南海ホークス
南海軍(1938年秋-1944年5月31日)~近畿日本軍(1944年6月1日-1945年)~近畿グレートリング(1946年-1947年5月31日)~南海ホークス(1947年6月1日-1988年)~福岡ダイエー ホークス(1989年-2004年)~福岡ソフトバンク ホークス(2005年-)~現在
日本一:6回(1959年、1964年、1999年、2003年、2011年、2014年)
リーグ優勝:18回(1946年、1948年、1951年、1952年、1953年、1955年、1959年、1961年、1964年、1965年、1966年、1973年、1999年、2000年、2003年、2010年、2011年、2014年)
ホークスといえば、現在は福岡ソフトバンク ホークスとしてパシフィック・リーグを代表する超人気球団だが、かつては大阪に本拠地を構える南海ホークスという球団だった。
南海ホークスと聞いて連想される言葉は「弱小の貧乏球団」という、現在の福岡ソフトバンク・ホークスとは正反対のイメージだが、昭和30年代は決してそんなことはなかった。
南海がプロ野球(当時は職業野球)に参入したのは、戦前の1938年(昭和13年)秋のリーグ戦からだ。
日本でプロ野球のリーグ戦が始まったのが1936年(昭和11年)からだから、その僅か2年後ということになる。
南海の親会社は言うまでもなく、関西大手私鉄の南海鉄道(現:南海電気鉄道)だが、南海のプロ野球参入を促したのは同じ関西大手私鉄の阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)や阪神電気鉄道である。
プロ野球リーグ開始当初から、阪急は阪急軍(後の阪急ブレーブス、現:オリックス・バファローズ)、阪神は大阪タイガース(現:阪神タイガース)というプロ野球チームを持っていた。
元々、阪急グループの総帥だった小林一三は鉄道リーグという構想を描いており、大阪南部に路線網を持つ南海の力が必要だったのである。
阪急の説得に南海は当初断っていたものの、そこに阪神からの要請も加わり、南海はようやく重い腰を上げた。
そして南海野球株式会社(南海軍)が発足したのである。
しかし、南海軍の成績は芳しくなく、一度も優勝がないまま日本は太平洋戦争に突入した。
戦争によって、南海の運命も翻弄される。
戦争が激化した1944年(昭和19年)、軍部の都合により制定された「陸上交通事業調整法」によって、南海鉄道は関西急行鉄道と強制的に合併させられ、近畿日本鉄道(近鉄)となった。
戦争も終わった1946年(昭和21年)、近畿日本軍はかつて敵性語として使用を自粛していた英語を使い、近畿グレートリングと名称を変えた。
グレートリングとは、鉄道事業によって大きな輪を築く、という意味である。
そしてこの年、戦後最初のリーグ戦で近畿グレートリングは初優勝を遂げた。
ところが、この愛称には大きな問題があった。
「5回の裏、グレートリングの攻撃は……」
などと球場でアナウンスが流れると、スタンドに陣取った進駐軍の兵士たちがゲラゲラ笑う。
球団関係者は不思議に思っていたが、やがてその理由がわかった。
米軍では、「グレートリング」とは女陰を意味するスラングだったのである。
これには諸説あって、男性器を意味するという説や、性行為そのもののことだという説もあるが、いずれにしても猥褻な言葉には違いない。
1947年(昭和22年)6月、南海鉄道は再び近畿日本鉄道から分離し、南海電気鉄道として再出発した。
この時、問題のあるグレートリングというチーム名に変えて、新たなニックネームを模索していた。
阪神は哺乳類最強のトラ(タイガース)だから、南海は鳥類最強と言われるコンドルにしようと思いついたのである。
新しい球団名は南海コンドル、南海電車はいつもコンドル(混んどる)となり、商売繁盛に繋がるということで縁起もいい。
この新愛称はほとんど決まりかけていた。
