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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

消えた球団(15)~阪急ブレーブス

阪急ブレーブス

 阪急軍(1936年-1946年)~阪急ベアーズ~阪急ブレーブス(1947年4月18日-1988年)~オリックス・ブレーブス(1989年-1990年)~オリックス・ブルーウェーブ(1991年-2004年)~オリックス・バファローズ大阪近鉄バファローズを吸収合併:2005年-)~現在

日本一:4回(1975年、1976年、1977年、1996年)

リーグ優勝:12回(1967年、1968年、1969年、1971年、1972年、1975年、1976年、1977年、1978年、1984年、1995年、1996年)

 

阪急を知ることは、阪神を知ることである。

とは、別に経済学者が言ったことではない。

筆者が今、勝手に思い付いた言葉だ。

 

今回、阪急ブレーブスのことを調べるに当たって、「阪神」という単語は避けて通れなかった。

逆もまた真なりで、阪神を知ることは阪急を知るということでもある。

今回はのっけから野球とは関係のない話になることをご容赦頂きたい。

 

日露戦争が終結した1905年(明治38年)、大阪と神戸の間に阪神電気鉄道が開通した。

この頃、大阪~神戸間には既に国鉄が走っていたので、阪神は国に喧嘩を売ったようなものである。

しかも、阪神は鉄道敷設の許可を得るために、認可されやすい軌道線、即ち路面電車として申請したのだ。

認可されると、実際に軌道線となったのは僅かな区間で、大部分は専用線を走り、しかも軌道線の規定速度(僅か13km/h)を遥かに上回る速度で高速運転したのである。

こうして反則スレスレ(というより反則そのものだが)の運営により、阪神国鉄の客を奪い取っていった。

 

それから15年後の1920年(大正9年)、国鉄阪神の喧嘩に割り込んできたのが阪神急行電鉄、即ち現在の阪急電鉄だ。

大阪~神戸間というドル箱路線を、このまま指をくわえて見ているのはもったいない、と考えたのである。

そう考えたのは阪急グループの創始者、鉄道経営の神様とも言える小林一三だった。

その方法も、阪神と同じく軌道線として申請し、実際には専用路線で高速運転を行ったのである。

ちなみに、阪神電鉄阪急電鉄も、長いあいだ法律上は軌道線(路面電車)で、阪神電鉄が鉄道となったのは1977年(昭和52年)、阪急電鉄神戸線宝塚線は1978年(昭和53年)のことだった。

小林一三は、阪神に対してある恨みを抱いていたのである。

原因は中等野球、つまり現在の高校野球だった。

 

第1回全国中等学校優勝野球大会(現:全国高等学校野球選手権大会夏の甲子園)が行われたのは1915年(大正4年)のことだ。

全国大会の会場となったのが、阪急の前身である箕面有馬電気軌道の沿線にあった豊中グラウンドである。

この頃の箕面有馬電軌は単線の田舎電車、豊中グラウンドも粗末なものだったので大勢の客をさばききれず、僅か2年で豊中グラウンドの使用を諦めた。

 

そして、白羽の矢が立ったのが阪神沿線の鳴尾競馬場だったのである。

鳴尾競馬場に二面のグラウンドを設置して、大観衆に対応しようとしたのだ。

複線路線を持ち、大勢の競馬客に慣れている阪神電車が、人気の高まりつつあった中等野球にうってつけだったのである。

小林一三阪神に中等野球を持って行かれて、相当悔しかったに違いない。

そう考えると、大阪~神戸間に電車を走らせようとしたのも頷ける。

やはり大都市間に電車を走らせないと、商売にならないのだ。

 

ようやく野球の話になったところで、日本最初のプロ野球チームはどこだろうか?

