になっていたし、さらにその2年前は慶應義塾大がトヨタに勝って日本一となっていた。
平尾を中心とする神鋼のBKが縦横無尽に走り回り、大東大の強力FWを疲弊させたのである。
終わってみれば、46-17という神鋼の圧勝。
ここから、神鋼の黄金時代は始まった。
ワセダを叩きのめせ!
2年目となった1989年度、神鋼・平尾組は盤石の態勢が整った。
関西リーグを全勝で難なく通過、社会人大会にも余裕の出場。
苦戦続きだった前年度と違い、ここでも余裕の試合運びで社会人大会2連覇を成し遂げた。
日本選手権の相手は、学生王者の早稲田大である。
この年の早大は戦力が充実し、ひょっとすると社会人王者を倒して日本一になるのではないか、と期待を窺わせた。
そして神鋼相手の日本選手権、早大の気力はみなぎっていたのである。
「声を出せ、オラァー!」
試合前、いかにも学生らしい気合いが入った雄叫びを上げる早大フィフティーン。
一方、神鋼は声も出さず黙々とアップを繰り返す。
しかし、アップを終えた神鋼は、集まって一気に声を上げた。
「スクイーズ・ナウ!」
このド迫力に、早大フィフティーンはたじろいた。
そして、神鋼主将の平尾は叫ぶ。
「どうせ勝つなら叩きのめせ!つまらん勝ちなら早稲田にくれてやれ!」
およそ「気合い」とか無縁の平尾とは思えない言葉だった。
平尾にとって、早稲田は最大の目標だったのである。
日本のラグビーは、早稲田の理論を基本としていた。
体の小さい日本人が、どうやって海外の大型選手に対抗できるか。
そして考え出されたのが「接近・展開・連続」の理論だ。
この戦法で、日本代表は世界の強豪を脅かし、その存在をアピールした。
だが残念ながら、テストマッチ(国と国の代表チームによる試合)で大西ジャパンは勝ったことがないのである。
それでも大西ジャパンは、オールブラックス・ジュニアに勝ったり、イングランド代表には3-6と敗れたとはいえ大接戦を演じ、その理論の正しさを証明した。
それでも平尾は、大西理論に挑戦した。
大西理論を越えてみせる、と。
そのためにも、早大は学生とは言え、叩きのめす必要があった。
終わってみれば、58-4という、どうしようもないスコア。
当時とすれば、最多得点差である。
もっとも、この頃からは学生と社会人との実力差はハッキリと現れていた。
1987年度に早大が日本一になって以来、2015年度に至るまで学生が日本一になったことは1度もない。
この早稲田理論に噛みついた男に対して、興味を持った男がいた。
早稲田OBの、宿沢広朗である。
宿沢は1989年、日本ラグビー協会からオファーを受けていた。
「日本代表の監督になってくれないか」
と。
この頃の日本代表は、どん底の状況だった。
1987年に行われたラグビー・ワールドカップ第1回大会にジャパンはアジア代表として予選なしで推薦出場したものの、本番では3戦全敗で予選敗退。
第2回のW杯では予選が行われるため、日本は韓国、トンガ、西サモア(現:サモア)のうちに2勝しなければ、ワールドカップに出場できない状態だった。
どう考えても、荷が重い立場である。
指導歴のない宿沢にとって、それは晴天の霹靂以外の何物でもなかった。
しかし、宿沢はその申し出を受諾した。
宿澤には、予選突破の切り札がいたのである。
それが平尾だった。
宿沢ジャパン平尾組が走り出すのは、神鋼が2連覇を果たした半年前のことである。
(つづく)