ところが、肝心の球団代表である松浦竹松はなかなか承認しない。
側近は不思議に思っていたが、やがてその謎が解けた。
コンドルは、日本語では「ハゲタカ」。
そして、松浦代表の頭は見事に「ハゲタカ」だったのである。
そこで、機転を利かせた側近は、
「(ハゲタカのハゲを取って)タカのイメージ、南海ホークスというのはどうでしょう」
と松浦代表に進言した。
松浦代表は黙って、新球団名の「南海ホークス」と書かれた書類にハンコを押したという。
南海ホークスは1948年(昭和23年)にも優勝し、強豪球団に成長していた。
しかし、この年のオフに「別所引き抜き事件」が起きる。
この年に26勝を挙げて南海ホークスの優勝に貢献したエースの別所昭(後の毅彦、通算310勝の大投手)は球団の待遇に不満を持っており、好条件を示した読売ジャイアンツと一方的に契約を交わした。
まだ統一契約書がなかった時代、現在では考えられないような引き抜きが行われていたのである。
翌1949年(昭和24年)、別所は開幕から2ヵ月間の出場停止というペナルティを負ったものの、読売ジャイアンツにとってはライバルだった南海ホークスの戦力を大幅にダウンさせたおかげで優勝を勝ち取り、その後も別所は完全無欠のエースとして君臨したのだから万々歳だった。
1950年(昭和25年)、プロ野球は2リーグに分裂し、セントラル・リーグとパシフィック・リーグによるペナントレースを開催するという、現在まで続く新しい時代に突入した。
南海ホークスは鉄道会社中心のパ・リーグに所属し、セ・リーグ所属となったライバルの読売ジャイアンツとは袂を分かった。
この際、戦時中は同じ会社だった近畿日本鉄道が加盟を申請、南海電鉄もこれを後押しし、新球団として近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ、現在はオリックス・バファローズに吸収合併)がパ・リーグ所属となったのである。
毎年のように優勝争いに顔を出すほど実力を付けた南海ホークスにも悩みがあった。
それは本拠地球場を持たないことである。
堺市の中百舌鳥に球場を持っていたものの、いかんせん立地条件が悪く、集客はとても望めなかった。
そのため、兵庫県西宮市にある甲子園球場や西宮球場を借りているような状態だったのである。
球団としても鉄道会社としてもライバルの、大阪タイガースや阪急ブレーブスの本拠地を借りざるを得なかった。
当時は日本を占領していたGHQのマーカット少将は、有力チームの南海ホークスが本拠地を持たないことに疑問を抱いた。
しかも、大阪が本拠地のはずなのに、隣りの兵庫県の球場を借りていることが不思議でならなかったのである。
アメリカのメジャー・リーグではフランチャイズ制度が整っていたので、この疑問は当然であろう。
そこで南海球団は、GHQに話を持ちかけた。
大阪に本拠地球場を造りたい、と。
GHQの許可を得た南海電鉄は大阪市の協力を仰ぎ、子会社の大阪スタヂアム興業を立ち上げ、南海電鉄のターミナルである大阪ミナミのド真中、難波に大阪球場を建設した。
それまで鉄道会社が建設する球場といえば、運賃収入を考えて土地代も安い郊外に造るのが常識だったが、大阪球場は都心に構えたのである。
1950年(昭和25年)に開場した大阪球場は、翌1951年(昭和26年)に照明設備も完成させている。
平日でも仕事帰りに野球が楽しめる、ナイトゲーム時代の到来を告げたのだ。
関西地区で照明設備を備えたのは大阪球場が初めてだった。
大阪球場は、時代の最先端を走っていたのである。
大阪球場は「昭和の大阪城」と呼ばれるほど、立派な建物だった。
名実ともに一流球団となった南海ホークスは、2リーグ分裂後も強豪球団であり続けた。
1951年(昭和26年)~1953年(昭和28年)まで3年連続リーグ優勝、1年はさんで1955年(昭和30年)にもリーグ制覇を果たしている。