この答えが読売ジャイアンツでないことは、「消えた球団シリーズ」をご覧になっている方ならご存知だろう。

そう、その答えは日本運動協会(通称:芝浦協会)だ。

詳しいことに関しては上記のチーム名をクリックして参照していただきたいが、日本運動協会のことについて簡単に説明すると、1920年(大正9年)に東京で発足したプロ野球チームだったが、その僅か3年後の関東大震災によって活動を休止せざるを得なくなったのである。

そこで、手を差し伸べたのが阪急グループの総帥である小林一三だった。

 

小林一三は元々、鉄道経営は鉄道事業のみで終わらせてはいけないと思っていた。

鉄道を敷設するとともに、沿線には住宅地を開発し、沿線人口を増やせば鉄道事業が潤う。

そのため、当時増えつつあった会社勤めのサラリーマンがマイホームを購入しやすいように、住宅ローンを日本で初めて導入したのも小林一三の案だった。

さらに、沿線にはレジャー施設を建設し、大勢の家族連れを取り込むことによって運賃収入と入場料を得ることができ、阪急の懐はますます温まる。

小林一三は、こうした多角経営の先駆者だった。

 

そして、小林一三はもう一つの狙いを付けた。

芸能界とスポーツ界である。

芸能界とは即ち宝塚歌劇団、スポーツ事業は言うまでもなくプロ野球だ。

 

日本運動協会を引き取った小林一三は、1924年(大正13年)に宝塚運動協会というプロ野球チームを設立した。

宝塚協会は日本運動協会の流れを汲むものだから、宝塚協会も日本最初のプロ野球チームと言えなくもない。

この頃、中等野球を阪神に取られた悔しさからか、1922年(大正11年)に宝塚球場を既に完成させていた。

この宝塚球場が宝塚協会の本拠地になったのは言うまでもない。

 

宝塚球場の存在は、阪神にも危機感を持たせた。

というのも、全国中等野球の会場だった鳴尾球場は、競馬場を改造した即席球場だったため、高まる中等野球人気に対して限界を迎えており、もはや中等野球を行うのは不可能だったのである。

とはいえ、このまま手をこまねいていると、宝塚球場を持つ阪急に再び中等野球を取られかねない。

そこで阪神が採った決断は、本格的な球場を造る、ということだった。

それも、宝塚球場など足元にも及ばず、アメリカのメジャー・リーグにも負けない東洋一の大球場を。

こうして乾坤一擲、阪神電鉄が社運を賭けて建設したのが甲子園球場だった。

今の時代では、甲子園球場ほどの大球場を一鉄道会社が建設するのは不可能だろう。

それほどまでに、阪神は阪急に対して恐怖感があったのだ。

つまり、もし阪急という存在がなかったら、甲子園球場は存在していなかったかも知れない。

 

一方、宝塚協会を発足させた小林一三には、1923年(大正12年)の頃からある構想があった。

それは「鉄道リーグ」とも言えるプロ野球リーグを設立する、というものである。

関西からはライバル会社である阪神電気鉄道の他に、京阪電気鉄道、大阪鉄道(現:近畿日本鉄道近鉄)、関東からは京成電鉄東京横浜電鉄(現:東京急行電鉄=東急)に声をかけ、プロ野球のリーグ戦を行おうとしていたのだ。

 

しかし、小林一三の壮大な計画も虚しく、宝塚協会は1929年(昭和4年)に解散してしまった。

日本運動協会が設立してから10年、宝塚協会が引き取ってからは僅か6年という短い命だった。

鉄道リーグが発足することもなく、対戦相手のプロ野球チームがなかったことも祟って、チーム運営が立ち行かなくなったのである。

 

宝塚協会の消滅から5年後の1934年(昭和9年)、大日本東京野球倶楽部が誕生した。

読売新聞社が招いた全米オールスター・チームに対抗すべく全日本軍が結成され、そのままプロ野球チームとして発足したのだ。

これが現在まで続く読売ジャイアンツである。

大日本東京野球倶楽部はアメリカ遠征して腕を磨き、この間に東京ジャイアンツ、即ち東京巨人軍というチーム名も決まった。

そして日本にいた読売新聞社社長の正力松太郎は、読売お抱えのプロ野球チームと対戦する、プロ野球チームを経営できる資本家を探し回った。

そこで白羽の矢が立ったのが阪神電鉄だったのである。

 

