大阪府の南東部、富田林市の観光案内所「観光交流施設きらめきファクトリー」で、6月19日まで「富田林と近鉄展」が行われていた。
この展示会の存在を知ったのは、富田林市や河内長野市などが詳しく書かれている「奥河内から情報発信」というブログである。
近鉄、即ち近畿日本鉄道と言えば、言うまでもなくJRを除く私鉄では日本最長路線を誇る鉄道会社だ。
では、その近鉄がどの部分から始まったのかご存じだろうか。
それは、1898年(明治31年)3月に柏原~道明寺~古市間に開通した河陽鉄道がその始まりである。
▼現在の近鉄の全路線図。赤く囲っている部分が近鉄の元祖・河陽鉄道
日露戦争が開戦したのが1904年(明治37年)で、それより6年も前なのだから、相当古い話だ。
翌月の4月には富田林まで開通している。
しかし、当時の南河内地方は人口が少なかったせいか、翌1899年(明治32年)には河陽鉄道は経営難に陥り、早くも解散。
とはいえ、その後を河南鉄道が引き継ぎ、路線は維持された。
1902年(明治35年)には長野(現:河内長野)まで路線を伸ばし、柏原~長野間が全通して、南河内地方の大動脈となる。
1919年(大正8年)、河南鉄道は大阪進出を目指し、社名を大阪鉄道(大鉄)と変更した。
ちなみに、この大阪鉄道は二代目で、初代の大阪鉄道は現在のJRの関西本線(大和路線)だ。
1922年(大正11年)、大鉄は道明寺から分岐して布忍まで開通させる。
道明寺は柏原と古市の間にある駅であり、したがって柏原~道明寺は柏原線(現:道明寺線)という支線に格下げされてしまった。
さらに、大鉄は布忍~大阪天王寺(現:大阪阿部野橋)を開通させ、念願の大阪進出を果たす。
ここに、大阪天王寺~長野を結ぶ、現在の大阪阿部野橋~河内長野の直通運転と同じ運行形態が実現した。
大鉄はさらに大和路延長路線を計画、1929年(昭和4年)に古市~久米寺(現:橿原神宮前)を開通させ、さらに吉野鉄道(現:近鉄吉野線)に乗り入れて大阪阿部野橋からの直通運転を開始、現在の近鉄南大阪線とほぼ同じ運行形態となる。
つまり古市以南は本線のルートから外れ、古市~富田林~長野は長野線という支線になってしまった。
これにより、近鉄最古の路線である河陽鉄道は、道明寺~古市の1駅間のみが近鉄南大阪線の一部で、それ以外の柏原~道明寺および古市~富田林~長野は単なる支線に甘んじるようになったのである。
ただし、現在でも大阪阿部野橋~河内長野は直通運転を行っており、乗降客数から言えば橿原神宮前方面よりもむしろ本線格だ。
▼近鉄の歴史は1898年に開通した河陽鉄道から始まった
▼現在の近鉄南大阪線。開通当時の道明寺~古市以外は支線となった(御所線は省略)
戦時中の1943年(昭和18年)には、上本町(現:大阪上本町)と名古屋・伊勢方面を結んでいた関西急行鉄道(関急)に合併されて、現在の近鉄の原型が出来上がる。
翌1944年(昭和19年)には戦時体制により、軍部により南海鉄道(現:南海電気鉄道)と合併させられ、近畿日本鉄道と改称した。
戦後の1947年(昭和22年)、近鉄は再び南海と分離して、現在に至っている。
前置きが長くなったが、それでは「富田林と近鉄展」を見ていこう。
写真は、商業ブログでなければOKという使用許可をいただいている。
まず、目を惹いたのが河南鉄道時代の時刻表。
1903年(明治36年)2月となっている。
つまり、日露戦争開戦の前年だ。
この頃は既に柏原~長野間が全通していたが、まだ天王寺(大阪阿部野橋)方面には達していない。
▼河南鉄道の路線図(「富田林と近鉄展」より)
なお、柏原と接続している「関西線」というのは関西鉄道(初代・大阪鉄道)即ち現在のJRの関西本線(大和路線)だ。
長野と接続している「高野線」とは高野鉄道、つまり現在の南海電気鉄道の高野線である。
現在の南海高野線は難波駅が事実上の起点となっているが、当時の高野鉄道は汐見橋駅が起点だった。
いや、現在でも南海高野線の正式な起点は汐見橋駅なのだが、全列車が難波駅を起点としており、汐見橋駅から南海高野線に直通している列車はない。
現在の南海高野線は、岸里玉出駅から難波駅まで南海本線の路線を借りている、という考え方である。
それはともかく、当時の河南鉄道の時刻表が面白い。
柏原から長野までの、河南鉄道の各駅の発着時刻が載っているのは当然だが、他にも「湊町」「奈良」「汐見橋」という、河南鉄道以外の駅の発着時刻まで載っている。
「湊町」というのは現在のJR難波駅、「奈良」はJRの奈良駅、汐見橋は前述のとおり南海高野線(汐見橋線)の汐見橋駅だ。
つまり、当時の河南鉄道は、柏原と長野に接続する他社線の起終点の発着時刻まで掲載していたのだ。
なんという乗客サービスだろう。
こんなこと、現在では考えられないが、明治時代の方が乗客の利便性を考えていたということだろうか。
▼1903年(明治36年)2月の、河南鉄道の時刻表(「富田林と近鉄展」より)
しかも、長野発の上り一番列車が午前5時4分とメチャメチャ早い。
ちなみに、現在の近鉄長野線の河内長野始発は平日でも午前5時29分だ。
明治時代に、それほど列車の需要があったのだろうか。
この一番列車、終点の柏原着が午前5時45分で、つまり始発から終点まで41分かかっている。
現在の感覚から言うと遅いようにも感じられるが、何しろ当時は蒸気機関車だ。
しかも、急行など速達列車はなく各駅停車と思われるので案外速い。
柏原から関西鉄道に乗り継いで、大阪都心部の湊町に着くのが午前7時7分で、ちょっと時間がかかっている。
ただ、当時はまだサラリーマン社会になってなかったと思われるため、どのような人達が一番列車を利用していたのか興味深い。
ちなみに、柏原発の下り最終列車が午後9時52分発で、これも思ったより遅かったようだ。
最終列車は長野まで行かず富田林止まりだったようで、富田林着が午後10時20分。
当時は電灯もなく、夜は早かったように思われるが、それでも明治時代の人々は午後10時過ぎまで活動していたらしい。
▼河南鉄道で運行されていた海外製の蒸気機関車(「富田林と近鉄展」より)
▼電化された1928年(昭和3年)頃の電車。「金剛」とあるのは南海高野線の金剛駅ではなく、金剛山の登山客を乗せたハイキング列車(「富田林と近鉄展」より)
ここからは、戦後の富田林駅周辺を見ていただこう。
現在との対比も面白い。
▼1960年(昭和35年)頃の富田林駅の南口(「富田林と近鉄展」より)
▼2015年の富田林駅の南口(筆者撮影)
▼1960年(昭和35年)頃の富田林駅の南口前の道(「富田林と近鉄展」より)
▼2015年の富田林駅の南口前の道(筆者撮影)
▼1908~1910年(明治41~43年)頃、現在の富田林駅前にあるコノミヤ&エディオン付近で、競輪が行われていたという(「富田林と近鉄展」より)