先日、小林一三記念館に行ってきた。
4月11日から同館で「小林一三と野球―高校野球100周年記念」という展示が行われているというのを知って行ったのだが、前回ここで「消えた球団シリーズ」の阪急ブレーブス編を書いたので、先に同館を訪れれば良かったと後悔したものだ。
上記のコラムでも書いているように、小林一三(こばやし・いちぞう)とは阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)の初代オーナーである。
でも、展示物を見るとコラムでは重要なポイントを外さずに書いていたので、少なからずホッとした。
すぐ傍には大阪国際空港(伊丹空港)があるため、上空には旅客機が飛び交う。
そもそも、空港の一部は池田市にかかっている。
日清食品のチキンラーメン発祥の地としても知られ、「インスタントラーメン発明記念館」があることでも有名だ。
また、古典落語の「池田の猪買い」や「池田の牛ほめ」などの舞台ともなっており、「落語みゅーじあむ」もある。
近代的な面と、牧歌的な風景が混在する都市だ。
池田からは電車や阪神高速道路を利用してすぐに大阪市内へ行けるため、非常に便利なベッドタウンとなっている。
いや、大阪市内どころか、伊丹空港から日本全国どこへでも行けてしまうのだ。
その反面、市街地を離れるとすぐに片田舎の風情が目に飛び込んでくる。
実にユニークな街だ。
こんな街を作り上げたのは小林一三だったと言っても過言ではない。
この池田市の中心地、阪急電鉄宝塚本線の池田駅から徒歩約15分の所に小林一三記念館がある。
歩いて行くにはやや遠いが、この日の僕は車で行ったのでしんどさはない。
しかし、同館は狭い路地を入った所にあるため非常にわかりにくく、また一方通行が多いので辿り着くのには苦労した。
同館が狭い路地を入った所にある理由は簡単、そこが小林一三の旧邸である「雅俗山荘」だからである。
つまり、一三が住んでいた家をそのまま記念館にしたわけだ。
さすが明治からの大富豪、小林一三邸である。
車を無料駐車場に停め、受付で300円を払うと入場券をくれた。
旧邸に入ってみると、一三が客を招いただろう応接室らしき部屋があった。
そこにも、一三が生前に使っていたと思われる物が展示されている。
ただ、順路がわからずそこにあった扉を開けてみると、正装した老紳士がいきなり「いらっしゃいませ」と言ってきたのでビックリした。
どうやらここはレストランらしく、いかにも高級そうだったので入る気にはなれずに、失礼を承知で「記念館はどこですか?」と訊いた。
ギャルソンらしき老紳士は「この扉を出て、お2階が展示室になっております」と丁寧に答えてくれた。
ネクタイも締めていないラフな格好で、こんなレストランにはとても入れない。
こうして、無事に展示室へ行くことができた。
ところで、小林一三とはどんな人物か。
阪急ブレーブスの初代オーナーだということは既に書いたが、とてもそんなものでは収まりきらない大人物だ。
一三にとって、プロ野球チームを持つことなど、実に小さな事業だっただろう。
それどころか、鉄道のみならず現在の阪急阪神東宝グループに繋がる巨大ネットワークを築き上げたのである。
実は、東武鉄道の社長で「鉄道王」と呼ばれた根津嘉一郎や、東京に日本初の地下鉄を開通させた「日本の地下鉄の父」の異名を取る早川徳次も山梨県出身であり、山梨と鉄道には奇妙な縁がある。
と言っても、一三は初めから鉄道に興味を示したわけではなかった。
慶応義塾大学を卒業したあと、一三が志したのは新聞記者だった。
一三の夢は小説家になることで、そのためには当時は新聞社に入社するのが手っ取り早かったのである。
一三は都新聞(現:東京新聞)の入社を希望するが叶わず、やむなく全然別の道である三井銀行(現:三井住友銀行)に就職。
しかし一三にとって、それは苦痛以外の何物でもなかった。
三井銀行での一三は、ハッキリ言って落ちこぼれだったのである。
仕事が面白くない一三は遊び呆けてサボリの常習犯、左遷も経験した。
やがて上司に誘われて証券会社に出向となるが、恐慌のためにこの話はご破産、一三は妻子を抱えて路頭に迷うハメとなったのである。
この頃、大阪と舞鶴を結ぶ阪鶴鉄道(現:JR福知山線)の役員メンバーが、1906年(明治39年)に大阪~池田間を走る箕面有馬電気鉄道として免許を取得。
だが、恐慌のためこの計画は頓挫、阪鶴鉄道も国有化され、新鉄道会社はお流れになりそうだった。