東京の読売チームに対し、大阪のプロ野球チームが必要と思っていた正力松太郎は、東洋一の大球場である甲子園球場を持つ阪神電鉄はうってつけだと考えたのだ。

さらに正力松太郎には、もう一つの計算があった。

阪神プロ野球団設立に向かえば、ライバルの阪急も黙っていないだろう、という読みである。

甲子園は中等野球のために建設された球場なので日程上の問題があり、さらにこれまで日本では職業野球(プロ野球)が成功しなかったことから阪神側は難色を示したものの、阪急の動向も睨んで、ようやく1935年(昭和10年)にプロ野球チーム結成と相成った。

それが大阪野球倶楽部、つまり大阪タイガース(現:阪神タイガース)である。

 

当時、プロ野球チーム発足に熱心だったのは、中等野球を抱える阪神よりも、鉄道リーグという構想を持っていた阪急だったのは明らかだった。

だが、正力松太郎が先に誘ったのは阪急ではなく阪神である。

そこには、正力松太郎のしたたかなもう一つの計算があった。

 

このまま阪急を勧誘すれば、東と西で読売と阪急は対等でプロ野球リーグを運営していかなければならない。

だが、大阪地区で阪神というワンクッションを置けば、阪急を差し置いて読売がプロ野球リーグのイニシアチブを取ることが出来るのだ。

そしてこの頃、小林一三が外遊していたというのも幸いした。

 

アメリカのワシントンにいた小林一三は、阪神プロ野球チームを設立したと聞いて、直ちにプロ野球チームの発足を本社に命じる。

そして1936年(昭和11年)に設立されたのが大阪阪急野球協会、即ち阪急軍だ。

しかし、新聞社である読売、そしてライバル鉄道会社の阪神に遅れを取ったのである。

それが、今後の阪急の運命に影響を与えたのかも知れない。

それでも、阪急軍は紛れもなく、日本プロ野球創成期のメンバーだった。

そしてこの頃、企業名をチーム名に冠していたのも阪急軍だけである。

1936年(昭和11年)、設立当初の日本プロ野球に参加した球団は、

 

東京巨人軍(現:読売ジャイアンツ

大東京軍(現:横浜DeNAベイスターズに吸収合併)

東京セネタース(消滅)

名古屋軍(現:中日ドラゴンズ

名古屋金鯱軍(消滅)

大阪タイガース(現:阪神タイガース

阪急軍(現:オリックス・バファローズ

 

の7チームだった。

そのうち、約半数の3チームが消滅、あるいは吸収合併させられている。

アメリカのメジャー・リーグ(MLB)では1901年(明治34年)にナショナル・リーグアメリカン・リーグという二大リーグになってからは、一度たりとも球団消滅あるいは球団合併がないのとは対照的だ。

 

現在の日本プロ野球(NPB)では、巨人×阪神が黄金カードと呼ばれる。

だが、日本プロ野球の創立時は、そうではなかったようだ。

最大のライバル対決は大阪タイガース×阪急軍、要するに阪神×阪急だった。

小林一三の口癖は「タイガースには絶対に負けるな!」だったのである。

これは阪神とて同じで、タイガース初代監督の森茂雄は、ある試合で「阪急に負けた」という理由だけで、アッサリと解任されたという。

阪神にとっての最大のライバルは東京巨人軍ではなく、同じ関西の鉄道会社を母体に持つ阪急軍だった。

阪急軍と大阪タイガースとの定期戦は人気を呼び、「関西の早慶戦とも呼ばれたのである。

阪急と阪神は、お互いの定期戦の時には社員を動員して、応援合戦を繰り広げた。

そして1937年(昭和12年)には、阪神甲子園球場に匹敵する本格的な本拠地球場である阪急西宮球場を、同じ西宮市内に完成させたのだ。

アメリカの球場を模した造りになっており、当時の日本の球場としては初めてとなる二層式のスタンド、さらに内野にも芝生を敷き詰めていた。

このあたり、阪神に対する過剰なまでのライバル意識が見て取れる。

 