だが、どうしても日本一には届かなかった。
いずれも、1リーグ時代の宿敵、読売ジャイアンツに日本シリーズで敗れていたのである。
この間、別所には何度も痛い目に遭わされた。
まるで「別所の呪い」のようなものである。
1957年(昭和32年)のオフ、南海ホークスは二人の超大物新人の獲得に動いてた。
その二人とは、東京六大学のスーパースター、立教大学の長嶋茂雄と杉浦忠である。
当時の南海ホークスには、立大出身の大沢昌芳(後の啓二、いわゆる大沢親分)がいて、二人の後輩を熱心に南海入団を誘っていた。
東京六大学の本塁打記録を持つ長嶋、絶対的エースだった杉浦を同時に獲得できるとあって、南海ホークスは色めき立った。
先に勧誘されたのは長嶋の方で、長嶋は杉浦に、
「一緒に南海へ行こうよ。南海の本拠地は大阪のド真中の難波にある大阪球場で、とても都会的なチームなんだ」
と誘っていたという。
しかし、長嶋の親が遠い関西に息子をやるのには反対で、読売ジャイアンツ入団を強く勧めたため、長嶋は土壇場で翻意した。
長嶋の南海入団が夢となり、心配した当時の監督・山本(後の鶴岡)一人が杉浦に「お前も巨人に行くのか?」と聞いたところ、杉浦は、
「僕が約束を破るような人間だと思いますか?」
と答えたという。
こうして長嶋は読売ジャイアンツ、杉浦は南海ホークスの入団が決まった。
ドラフト制度のない時代ならではのエピソードである。
いずれにしても、南海ホークスにとってみれば、別所と長嶋という、二人のスーパースターを読売ジャイアンツに取られたわけだ。
日本シリーズでも選手獲得でも、ずっと読売ジャイアンツに泣かされてきた南海ホークスは、ようやくその恨みを晴らす時が来た。
1959年(昭和34年)、エース杉浦の38勝という大活躍により南海ホークスはパ・リーグ制覇、日本シリーズではセ・リーグの覇者である読売ジャイアンツと対戦した。
日本シリーズでは杉浦が4連投で4連勝、4勝0敗のストレートで憎っくき読売ジャイアンツを圧倒、2リーグ分裂後で初の日本一に輝いたのである。
シリーズ終了後の御堂筋パレードには実に20万人もの人が集まり、大阪市民を狂喜させた。
東京の読売ジャイアンツを完膚なきまでに叩きのめしたことで、浪速っ子の溜飲を下げたのである。
日本シリーズで読売ジャイアンツと因縁の対決を演じる一方で、パ・リーグのペナントレースでは福岡の西鉄ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)とデッドヒートを繰り広げていた。
当時の南海×西鉄はまさしくパ・リーグの黄金カードで、大阪と福岡のファンを熱くさせていたのである。
この頃の関西での人気球団は、間違いなく阪神タイガースではなく南海ホークスだった。
南海といえば貧乏球団というイメージだというのは前にも述べたが、この頃の南海は決してそうではなかった。
前述の長嶋と杉浦をダブルで獲得しようとするのは貧乏球団では不可能だったし、他にも映画化された小説「あなた買います」のモデルとなった穴吹義雄が南海ホークスに入団した。
その反面、テスト生上がりの野村克也や広瀬叔功が活躍する土壌もあった。
戦前に造った中モズ球場を二軍の本拠地とし、その近くに合宿所も建てた。
つまり、ファーム組織を充実させたのである。
それにより、大卒のスター選手と、二軍で鍛えられた選手が融合するという、実にバランスのいいチーム作りができたのだ。
しかし、昭和40年代に入ると、構図も崩れていく。
テレビが普及してプロ野球黄金時代を迎えると、日本テレビと強力なネットワークを結ぶ読売ジャイアンツが圧倒的な人気を誇り、読売ジャイアンツと対戦できないパ・リーグの球団は取り残されていった。
また、パ・リーグ内でも、かつては弱小球団だった阪急ブレーブスや近鉄バファローズが台頭し始め、南海ホークスの地位は低下した。
かつては栄華を誇り、大阪ド真中のミナミにある大阪球場には、閑古鳥が鳴いていたのである。
