先日、『「猫だまし」が何故いけないのか』という記事を書いたが、少なからず反響があったようだ。
ある人からは、こんな意見を戴いた。
『とりあえず「相撲の文化」として「横綱の猫だましがなぜ許されないか」は分かった。でも、筆者の「スポーツ」の定義は、西洋近代スポーツの定義と異なるのでは?筆者のそれは「文化的行事」との違いが分からない。』
文字数制限があるため、何を言いたいのかはわかりにくいが、要するに相撲は 日本文化であり、西洋近代スポーツとは違うのに、それが論じられていない、ということらしい。
それは当然のことで、そんなことは論じるつもりもなかったため、上記の記事では全く書いていない。
そんな「定義の違い」がわからないのは当たり前である。
では、相撲がスポーツか否かと問われれば、当然スポーツである。
「相撲は神事であり、スポーツではない」という意見もあるが、それはスポーツの真意がわかっていない。
つまり「相撲は神事であり、スポーツでもある」というのが正しい。
たとえば、チェスが冬季オリンピックの種目として採用、というニュースが流れた。
なぜスポーツでもないチェスがオリンピックに?と違和感を覚えた人も多いだろう。
だが、チェスはレッキとしたスポーツなのだ。
スポーツの語源はラテン語のdisportareであり「仕事からの解放」という意味である。
それがフランス語でdisportとなり、英語ではsportと語形変化した。
in sportとは「戯れに」という意味であり、a sport of termsと言えば「言葉の遊戯」ということである。
つまり、楽しむことがスポーツの真骨頂なのだ。
チェスは全く体を動かさないが、立派なスポーツなのである。
見て楽しく、プレーして楽しいのがスポーツだ。
そこには、体育会的な勝利至上主義は存在しない。
それを理解しないと、スポーツを見誤ることになる。
もう一つ、スポーツとは関係なく日本文化と西洋文化の違いをステレオタイプ的に論じる人が多いが、あまり意味がないことだと思う。
もちろん、文化的な違いを考察することは有意義だと思うが、こういう人は大抵、日本を極端に美化するか、あるいは極端に貶めるかのどちらかなので、全く意味をなさない。
たとえば、上記の記事に書いた白鵬や朝青龍は日本人と同じアジア人(東洋人)である。
ましてや、日本人だって人種的にはモンゴロイドであり、ルーツはモンゴル人と全く同じだ。
にもかかわらず、両国は全く違う歴史を歩んだため、文化や考え方も全然異なってしまったのである。
もちろん、東洋と西洋では全く文化は異なるが、それだけでなく各国の歩んだ歴史も全然違うため、それぞれの国に独自の文化が生まれたのだ。
それを考察する方がよほど有意義であり、しかも面白い。
この前のラグビー・ワールドカップによりラグビーに興味を持った人も多いと思うが、中にはまだラグビーとアメリカン・フットボールの違いがわからない、という人もいるだろう。
どちらも楕円球を使い、ボールを蹴ることも手で投げることも持って走ることも許され、タックルもある。
得点の仕方も似通っており、知らない人が見たら同じようなスポーツと思っても無理はない。
だが、筆者からすれば、この両スポーツほど好対照な競技はないのである。
ラグビーの母国はイギリスであり、アメリカン・フットボールはその名の通りアメリカで生まれた。
イギリスもアメリカも同じ西洋というだけでなく、どちらもアングロサクソン系である。
ましてやアメリカはイギリスからの移民が多く、最初はイギリスの植民地だったりして、ルーツは同じはずだ。
にもかかわらず、この二つのスポーツは両国の文化の違いを見事に表しており、全く異なる発展をしてきた。
先に生まれたのはラグビーであり、イギリスで発生したのは前述したとおり。
ラグビーはアメリカに渡ったものの、そのまま定着はせず、アメリカン・フットボールという似ても似つかぬスポーツを生み出した。
なぜアメリカン・フットボールという新たなスポーツを発明したのか?
