今年(2020年)の7月16日、阪急電鉄の神戸本線が開通100周年を迎えた。
阪急電鉄と言えば、関西大手私鉄の中でも最も高級感溢れる電車として知られ、独特のマルーン色がトレードマークだ。
そのままズバリ「阪急電車」というタイトルの映画が上映されたこともある。
そんな阪急電鉄のエピソードを見てみよう。
▼映画「阪急電車 片道15分の奇跡」。舞台となったのは阪急電鉄の今津線
◎1978年(昭和53年)まで路面電車だった!?阪急電車
1907年(明治40年)、小林一三の手によって箕面有馬電気軌道が設立、3年後の1910年(明治43年)に梅田(現:大阪梅田)~宝塚、そして途中駅の石橋(現:石橋阪大前)~箕面が開通した。
これが阪急電鉄の始まりであり、宝塚本線および箕面線の元祖である。
その後、1918年(大正7年)に阪神急行電鉄と改称、この時に「阪急」という略称が使われるようになった。
さらに、戦時中の1943年(昭和18年)には京阪神急行電鉄となり、戦後の1973年(昭和48年)に現在の阪急電鉄に改称される。
実は阪急電鉄(宝塚本線と神戸本線)、1978年(昭和53年)までは路面電車扱いだったことをご存じだろうか?
最初の社名からして「箕面有馬電気軌道」だったのだから、元々は軌道つまり路面電車として申請していたのである。
このことが、後に有利となった。
明治時代の宝塚や箕面などはド田舎だったのだから、何とか都市間輸送したいと考えた小林一三は、大阪~神戸に電車を走らせようとする。
しかし、そこには既にライバルがいた。
国鉄の大阪~神戸は日本で2番目の鉄道で(日本最初の鉄道は国鉄の東京・新橋~横浜)、そこに殴り込みをかけたのが阪神だった。
阪神は、既に国鉄が走っている大阪~神戸には鉄道申請を出しても許可されないと思い、軌道つまり路面電車として申請、許可されて1905年(明治38年)に大阪(出入橋)~神戸(三宮)を開通させた。
しかし、路面電車だと速度が13km/h程度に制限されていたので、とても国鉄には太刀打ちできない。
そこで阪神は、軌道区間をほんの僅かにして、その他は専用の線路を敷き、事実上の鉄道として運営したのである。
もちろん13km/h制限など無視、当時はまだ蒸気機関車だった国鉄では到底無理な速度で、阪神電車は大阪~神戸を快走した。
当然、鉄道局からメスが入ったがカエルの面になんとやら、阪神は関西商人らしく知らん顔してスピード違反を繰り返し、国鉄から乗客を奪い取る。
国鉄と阪神との争いの間に割って入ったのが阪急(当時は阪神急行電鉄)で、1920年(大正9年)7月16日に十三~神戸(後の上筒井、現在は廃止)が開通し、その日から今年の7月16日が100周年となったわけだ。
阪急も阪神に倣い、軌道として大阪~神戸を走らせるが、当然の如く阪急も阪神と同じように実態は路面電車ではなく鉄道そのもの、13km/hの制限速度など無視している。
こうして大阪~神戸は国鉄・阪神・阪急が走るという、現在と変わらない超競合路線となったが、最も山側を走る阪急は不利だった。
そこで、阪急の考えたキャッチコピーが「綺麗で早うて。ガラアキで」という自虐ネタである。
阪急の、法律上での「路面電車」扱いは戦後になってもずっと続き、ようやく「鉄道」となったのが1978年(昭和53年)、あの「江川卓・空白の一日事件」が勃発した年だ。
阪急の正式名称が「阪急電気鉄道」ではなく「阪急電鉄」なのは、元々は路面電車として申請したため、社名をボカシたのである。
しかし、ライバルの阪神は路面電車として申請したにもかかわらず、ずっと「阪神電気鉄道」と名乗り続けていた。
確信犯もいいところだが、阪神が「鉄道」となったのは阪急の前年、1977年(昭和52年)のことである。
◎阪急電鉄の京都本線は、元々京阪電気鉄道だった
現在の阪急は、神戸本線、宝塚本線、京都本線を三本柱としている。
この中で、京都本線だけは他の神戸本線や宝塚本線とは雰囲気が違う。
その理由は、京都本線が元々は京阪電気鉄道の所有路線だったからだ。
京阪は淀川の南東側に大阪(京橋)~京都(五条)、即ち京阪本線を走らせていたが、カーブが多くてスピードが出せない。
これでは国鉄との競争に負けると考えた京阪は、淀川の北西側にバイパス的な役割として新京阪線を敷設する。
しかし、前項で「阪神急行電鉄を京阪神急行電鉄と改称」と書いた通り、戦時中の1943年(昭和18年)に戦時体制による国からの要請(実際には強制)で阪急と京阪が合併した。
つまり、京阪本線も新京阪線も京阪神急行電鉄の所有となったのである。
戦後になり、1949年(昭和24年)には、阪急と京阪は再び分離したが(阪急の正式名称は京阪神急行電鉄のまま)、なぜか新京阪線は阪急の所有となった。