だが阪神とのライバル関係も、1936年(昭和11年)秋から本格的に始まったプロ野球リーグ戦で、次第に崩れていく。

戦前は、東京巨人軍と大阪タイガース(阪神軍)で、ずっと優勝を分け合っていたのである。

こうなると、狭い関西圏でライバル関係もあったものではない。

阪神軍のターゲットは東京巨人軍となり、ここに大阪vs東京という、新たな構図が出来上がったのだ。

こうして、阪急軍は取り残されてしまったのである。

 

戦後になり、日本プロ野球は新たな時代を迎えようとしていた。

1947年(昭和22年)、各球団はアメリカのメジャー・リーグ風にニックネームを球団名に付けることにした。

そこで阪急軍阪急ベアーズと改称する。

ベアー(bear)とはもちろん熊のことだが、株式用語では「下り坂」「弱気」という意味があることがわかって、開幕した頃にはすぐに阪急ブレーブスと改名した。

ここに勇者・阪急ブレーブスが誕生したのである。

 

しかし、阪急ブレーブスは戦後なお低迷し続けた。

ライバルの大阪タイガースはおろか、後発球団で関西大手私鉄が資本の南海ホークス(現:福岡ソフトバンク・ホークス)にも後塵を拝することになる。

そして1950年(昭和25年)、日本プロ野球は2リーグに分裂する。

 

新球団で毎日新聞を母体とする毎日オリオンズ (現:千葉ロッテ・マリーンズ)が中心になって結成されたパシフィック・リーグは、映画会社を親会社とする大映スターズ、鉄道会社としては阪急ブレーブスの他に南海ホークス(現:福岡ソフトバンク・ホークス)東急フライヤーズ(現:北海道日本ハム・ファイターズ)、新球団の近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ、現:オリックス・バファローズと合併)および西鉄クリッパース(現:埼玉西武ライオンズ)といった鉄道会社を親会社とするチームが集まり、小林一三がかつて唱えていた鉄道リーグがほぼ実現していたのだ。

だが、ここに裏切り者がいた。

同じ鉄道会社を母体とする、阪神電鉄お抱えの大阪タイガースである。

 

2リーグ分裂の際、大阪タイガースのパ・リーグ所属はほぼ決まっていた。

しかし、セントラル・リーグの中心だった読売ジャイアンツの引き止めに遭い、大阪タイガースはセ・リーグに寝返ったとされる。

阪神にとっても、タイガースvsジャイアンツ、大阪vs東京という、プロ野球創始以来のドル箱カードを失いたくない。

こうして、阪急はライバル会社の阪神に裏切られたのである。

だが、阪神にとっても、その代償は大きかった。

この裏切りによって毎日新聞社の怒りを買い、大勢の主力選手を毎日オリオンズに引き抜かれたのである。

そのため、大阪タイガースは弱体化し、長いあいだ優勝から遠ざかってしまったのだ。

 

とはいえ、阪急ブレーブスも弱小球団から抜けられなかった。

2リーグ分裂後の昭和20、30年代も、ほとんどBクラスが定位置だった。

プロ野球創始メンバーとしては大恥である。

そして1957年(昭和32年)、阪急ブレーブスの父だった小林一三が死去。

それでも、勇者は目覚めなかった。

 

