高橋ユニオンズ
高橋ユニオンズ(1954年)~トンボ ユニオンズ(1955年)~高橋ユニオンズ(1956年)
<大映ユニオンズ(大映スターズに吸収合併:1957年)~(現:千葉ロッテ マリーンズ)>
最高順位:6位(8チーム中:1954年)
日本プロ野球史上、最も悲劇的だった球団は?という問いを野球ファンにすると、必ず出て来るのが高橋ユニオンズだ。
「高橋」とは企業名でもなければ地名でもなく、レッキとした個人名である。
個人名をチーム名にした球団は、後にも先にも高橋ユニオンズだけだろう。
ナベツネがいくら独裁者だと言っても、渡邉ジャイアンツなんてチーム名にする気はあるまい。
高橋ユニオンズとは、無政府状態となった2リーグ分裂が生み出した妾の子のようなものだ。
戦後間もない1950年(昭和25年)のシーズンから、プロ野球は2リーグに分裂、セントラル・リーグとパシフィック・リーグが誕生。
前年まで8球団だったのが一気に7球団も増えてほぼ倍の15球団となり、セ・リーグは8球団、パ・リーグが7球団となった。
当然、各球団の選手層は薄くなり、選手の引き抜き合戦が行われた。
無秩序に球団だけが増えたので経営難に陥る球団が続出。
セ・リーグは3年後には2球団減って6球団となり、現在まで続く体制となっている。
一方のパ・リーグは、奇数の7球団体制だったので日程が組みにくく、必ず1球団は試合のない日があるという歪な状態が続いた。
何の計画性もなく球団が増えたため起こった弊害だが、この頃のトラウマがあるのでNPBは新規参入に高いハードルを設け、未だに球団拡張(エクスパンション)に対してアレルギーを持っているのだろう。
この頃にもっと計画性を持った2リーグ制に移行していれば、と悔やまれるところだ。
1953年(昭和28年)、パ・リーグは参加球団を偶数にするため、勝率3割5分に満たない球団を強制的に解散させると取り決めた。
実際、その前年の1952年(昭和27年)には、7球団だったセ・リーグで勝率3割未満は解散という罰則を設け、松竹ロビンスがその適用に遭い、大洋ホエールズとの合併を余儀なくされている(名称は大洋松竹ロビンスに)。
だが、1953年のパ・リーグには幸か不幸か勝率3割5分未満の球団はなく、球団は削減されなかった。
そこで、「減らなかったのならば増やせばいい」とばかりに新球団設立の機運が高まる。
この時、パ・リーグを1球団増やして8球団制に移行しよう、と提案したのは大映スターズのオーナー、永田雅一だった。
「永田ラッパ」とあだ名されるほどのワンマン・オーナーだった永田雅一がパ・リーグ総裁に就任すると、「(6球団制の)セ・リーグとの差別化を図るため」という名目で、パ・リーグ8球団制を強引に押し進めたのである。
永田雅一が新球団設立のために白羽の矢を立てたのは「日本のビール王」と呼ばれ、また通産大臣(現在の経済産業大臣)まで務めたことのある高橋龍太郎だ。
高橋龍太郎は戦前にイーグルス(現在は消滅)という球団のオーナーを務めたことがあり、プロ野球経営の経験がある、というのは大きな強みだと永田雅一は考えたのである。
78歳と既に高齢になっていた高橋龍太郎は、永田雅一の申し出に乗り気ではなかったが、永田雅一の「ラッパ」に恥じない熱心な説得と、
「パ・リーグ全球団が選手の供給および資金援助など、新球団設立に当たっては協力を惜しまないので、ぜひ引き受けて欲しい」
という言葉に、遂に折れたのである。
そして1954年(昭和29年)の開幕前(!)に、高橋ユニオンズが誕生した。
これでパ・リーグは8球団体制になったのである。
チーム名の「高橋」はもちろん本人の苗字から、「ユニオンズ」は高橋龍太郎が戦前に商品化したユニオンビールから取った。
チーム設立の経緯からもわかるように、高橋龍太郎は決してワンマン・オーナーではなかったのである。
ちなみに高橋龍太郎はサッカーにも造詣が深く、日本サッカー協会の会長も務めていた。
本拠地は川崎球場と決まり、高橋ユニオンズは初のペナントレースに挑んだ。
しかし、開幕前に慌ただしく結成したにわか球団。
一応は他球団が選手を供出すると決めたものの、他球団が見放したような選手しか集まらず、当然のことながら弱いチームだった。
パ・リーグ各球団は我が身可愛さから新球団に対する協力を渋り、永田雅一が言った「パ・リーグ全球団が協力を惜しまない」という約束は早くも反故されたのである。
それでも球団創設初年度は大方の予想を裏切り、貧弱な戦力にもかかわらず8チーム中6位と最下位は免れたので、大健闘したと言っていい。
しかし、結果的にはこの大健闘が仇になった。
「最下位にならなかったのだから、もう支援は必要ないだろう」
と資金援助が早くも打ち切られたのである。