また京都本線は、神戸本線および宝塚本線(「神宝線」と呼ばれる)と同じマルーン色とはいえ車両の大きさや形態、製造会社が違う。
そのせいか京都本線は、神宝線の沿線住民からは「京都線をウチらの阪急と一緒にせんといて」と言われなき差別(?)を受けることが多い。
しかし阪急の京都本線は、世が世なら沿線住民が「おけいはん」と呼ばれる存在だったのである。
◎高校野球とプロ野球の元祖だった阪急電鉄
昭和は遠くになりにけり、とよく言われるが、阪急ブレーブスがオリエント・リース(現:オリックス)に身売りしたのが、昭和として事実上最後の年となった1988年(昭和63年)。
翌1989年(平成元年)からオリックス・ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)に生まれ変わったが、あれからもう30年以上も経つ。
今では、阪急電鉄がプロ野球チームを所有していたことを知らない人が多くなったかも知れない。
しかし、阪急電鉄こそがプロ野球のみならず高校野球の元祖だったと聞けば驚くだろうか。
プロ野球の元祖は読売新聞社で、高校野球に深く関わっていたのは阪神電気鉄道と考える人がほとんどに違いない。
ところが、読売新聞社や阪神電鉄よりも、阪急の方が先に野球と関係を持っていたのだ。
中等野球、現在の高校野球が始まったのは1915年(大正4年)。
この頃はまだ甲子園球場はなく、豊中グラウンドが全国大会の会場だった。
豊中グラウンドは箕面有馬電気軌道、即ち現在の阪急宝塚線沿いにあったのである。
しかし、豊中グラウンドは粗末な造りで、しかも当時の箕面有馬電気軌道は単線で1両編成という田舎電車に過ぎず(「ミミズ電車」と呼ばれていた)、とても大勢の客を捌き切れなかった。
そこで、主催の大阪朝日新聞社は僅か2回で豊中グラウンドの使用を諦め、第3回大会から阪神沿線の鳴尾球場に場所を移したのである。
当時の阪神電車は、箕面有馬電軌の「ミミズ電車」よりも遥かに立派だったのだ。
現在では、阪急沿線住民の誰もが「マルーン電車」を誇りにしているのに、隔世の感がある。
その後、中等野球は人気沸騰となり、鳴尾球場でも手狭になったため阪神は甲子園球場を建設するが、中等野球をライバルの阪神に奪われた小林一三はさぞかし悔しかっただろう。
プロ野球に話を移すと、日本最初のプロ球団は読売新聞社の巨人軍ではなく、1920年(大正9年)に発足した日本運動協会(芝浦協会)だ。
しかし、1923年(大正12年)に関東大震災が勃発、芝浦協会は活動を続けられなくなった。
そこで、小林一三が芝浦協会を引き取り、東京から兵庫県の宝塚へ本拠地を移転、宝塚運動協会として活動を継続させる。
つまり阪急は、日本初のプロ野球チームを所有することになったわけだ。
しかも、小林一三はライバルの阪神をはじめ、関西と関東の鉄道会社に声をかけ、プロ野球の「鉄道リーグ」を発足させようとする。
もし鉄道リーグが実現していれば、今のプロ野球界も随分と違った風景になっていただろうが、残念ながらこの計画は頓挫。
結局、宝塚運動協会は対戦相手のプロ野球チームがなく、解散の道を歩むことになる。
宝塚運動協会が消滅してから5年後の1934年(昭和9年)、読売新聞社がアメリカからメジャー・リーグ選抜チームを招いた際に大日本東京野球倶楽部を発足、これが現在の読売ジャイアンツとなる。
翌年、読売新聞社はプロ野球リーグ創設を実現すべく、対戦相手となるプロ野球チームを所有できる資本家を探すが、その時に白羽の矢が立ったのが甲子園球場を持つ阪神だった。
阪神は要請に応えて大阪タイガース(現:阪神タイガース)を発足するが、ライバル会社のプロ球団創設に慌てたのが、その時にアメリカを外遊していた小林一三。
小林一三はすぐにプロ野球チーム創立を電報で本社に命じ、1936年(昭和11年)に設立したのが大阪阪急野球協会(阪急軍)、後の阪急ブレーブスだ。
だが、プロ野球のイニシアチブは既に読売新聞社の手に握られ、阪急軍は後発球団となってしまう。
中等野球を阪神に取られ、プロ野球リーグを読売に取られた小林一三の心情たるや如何ばかりか。
▼阪急ブレーブスの本拠地だった西宮球場は今、西宮ガーデンズという商業施設になっている
話は変わるが、NFLのワシントン・レッドスキンズが改称すると発表した。
以前からインディアン団体に「レッドスキン(赤い肌)」という愛称が、インディアンに対する差別だと指摘されていたからだ。
同じように、MLBのアトランタ・ブレーブスも同団体から改称を求められていたが、もし阪急ブレーブスが存続していたら改称しただろうか?