難波には人が溢れているのに、大阪球場のスタンドは閑散としていた。
このころ、水島新司の漫画「あぶさん」では、こんなシーンがあった。
あるカップルが、結婚後の相談をしようと店を探していた。
だが、ミナミの街はどの店も満員で、落ち着いて話せる場所などない。
そこで男の方が、ある名案を思い付いた。
大阪球場なら、誰もいないだろう、と。
男の思惑通り、大阪球場のスタンドは閑散としていた。
男はフィアンセと、心ゆくまで結婚の相談をしたのである。
人で溢れているミナミの繁華街で、唯一の穴場が大阪球場だったのだ。
「あぶさん」が連載を開始した1973年(昭和48年)、南海ホークスはパ・リーグ制覇を成し遂げた。
そしてそれが、南海ホークスとして最後のリーグ優勝だったのである。
1977年(昭和52年)のオフに、選手兼監督だった野村克也が解任されると、それ以降はずっとBクラスが続いた。
この頃には、大阪球場をドーム化する案や、中百舌鳥を新本拠地にする案なども検討されたが、いずれも実現することはなかった。
そして、その日は突然やってきたのである。
球団結成から50年目を迎えた1988年(昭和63年)の秋に、南海ホークスは流通業界大手のダイエーに売却されると発表された。
さらにホークスは、九州の福岡に本拠地移転するのだという。
かつてはライバル球団だった西鉄ライオンズの本拠地に移ってしまうのだ。
なんという皮肉だろう。
しかし、南海にとっては背に腹は変えられない状況だった。
南海ホークスが本拠地で最後となる試合では、大阪球場は超満員。
もし毎試合、これだけの大観衆が大阪球場に集まっていてた、身売りされることもなかっただろう。
この試合で南海ホークスは近鉄バファローズを破り、有終の美を飾った。
だが、ことはそれだけでは終わらなかったのである。
この年の近鉄バファローズは、西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)と激しく優勝を争っていた。
そして10月19日、川崎球場でのロッテ オリオンズ(現:千葉ロッテ マリーンズ)とのダブルヘッダーを迎えたのである。
いわゆる「10.19」決戦で、惜しくも近鉄バファローズは優勝を逃したのだが、もし南海ホークスとの大阪球場での最終戦に勝っていれば、近鉄バファローズは優勝していたのだ。
あの試合、南海ホークスの選手たちはみんな燃えていた。
もしあの試合が南海ホークスにとっての最後の本拠地試合でなかったら、近鉄バファローズは勝っていたかも知れない。
そうなっていたら、優勝は近鉄バファローズだっただろう。
そしてこの10月19日、もう一つの衝撃的なニュースが飛び込んできた。
阪急ブレーブスがオリエンタル・リース(現:オリックス)に身売りされたというのである。
これにより、南海と阪急という、戦前から続く老舗球団が二つも消滅したのだ。
この年は、昭和にとって事実上の最後の年。
翌1989年は僅か1週間で昭和時代を終え、平成時代となったのである。
それはまるで、パ・リーグの新時代を迎えるかのようであった。
福岡に移転したホークスは、ダイエーからソフトバンクに親会社を変えたものの、九州の人気球団という地位は揺るがない。
一方、主を失った大阪球場は、その後しばらく住宅展示場となり、現在は解体されて大型商業施設の「なんばパークス」に生まれ変わった。
「なんばパークス」には南海ホークスのギャラリーがあり、かつての大阪球場があった場所には、ピッチャー・マウンドとホームプレートが形どられている。
昭和30年代には栄華を誇った南海ホークスも、昭和の晩年にはお荷物球団でしかなかった。
その頃に歌われたのが、アンタッチャブルによる「南海ファンやもん」だった。
南海ホークスが身売りされる2年前、1986年(昭和61年)に発売されたこの歌こそが、当時の南海ファンを代弁する言葉だったのだろう。
南海ファンやもん/アンタッチャブル