しかし、失業中だった一三はこの鉄道に将来性があると直感し、新鉄道会社を引き継ぐ形で1907年(明治40年)に箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚本線)として発足させる。
ここに一三と鉄道との間に、初めて接点が生まれた。
鉄道ではなく軌道となっているが、実際に軌道(路面電車)となっていたのは一部だけで、実質的には鉄道と言っても良い。
なお、箕面電軌の設立に当たって、北浜銀行の頭取だった岩下清周に協力を仰いでいる。
あれだけ嫌だった銀行マンとしての経験が役に立ったのだ。
では、一三はどこにこの田舎電鉄の将来性を見たのだろうか。
社名には「有馬」が入っているが、実際には今日に至るまで有馬温泉へのルートは確立されていない。
つまり、有馬温泉への観光客目当てではなかった。
また、当時の池田は「池田の猪買い」の舞台になったほど、それこそ猪が出てきそうなド田舎。
終点の梅田にしたって、明治初期に大阪駅が設置されてから発展したものの、かつては寂しい田園地帯で、この頃でも大阪の中心地はもっと南の方だった。
このままでは、観光客はおろか通勤客だって呼び込めないだろう。
そのため、箕面有馬電軌は「ミミズ電車」と揶揄されていたのである。
一三の人生そのもののように、落ちこぼれのような鉄道会社だった。
だが、一三の発想は大胆だった。
「通勤客を呼び込めないのならば、通勤客を作ればいい」
と。
田舎電鉄の圧倒的不利を、逆手にとったのだ。
一三が行ったのは宅地開発だった。
現在では当たり前の手法だが、それだけでは通勤客を「作る」ことはできない。
いくら宅地開発をしたところで、人々が家を買わなければ何にもならないからだ。
当時、家を持っているのは地主などの大金持ちだけで、一般庶民は都会の借家に住むのが常識だった。
だが一三は発想の転換で、金のない一般庶民にも家を買わせたのである。
それはつまり、月賦によるローン支払い方法だった。
これも現在では当たり前の手法だが、当時としては画期的な、そして日本初の購入方法だったのである。
当時増えつつあったサラリーマンにとって、夢のマイホームが手に入るのは魅力だった。
しかも田舎なので、土地代は安い。
都心にある仕事場へは、電車が運んでくれる。
庶民にとっても鉄道会社にとっても、一石二鳥のアイデアだった。
一三の手法は、この後の私鉄にとって手本になったのは言うまでもない。
そして、ローンなどという発想が生まれたのは、一三が銀行マンだったからだろう。
ここでも一三の銀行経験が活きたのだ。
通勤客を作った次は、観光客を作ることだった。
宝塚には温泉や遊園地を、そして箕面には動物園を造る。
沿線にレジャー施設を造ることによって、休日の家族客を取り込んだのだ。
さらに一三は芸能・スポーツの分野まで進出する。
1914年(大正3年)には宝塚唱歌隊を設立。
これが現在の宝塚歌劇団である。
そして翌1915年(大正4年)には、沿線に造った豊中グラウンドで、第1回全国中等学校優勝野球大会を、大阪朝日新聞社と組んで開催した。
即ち、現在の夏の甲子園(全国高等学校野球選手権大会)の始まりだ。
だが、こちらの方は田舎電車の箕面有馬電軌では大勢の客をさばききれず、2年後の1917年(大正6年)には鳴尾球場を持つ阪神電気鉄道(阪神)に奪われてしまう。
それが一三には悔しかったのか、1918年(大正7年)には、阪神電鉄が走らせていた梅田(大阪)~三宮(神戸)間に、敢えて喧嘩を売る形で新路線を開通させた(現在の阪急神戸本線)。
そして新社名を阪神急行電鉄としたのである。
阪神急行電鉄の「阪」と「急」を取って、略称を「阪急」とした。
なお、「電気鉄道」や「電気軌道」ではなく「電鉄」としたのは、当時の法律上はあくまでも「軌道」で、「鉄道」への昇格を見据えて表現をぼかした「電鉄」にしたと言われる。
現在の社名も「阪急電気鉄道」ではなく「阪急電鉄」だが、法律上で「鉄道」と認められたのはなんと1978年(昭和53年)のことで、それまでは「軌道(即ち路面電車)」扱いだったのである。
なお、当時から社名を阪神電気鉄道としていた阪神も、1977年(昭和52年)までは法律上は「鉄道」ではなく「軌道」だった。
いずれにしても、阪急と阪神のライバル関係は、この頃に始まったと言って良い。
ここに、大阪~神戸間には阪急と阪神、そして明治初期から開通させていた国鉄との、三つ巴の鉄道戦争が勃発したのである。
大阪~神戸間の3路線の中で、最も山側を走る阪急は、芦屋に高級住宅街を開発、阪神間モダニズムを形成した。