日本人の感覚だと、「ブレーブ」というのは「勇者」のイメージで、インディアンを連想する人はほとんどいないのだが、もし阪急ブレーブスが身売りしていなければ「阪急ブルーウェーブ」が誕生していたかも知れない。
◎住宅ローンにデパート、多角経営の先駆者だった阪急電鉄
前述の阪急ブレーブスに宝塚歌劇団、今は閉鎖したが宝塚ファミリーランドなど、レジャー事業にも力を入れた阪急電鉄。
もちろん、遊興施設に足を運ぶ電車利用客を獲得するための作戦だが、レジャー事業だけでは一過性の乗客しか呼び込めない。
しかも、人口密集地の海沿いを走る阪神と違い、阪急が通っているのは田舎の山の手だ。
したがって通勤客など期待できないが、小林一三の考えは違った。
通勤客がいないのなら、通勤客を作ればいい。
そこで行ったのが、阪急沿線の宅地開発だ。
郊外に多くのサラリーマンを住まわせれば、そこから大阪や神戸へ通勤する人が増える。
しかも、郊外なので土地は安い。
郊外に住居を構え電車に乗って都会へ働きに出る、という現在では当たり前のスタイルを、小林一三が作り上げたのだ。
ただ、いくら土地が安いとは言っても、普通の会社員はなかなか一戸建てを購入するほどの財産はない。
そこで、導入したのが住宅ローンだ。
月賦として支払えば夢のマイホームが手に入りますよ、という謳い文句で。
阪急電鉄は通勤客を確保する上に、家まで売るという一石二鳥の大儲けとなったのだ。
さらに小林一三は、百貨店にまで手を伸ばす。
当時、大阪の百貨店と言えば、心斎橋にある大丸やそごうなど呉服系が一般的で、阪急の乗客は電車に乗って梅田に行き、そこから市電に乗り換えて心斎橋の大丸やそごうで買い物をしていた。
そこで小林一三は、乗客を心斎橋まで行かせずに梅田で止めてしまえ、と1925年(大正14年)に阪急マーケットを梅田駅に開店する。
ターミナル駅デパートの始まりだ。
1929年(昭和4年)、阪急マーケットは阪急百貨店に発展し、これが世界で初めての鉄道会社が経営するデパートである。
それまでは、駅と一体になった百貨店を作るという発想がなかったのだ。
つまり阪急は、鉄道系デパートの先駆者だったのである。
▼左側が大阪梅田駅と一体になった阪急百貨店
◎新幹線の線路を最初に走ったのは阪急電車だった!?
日本が世界に誇る超高速鉄道、新幹線。
新幹線が開通したのは1964年(昭和39年)、東京~新大阪だった。
しかし、その新幹線の線路を最初に走ったのは新幹線ではなく、なんと阪急電車だったのである。
京都~新大阪間は、ちょうど京都府と大阪府の府境付近が天王山と淀川に挟まれて非常に狭くなっており、そこには既に阪急の京都本線、国鉄の東海道本線、名神高速道路がひしめいていたので、新幹線の線路を敷設するには阪急の協力が必要だった。
そこで、国鉄と阪急が共同でこの間の高架を造ることになる。
まずは新幹線の工事を始め、次に阪急。
普通なら、工事で線路を走行できなくなった場合は仮の線路を敷設するのだが、よくよく考えたら既に新幹線の線路が完成していた。
新幹線も阪急電車も、線路の幅は同じ標準軌(1435㎜)である。
そこで無駄を省くため、阪急の工事中は仮の線路を敷設せずに、新幹線の線路に阪急電車を走らせたのだ。
新幹線と阪急電車ではスピードが全く違うが、新幹線は開業前だったので、何の問題もない。
つまり、阪急電車は新幹線の線路で、新幹線よりも早く営業運転したのだ。
しかも、新幹線の線路上には阪急の水無瀬駅が仮設されていたのである。
もし、阪急の線路の幅が国鉄の在来線と同じ狭軌(1067㎜)だったら、こんな裏技は使えなかった。
阪急が大阪~神戸を走らせたときは路面電車と偽り、国鉄とは不倶戴天の敵となったが、新幹線の開通時には阪急と国鉄がタッグを組んで、見事な連係プレーを魅せたのである。
◎京都本線は普通電車でも中津駅を通過
阪急電鉄の一大ターミナルである大阪梅田駅は、10面9線と頭端式ホームではJRを含め日本一の規模を誇る駅だ。
神戸本線・宝塚本線・京都本線の電車が駅から一斉に走り出す姿は壮観である。
そんな大阪梅田駅の次の駅は中津駅だが、実は普通電車であっても京都本線の電車は中津駅を通過してしまう。
これは、前項でも書いた京都本線の成り立ちが関係している。
元々は京阪の持ち物だった京都本線は十三駅が起点となっており、阪急と合併して梅田駅に乗り入れるようになってからも、中津駅に京都線用のホームを設置するスペースがなく、京都本線の電車は全て中津駅を通過せざるを得なかった。
現在でも、京都本線の正式な起点は十三駅となっている。
▼日本一の規模を誇る阪急電鉄の大阪梅田駅
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多くの通勤客と共に、京都・神戸・宝塚に観光客を運ぶ阪急電車。
コロナ騒ぎが収まったら、マルーン色の電車に乗って出掛けてみればいかが?