だが、その流れも昭和40年代に変わってくる。

1963年(昭和38年)、監督に西本幸雄を迎えてからは徐々にチーム力をアップし、遂に1967年(昭和42年)に阪急ブレーブスは悲願の初優勝を果たす。

投手陣には、歴代2位となる通算350勝のガソリンタンク・米田哲也、左腕の剛球投手・梶本隆夫、新鋭のサブマリン・足立光宏、打者では若き大砲・長池徳士、さらに「阪急の野球を変えた」と言われるほどの野球博士・外国人助っ人のダリル・スペンサーらが大活躍したシーズンだった。

 

余勢を駆った阪急ブレーブスは3年連続のリーグ優勝、1年おいて1971年(昭和46年)および1972年にもリーグ連覇を果たし、今までの鬱憤を晴らすような黄金時代を築こうとしていた。

しかし、パ・リーグでは優勝できても、日本シリーズでは当時9連覇中だった読売ジャイアンツにはどうしても勝てなかったのである。

 

だが、昭和50年代にとうとう阪急ブレーブスの時代がやってくる。

1974年(昭和49年)に西本監督の後を受けた上田利治が監督に就任し、その翌年の1975年(昭和50年)に阪急ブレーブスは6度目のリーグ優勝を果たした。

この頃には足立の後を受け持つサブマリン・エースの山田久志世界の盗塁王福本豊、強打と巧打を使い分ける加藤秀司という「3馬鹿トリオ」が台頭、さらに新人の剛球投手である山口高志の大活躍もあって、セ・リーグ初制覇の広島東洋カープに4勝0敗2分で圧勝、初の日本一に輝いた。

 

しかし、読売ジャイアンツを倒してこそ真の日本一と燃える阪急軍団は、翌1976年(昭和51年)もリーグ優勝を果たし、日本シリーズ読売ジャイアンツと対峙した。

いきなり3連勝でリーチをかけたものの、そこから3連敗し、後がなくなったと思われたが、ベテランの足立の好投と森本潔の逆転2ランにより、遂に宿敵ジャイアンツを葬ったのであった。

ちなみに、この段階で森本は既に中日ドラゴンズへのトレードが決まっており、ベンチの上田監督は複雑な思いで涙を流したという。

 

翌1977年(昭和52年)もパ・リーグ3連覇を果たし、日本シリーズも再び読売ジャイアンツと対戦したが、この時は4勝1敗で圧倒、まさしく阪急黄金時代を謳歌していた。

だが、阪急時代の日本一は、この年が最後となってしまったのである。

 

翌1978年もパ・リーグ制覇を果たして4連覇、日本シリーズではセ・リーグ初制覇を成し遂げたヤクルト・スワローズ(現:東京ヤクルト・スワローズ)と対戦した。

大方の予想では阪急有利だったが、3勝3敗で最終戦までもつれ込み、日本シリーズ第7戦ではヤクルト・スワローズの四番打者・大杉勝男のレフトポール際への大飛球がホームランかファウルかで大揉めに揉め、上田監督による1時間19分という前代未聞の抗議に発展した。

結局、ホームランの判定は覆らず、阪急ブレーブスは敗れて日本シリーズ4連覇はならなかったのである。

 

その後、関西では近鉄バファローズが、関東では九州から移転した西武ライオンズが台頭したため、阪急ブレーブスは影が薄い存在になってしまった。

それでも1984年(昭和59年)に阪急ブレーブスパ・リーグ制覇を成し遂げた。

外国人選手初の三冠王となったブーマー・ウェルズ、21勝を挙げた今井雄太郎、15セーブを稼いだクローザーの山沖之彦らの活躍があったのである。

しかし、これが阪急時代で最後のリーグ制覇だった。

日本シリーズでも3勝4敗で広島東洋カープに敗れたのである。

 

昭和の終焉を告げる1988年(昭和63年)10月19日、その日は突然やってきた。

この日、川崎球場ではロッテ・オリオンズ×近鉄バファローズのダブルヘッダーが予定されていたのである。

この試合で、近鉄バファローズが連勝すれば8年ぶりのパ・リーグ制覇、1試合でも負けるか引き分けると西武ライオンズの4連覇が決まるという試合だった。

当然、野球ファンの誰もが川崎球場に注目したのである。

 