結局は、当初の約束とは違ってロクな選手供給も資金援助も受けられなかったのだ。
話は変わるが、この年の秋、新潟県のある高校二年生が高橋ユニオンズに対し、入団テストの願書を送っていた。
高橋ユニオンズは高校生に対し、川崎球場までテストを受けに来いと返事した。
しかし、その高校生は川崎球場には来なかった。
その前に、高校生の元に読売ジャイアンツのスカウトが来て、統一契約書にサインをしたのである。
身長209cmのその高校生の名は、馬場正平といった。
後のプロレスラー、ジャイアント馬場である。
高校を中退して読売ジャイアンツに入団した馬場は、二軍では活躍したものの選手層の厚さのためになかなか一軍には上がれずにクビ、その後は大洋ホエールズのテスト生としてキャンプに参加したが、風呂場で転倒して大怪我したために引退を余儀なくされた。
その後、プロレスラーとなって大成功を収めたのは周知のとおりだが、最初から投手層の薄い高橋ユニオンズに入団していたら、一軍で活躍していたかも知れない。
何しろ読売ジャイアンツでは、二軍とはいえ3年連続で最優秀投手に選ばれていたのだから、高橋ユニオンズなら即一軍だろう。
それならば大洋ホエールズに移籍することもなく、風呂場で転倒することもなかったということだ。
つまり、馬場は野球を続けていたわけで、当然プロレスラーにはなっていなかっただろう。
馬場が高橋ユニオンズのテストを受けていたら、日本プロレス界は今とは全く違う姿になっていたに違いない。
さて、最下位にはならなかったとはいえ、いくら高橋龍太郎が名士と言っても、バックに企業が付かない個人出資の球団なので資金難に苦しんだ。
そこで、翌1955年(昭和30年)には、現在でも鉛筆メーカーとして有名なトンボ鉛筆と提携し、チーム名もトンボ ユニオンズと改称した。
戦前にもライオン軍(後の松竹ロビンス)という、ブランド名を冠した球団があったが、トンボ ユニオンズも現在でいうネーミングライツによる球団名である。
このチーム名の「名義貸し」を発案したのも永田雅一であり、資金援助はしなくてもアイデアだけは提供していたようだ。
ホーム用のユニフォームの左胸にはトンボ鉛筆の企業マークである「逆さトンボ」が描かれていた。
しかし、その弱さは前年以下で、7位の東映フライヤーズには9ゲーム、優勝した南海ホークスからは57ゲームも引き離されるという、まさしくブッチギリの最下位。
勝率はちょうど3割で罰則対象の3割5分には届かず、制裁金500万円を支払う羽目になる。
当時の500万円というのは、現在なら4億円ぐらいの価値があるだろうか。
珍エピソードとしては、シーズン中にコーチの上林繁次郎が千葉県船橋市の市議会議員に立候補、そして当選してしまうという前代未聞の出来事があったのだ。
しかもエースの野村武史と二軍監督の小田野柏まで選挙運動に関わったのだから、チームとしてはたまらない。
3人とも熱心な創価学会信者だったのだから、野球そっちのけで選挙運動に熱中するのも当然だった。
こんな状態で、チームが勝てるわけもない。
これでは宣伝効果などあるわけがなく、トンボ鉛筆はたった1年で提携から身を引いた。
翌1956年(昭和31年)、チーム名は高橋ユニオンズに戻ったものの、弱さは相変わらず。
この年も最下位を突っ走り、最終戦を待たずして最下位は決まっていたが、この最終戦は高橋ユニオンズにとって非常に大事な一戦だった。
この試合に負ければ勝率3割5分を割り、2年連続で制裁金500万円を支払わなければならなかったからである。
最終戦は何とか勝って、制裁金は免れたものの、この試合では高橋ユニオンズを哀れに思った相手チームの毎日オリオンズが手心を加えた(要するに八百長)と言われている。
この不透明決着が問題となったのか、翌年からは制裁金制度はなくなった。
高橋ユニオンズは制裁金こそ払わずに済んだものの、もはや球団の維持は困難になっていた。
何しろ弱いだけでなく観客動員にも苦しみ、チケットが実券で29枚しか売れなかったなんてこともあったようである。
翌1957年(昭和32年)の開幕前、パ・リーグのオーナー会議では高橋ユニオンズの処遇が問題となった。
早い話が、お荷物球団は潰してしまえ!ということである。
この球団削減を提案したのは、他ならぬ8球団制推進者の永田雅一だった。
パ・リーグは8球団制になってから却ってセ・リーグとは観客動員数で引き離され、ファンを取り戻すには弱い球団を潰してレベルアップしなければならないと考えたのである。
この永田雅一の身勝手な論理に、高橋龍太郎は完全に球団経営の熱意を失った。
当たり前である。
永田雅一に懇願され、私財を投げ打って高橋ユニオンズを設立したのだ。
しかし「各球団が協力する」という約束は実行されず、邪魔になったから出て行け、ではいくら温和な高橋龍太郎でも頭に来るだろう。