実は芦屋の高級住宅街は、東京の高級住宅街である田園調布にまでおよび、一三が田園調布株式会社の実質的な経営者になったという。
この田園調布株式会社というのは、現在の東京急行電鉄(東急)の始祖だ。
一三は、日本の首都たる東京にも、鉄道や住宅開発において大きな影響を与えたのである。
一三の野望は鉄道事業や宅地開発、レジャー施設には留まらなかった。
1920年(大正9年)、東京の白木屋を招いて大阪側のターミナルである梅田駅の1階に商業施設を構え、2階に食堂を併設したのである。
白木屋が撤退した5年後の1925年(大正14年)には阪急マーケットを設立。
阪急マーケットは1929年(昭和4年)に、現在まで続く阪急百貨店に発展した。
それまでの百貨店(デパート)といえば、江戸時代の呉服屋から転じた店がほとんどだったが、日本はおろか世界で初めて鉄道会社が経営するデパートが誕生したのである。
これも現在では当たり前の手法だが、当時は駅の中に百貨店を構えるという発想はなかったのだ。
しかし一三は「ターミナルは単に電車が停まる場所」にしてはならないと考えたのである。
つまり、電車ではなく人を止めるべきだ、と。
当時の大阪はモンロー主義が貫かれており、大阪中心部の交通は大阪市営で賄われるべき、と考えられていた。
そのため、私鉄は大阪中心部まで路線を延ばすことができず、買い物客は私鉄や国鉄のターミナルで市電に乗り換え、中心部の百貨店に行っていたのである。
それをもったいないと考えた一三は、だったら梅田駅に百貨店を作ってしまえ、と思ったのだ。
もちろん、この形態は現在でも日本の各都市部で取り入られている。
その基礎を築いたのが一三だった。
1924年(大正13年)には、日本初のプロ野球チームである日本運動協会(芝浦協会)の後を受け、宝塚運動協会を設立。
これが後の阪急ブレーブスの礎となるが、詳しくは消えた球団シリーズの日本運動協会編と阪急ブレーブス編を参照されたい。
この頃の一三には、ライバルの阪神まで取り込んだ「鉄道リーグ」構想があったのだ。
つまり、当時は海のものとも山のものとも付かなかったプロ野球興行についても真剣に考えていたのである。
宝塚運動協会も電鉄リーグも、志半ばで頓挫したが、もし慶大卒業時点で都新聞に入社していたならば、読売新聞社の正力松太郎と協力して「新聞リーグ」を実現していたかも知れない。
そうなっていれば、今のプロ野球の形態も随分変わっていただろう。
芸能部門では、1932年(昭和7年)に宝塚歌劇団が東京進出を果たして東京宝塚劇場を発足。
同社は演劇のみならず、当時は最新鋭の娯楽だった映画界に進出した。
これが、東京宝塚劇場の「東」と「宝」を取って、現在の大手映画会社である東宝株式会社になったのは言うまでもない。
鉄道、沿線開発、レジャー、プロ野球、芸能と我が世を謳歌していた阪急グループだったが、まもなく戦争の影が忍び寄る。
太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)、阪神急行電鉄は国の政策により、大阪と京都を結んでいた京阪電気鉄道と強制的に合併させられる。
そして新社名は京阪神急行電鉄と改められた。
しかし、戦争が終わると阪急と京阪は再び分離する。
だが「新京阪線」と呼ばれた、元々は京阪電鉄だった路線が、なぜか阪急の管轄となった。
この頃は既に、新京阪線は阪急のターミナルである梅田駅に乗り入れていたからかも知れない。
かくして、阪急は宝塚本線、神戸本線、京都本線という三本柱が形成された。
京阪神急行電鉄という社名は長く続き、現在の阪急電鉄となったのは1973年(昭和48年)のことである。
しかし、京阪神急行電鉄なんて名称は、関西でも老いも若きも馴染みがなく、やはり阪急と呼ぶのが一般的であろう。
一三が没したのは1957年(昭和32年)1月25日、享年84歳だった。
池田市の自宅、即ち現在の小林一三記念館で息を引き取ったという。
落ちこぼれから一転、日本の事業を根底から変えるような、いい意味でのジェットコースターのような人生だったと言えよう。
なお、小林一三記念館で「小林一三と野球―高校野球100周年記念」を行っているのは9月27日まで。
野球ファンならぜひ行くことをお勧めする。
この期間を過ぎても、小林一三記念館は営業しているので、野球ファンならずとも、鉄道ファンや宝塚ファンなら行ってみると良い。
入場料は300円で、月曜日が休館日である(月曜日が祝日の場合は営業し、翌日が休館日)。
詳しくはこちらを参照↓