だが、歴史的な試合の直前、飛び込んできたのは衝撃的なニュースであった。

阪急ブレーブスオリエント・リースに身売り、というものである。

実はシーズン終盤、同じパ・リーグに所属する南海ホークスの身売りが取り沙汰されていた。

そしてそれは現実のものとなり、南海ホークスダイエーに売られたのである。

だがそれは、以前から噂されていたことだった。

 

しかし、阪急ブレーブスの身売りは、まさしく寝耳に水だったのである。

誰もが予測していないことだった。

鉄道会社としては磐石な基盤を持ち、プロ野球でも常にAクラスを保持している阪急ブレーブスが身売りするなど、誰も想像していなかったのである。

 

しかし、その身売り劇は現実に起きた。

この日、「10.19」と呼ばれるプロ野球史上最高の名勝負は、阪急ブレーブスの身売り劇という大事件で水を差されたのだ。

 

たしかに、阪急ブレーブスはその強さの割に、人気のない球団だった。

今から思えば、山田久志福本豊加藤秀司山口高志とスターが揃い、しかも常勝軍団だったのだから、なぜ人気がなかったのか不思議に思える。

 

その原因は、やはり阪神タイガースにあったと言わざるを得ない。

同じ兵庫県西宮市に本拠地を持ちながら、当時はセ・リーグパ・リーグの人気差に阪急ブレーブスは苦しんだだろう。

2リーグ分裂時、阪神タイガース読売ジャイアンツと対戦できるセ・リーグを選んだことが、結果的に良かったのだ。

一方の阪急ブレーブスは、いくらパ・リーグで勝っても、テレビなどのメディアからは注目されない。

まさしく、世の理不尽を実感しただろう。

 

実は阪急ブレーブスも、人気を得るためのファンサービスに余念がなかった。

つとに有名なのが、福本と馬による競走である。

1983年(昭和58年)、阪急西宮球場で福本と、メジャー・リーグで快足として鳴らしたバンプ・ウィルスと、サラブレットを走らせるというアトラクションをやったのだ。

結果は、馬が方向違いに走ってしまい、バンプが1位、福本が2位、馬が3位という、茶番劇になった。

 

他にも、荒くれ者のアニマル・レスリーを獲得してレコード・デビューさせたり、通訳のチコ・バルボンをCMに登場させたりと色々やったが、阪急ブレーブスの人気アップには繋がらなかった。

日本プロ野球で史上初の球団マスコットであるブレービー君も登場させたのである。

今の時代で同じことをやったら、かなりの人気を博したのではないか。

そう考えると、時代を先取りしすぎたのかも知れない。

 

この頃にはもう、阪急と阪神がライバル球団と呼ばれることもなくなった。

唯一、残っていたのは、両球団のスプリング・キャンプ地が同じ高知県内だったので、オープン戦の最初に行われる阪神×阪急戦ぐらいか。

キャンプを打ち上げした2月末(あるいは3月最初)の土曜日に、阪神タイガースのキャンプ地である安芸市営球場阪神×阪急のオープン戦を行い、翌日曜日には阪急ブレーブスのキャンプ地だった高知市営球場で阪急×阪神オープン戦を行うのが恒例だった。

 

1989年(平成元年)、オリエント・リースに売却された阪急ブレーブスは、オリックス・ブレーブスとして再出発した。

この時、親会社のオリエント・リースオリックスとして社名変更したので、球団買収は渡りに船だったのである。

オリエンタル・リースなんて会社は誰も知らなくても、新社名のオリックスは誰もがわかる社名となったのだ。

これこそ球団買収の、親会社にとっての最大のメリットである。

 