高橋龍太郎は後年、高橋ユニオンズ設立について「永田君には騙された」と語っていたという。
高橋龍太郎は高橋ユニオンズがどれだけ弱くても、老体にムチを打って球場に通い、負けた時には孫のような選手達を労って、たまに勝てば我がごとのように大喜びしていたのだ。
そんな高橋龍太郎を、永田雅一をはじめ他球団のオーナー連中は見殺しにしたのである。
みんな既得権を守ることに躍起になって、高橋ユニオンズのことはもちろんのこと、パ・リーグや野球界全体のことは全く考えてなかった。
そんな悪しき伝統が、現在でもNPBに残っているような気がしてならない。
それが如実に現れたのが、2004年(平成16年)に巻き起こった球団削減騒動で、結局12球団制は維持されたものの、パ・リーグ各球団は新球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに対し、ほとんどが一軍半の選手しか差し出さなかった。
そして、この年の開幕直前(!)、高橋ユニオンズは大映スターズに吸収合併されて大映ユニオンズとなった。
ユニオンズの名前は残ったものの、オーナーは永田雅一であり、「高橋球団」は完全に消滅したのである。
大映球団に引き取られた選手の中には、
「(高橋ユニオンズを潰した永田オーナーがいる)大映ではプレーしたくない」
と考える者もいたぐらいだ。
3年前、開幕前に球団を誕生させ、この年にはその球団を開幕前に消滅させるとは、とてもプロスポーツのリーグとは思えない。
公式戦の日程はどうやって決めたのか不思議である。
結局、高橋ユニオンズ(トンボ時代を含む)が存在したのは僅か3年間、その戦績は8チーム中6位が1回と、あと2回は最下位という惨憺たるものだった。
パ・リーグはまた奇数の7球団に逆戻りした。
この年、合併球団の大映ユニオンズはまたもや最下位と、合併しても何の戦力アップにもなっていない。
結局、翌1958年(昭和33年)には大映ユニオンズは毎日オリオンズと合併、毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)となり、「ユニオンズ」の名が完全に消えた。
ちなみに、大毎オリオンズのオーナーに就任したのは永田雅一だ。
この年よりセ・パ両リーグとも6球団体制、計12球団となり、現在まで至っている。
ただし、新規参入球団は高橋ユニオンズ以来途絶えていたが、2005年(平成17年)のシーズンから東北楽天ゴールデンイーグルスが実に51年ぶりに新規参入を果たした。
なお、毎日大映オリオンズは現在、千葉ロッテ マリーンズとなっている。
弱小ぶりばかりが語られる高橋ユニオンズだが、実は名選手もいた。
そのうちの一人は佐々木信也である。
高橋ユニオンズ最後の年となる1956年、慶應義塾大学から入団した佐々木は、慶応ボーイらしい洗練されたプレーで154試合全イニング出場、打率.289、盗塁34個で新人ながら二塁手部門で堂々のベストナインに選ばれている。
なお、高橋ユニオンズでベストナインに選ばれた選手はこの佐々木だけだ。
だが、入団翌年に高橋ユニオンズは大映スターズに吸収合併され、佐々木はそのまま合併球団の大映ユニオンズに移籍している。
佐々木信也と言えば選手としてよりもプロ野球ニュースの司会者としての方が有名で、にこやかな語り口調で多くの野球ファンを魅了したのは記憶に新しい。
2004年の球団削減騒動の時も、佐々木は自身の高橋ユニオンズでの体験から球団削減には断固反対していた。
そして、高橋ユニオンズが吸収合併されたことについては、
「あれは合併なんかじゃなく、球団解散だ。あの騒動により選手はバラバラに引き裂かれた」
と、柔和な表情からは想像がつかないほど怒りを露わにしている。
高橋ユニオンズの選手たちは、合併したからと言って全員が大映ユニオンズに引き取られたわけではないのだ。
各球団の都合によって選手達は振り分けられ、あるいは引退を余儀なくされたのである。
もう一人の有名選手と言えば、なんと言っても通算303勝投手のヴィクトル・スタルヒンだろう。
スタルヒンは日本プロ野球創成期から活躍し、高橋ユニオンズが創立した1954年から同球団に入団した。
翌1955年には日本プロ野球初の300勝を達成し、この年限りで引退した。
なお、スタルヒンが300勝を挙げた時の球団および選手生活最後となった球団はトンボ ユニオンズであり、現在でもスタルヒンが紹介される時には「ヴィクトル・スタルヒン(トンボ)」と表記されているのは何とも微笑ましい。
引退した翌1957年1月12日、スタルヒンは交通事故によりこの世を去った。
高橋ユニオンズが消滅する、約1ヵ月前のことだった――。