そこにイギリスとアメリカという両国の違いが浮き彫りになって来る。
イギリスは王室を中心に発展した、歴史の古い国家だ。
そして、貴族社会が生まれたのである。
そんな貴族社会から、ラグビーというスポーツが生み出された。
ラグビーとは、貴族たちが余暇に楽しむスポーツだったのである。
だからこそ、ラグビーは長い間アマチュアリズムが守られてきた。
貴族は元々金持ちなのだから、スポーツで金を稼ぐなどとんでもない、という考え方である。
貴族社会のイギリスでは、法律でも慣習法が適用された。
ハッキリとしたルールを決めるのではなく、人としてやってはいけないことはわかっているはずだ、という考え方が根底にある。
それがラグビーというスポーツによく現れているのだ。
それぞれ異なった文化や宗教が集まってきたのだから、当然のことながら人によって考え方が違う。
そのため、確固たる法律が必要だった。
王室も貴族もない国家なので、細かいルール作りが急務だったのである。
そして、誰でも平等に生活できる国家を目指し、自由の国・アメリカを建国した。
ラグビー独特のルールとして、アドバンテージ・ルールというものがある。
たとえ反則があっても、レフェリーは直ちに笛は吹かず、そのままゲームの行方を見守って、反則された側に不利がなかったと判断すると、反則はなかったこととしてゲームを流してしまうのだ。
反則でいちいちゲームを止めると、ゲーム自体が面白くなくなってしまう、という理由である。
反則がなぜいけないのかというと、普通は「卑怯だから」「汚いから」と思うだろう。
だが、ラグビーで反則が忌み嫌われるのは「反則があると、ゲームがつまらなくなるから」なのだ。
ラグビーでは、反則はやらないもの、という考え方が根底にある。
しかし、接触が激しいスポーツなので、どうしても反則は起こってしまう。
そんなときは、反則した側に罰則を与えるよりも、反則された側にチャンスを与えるのだ。
反則された側は、軽い反則の場合はマイボールのスクラム、中程度の反則の時にはフリー・キック、重い反則の場合はペナルティ・キックの権利を得ることができる。
だが、それらのチャンスを活かせなければ、反則された側の得はなくなってしまう。
他民族国家で育ったアメリカ人は、ラグビーが持つこんな曖昧なルールが嫌だったのだろう。
アメフトでは、反則は厳しく取り締まられる。
反則があった場合、直ちにイエロー・フラッグが飛び、審判団が協議して、反則の重さによって何ヤード罰退という罰が反則した側に課せられるのだ。
反則された側にチャンスを与えるのではなく、反則した側に罰を与えるのである。
その意味では、ラグビーのレフェリーは試合を円滑に進めるためのディレクターならば、アメフトのそれは反則を取り締まる裁判官のようなものだろう。
しかし、裏を返せばアメフトでは、反則をやってその罰を受ければ何をやってもいい、ということになる。
たとえば、時間の使い方がそうだ。
試合終了間際に、勝っている方のチームはなるだけ時間を使って早くタイムアップさせようとする。
審判が試合開始を告げるレディー・フォー・プレーを合図したら、攻撃側は25秒以内にプレーを開始しなければならない。
逆に言えば、25秒はタップリ使えるのだ。
その間、ハドルと言って選手たちは作戦会議をするが、それが25秒を過ぎて反則を取られても構わない。
たったの5ヤード罰退なのだから、その程度だったら罰を受けても時間を使った方が有利なのだ。
反則だって、立派な戦術の一つなのである。
似たようなことが、同じアメリカ生まれのバスケットボールにもある。
試合終了間際で負けているチームは、わざと反則して時計を止めてしまうのだ。
そして相手にフリー・スローをさせ、失敗したらリバウンドのボールを取って、一気に逆転を狙う。
反則して罰を受けたのだから、あとは何をしてもいいという考え方だろう。
しかし、ラグビーだとこうはいかない。
試合時間がタイムアップになっても、プレーが続いている限り試合は続行される。
勝っているチームは早くゲームを切って試合を終わらせたいところだが、相手がボールを保持している限り、それはできない。
ならば、わざと反則してゲームを切ろうとすると、その場合はタイムアップになっていても、ゲームは続行してしまうのだ。
相手にペナルティ・キックのチャンスを与えるのだから、反則のやり損である。
しかもそれが悪質ならば、反則した選手はシンビン(10分間の一時的退場)を食らって、そのチームは一人少ない人数で戦わなくてはならない。
反則しても罰を受けたのだからそれでいいのではないか、ということが許されないのだ。
ボールを前に落としてしまう行為で、軽微な反則として相手ボールのスクラムとなる。
反則としてはよく起こる軽いものだが、相手がパスしたボールをはたいてしまう故意のノックオンとなると話が違う。
その場合はインテンショナル・ノックオンと言って、相手にペナルティ・キックのチャンスを与えるという、極めて重度な反則になってしまうのだ。
しかも、相手のトライチャンスでインテンショナル・ノックオンをしてしまうと、その反則が無ければトライできたとしてペナルティ・トライ(認定トライ)を与えてしまうばかりか、場合によってはシンビンになることもある。
反則に対して寛容に見えるラグビーでも、故意の反則は厳しく取り締まるのである。
反則に対して実に合理的な対処をするが、反則すら戦術にしてしまうアメリカン・フットボール。
曖昧なルールだが、故意の反則には厳しいラグビー。