さらに1991年、阪急時代の阪急西宮球場から、本拠地をグリーンスタジアム神戸(現:ほっともっとフィールド神戸に移転した。

この際に、チーム名もオリックス・ブルーウェーブと変更される。

本拠地移転と言っても、西宮市から神戸市という、同じ兵庫県内だから大したものではない。

おそらく、オリックスとしては阪急色を一掃したかったのではないか。

 

阪急からオリックスへの脱皮は、一時的には成功した。

イチロー鈴木一朗というスーパースターを得て観客動員もアップし、1995年(平成7年)と1996年(平成8年)にはリーグ連覇。

1995年には阪神淡路大震災が起こりがんばろう神戸のスローガンの元に優勝を果たし、神戸の市民球団としての地位を得た。

翌1996年には、阪急時代からの宿敵である読売ジャイアンツを撃破して、オリックス球団として初めての日本一に輝いたのである。

だがそれ以降は、日本一はおろかリーグ優勝さえ果たしていない。

 

2004年(平成16年)のシーズン中、オリックス・ブルーウェーブ大阪近鉄バファローズは合併すると発表された。

まさしく青天の霹靂で、ファン無視以外の何物でもなかったのである。

オリックス近鉄の合併は、球団削減を意味していた。

球団を減らして、既得権を確保しようとオーナーたちが画策したのである。

 

こんな理不尽な要求は、ファンも選手たちも納得せず、日本プロ野球初のストライキにまで発展したのだ。

思わぬ反発に屈したオーナー連中は、球団削減を実行せず、新球団の東北楽天ゴールデンイーグルスを誕生させて、12球団による2リーグ制を維持した。

しかし、オリックス近鉄の合併は承認され、新たにオリックス・バファローズが誕生したのである。

 

だが、オリックス球団は1996年以降に優勝を果たしておらず、何のための身売り劇だったのかわからない。

普通、身売りがあれば、その時こそ批判はあるだろうが、ちゃんと結果を残している球団がほとんどだ。

福岡から埼玉に球団を奪い取った西武ライオンズは常勝球団となったし、大阪から福岡に移転させた福岡ダイエー・ホークス、現在の福岡ソフトバンク・ホークスは九州の超人気球団となった。

だが、オリックス球団が近鉄球団を吸収合併したことによって、何かメリットでもあったのだろうか。

 

観客動員数が増えたわけでもなく、強くなったわけでもない。

もう一度言えば、1996年以来、オリックスは18年間優勝がないのだ。

しかも、一つの球団(近鉄)を吸収合併しているのである。

2チームを連合させて(しかも、新球団の楽天には選手供出をケチって)、それでも下位を低迷しているのだ。

 

オリックスといえば、今や大企業に成長した。

赤字で喘いでいた京セラドーム大阪まで買い取ってしまったのである。

この不況の世の中、これだけ躍進した企業も珍しい。

 

しかし、それがプロ野球チームにちっとも反映されていない。

一方、選手不足の弱小球団として発足した東北楽天ゴールデンイーグルスは、球団結成後の僅か9年で日本一まで登り詰めた。

 

その間、オリックス・バファローズは一度たりともリーグ優勝すらしていない。

資金力は豊富なはずなのに、これは明らかに球団経営努力の不足である。

小林一三は草葉の陰で泣いているのではないだろうか。

 

最後に、現在の阪急と阪神の関係についても記しておこう。

2005年(平成17年)に村上ファンド阪神タイガースの株を買い付け、タイガースを乗っ取られると思った阪神電鉄は、ライバルだった阪急電鉄に協力を求め、結果的に阪急阪神ホールディングスというグループ企業に収まるのである。

 

鉄道でも野球でも、あれだけいがみ合っていた両社が、結局は手を結んだわけだ。

 

2006年(平成18年)に撮影した、阪急西宮球場の跡地

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現在の阪急西宮球場の跡地は、西宮ガーデンズという大型ショッピングセンターになっている

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消えた球団シリーズ