以前、南海電気鉄道の南海本線には、普通電車にもかかわらず停車しない駅がある、と書いたことがある。
同じような例が、実は阪急電鉄にもあるのだ。
阪急電鉄には、大きく分けて神戸線、宝塚線、京都線の3線がある。
このうち、梅田駅(大阪)~三宮駅(神戸)間を走る路線を神戸本線、梅田駅~宝塚駅間の路線を宝塚本線、梅田駅~河原町駅(京都)間の路線を京都本線と呼ぶ。
その他の支線も神戸線、宝塚線、京都線のいずれかに属している。
例えば京都線は、京都本線、千里線、嵐山線の総称というわけだ。
神戸本線、宝塚本線、京都本線はいずれも梅田駅を始発駅とし、十三(じゅうそう)駅で3線に分かれる。
梅田駅と十三駅の間に中津駅という駅があるが、この中津駅には京都本線は普通電車を含め、あらゆる列車も停まらないのだ。
理由は南海本線の場合と同じで、京都本線には中津駅のホームがないからである。
梅田駅と十三駅の間は神戸本線用の線路、宝塚本線用の線路、京都本線用の線路が敷かれており、要するに三複線というわけだ。
梅田駅から神戸本線、宝塚本線、京都本線という三つの電車が同時に発車する光景は圧巻で、阪急梅田駅の名物である。
この三つの路線のうち、中津駅にホームが設置されているのは神戸本線と宝塚本線だけだ。
そのため、京都線沿線の住民には、中津駅の存在すら知らない人がいるぐらいである。
阪急電鉄の路線図(神戸線および宝塚線の支線は省略)。赤い路線が京都本線。千里線と嵐山線も京都線に含まれる
正式路線で言えば、京都本線には梅田駅~十三駅間は含まれない。
従って、京都本線の正式路線は十三駅~河原町駅間である。
しかし、京都本線も梅田駅から京都方面へ直通運転を行っているので、梅田駅~十三駅間も京都本線と表示されている。
ところで、阪急電車とはどんなイメージをお持ちだろうか。
マルーン色と呼ばれる独特の小豆色の車両は阪急のシンボル、関西のみならず日本屈指の高級路線であり、セレブな美人が乗る電車、として有名だ。
たしかに神戸線は芦屋などの高級住宅街を走り、沿線にはお嬢様が通う女子大も多く、「美人に遭遇したければ阪急神戸線に乗れ」とも言われるぐらいである。
ちなみに、映画「阪急電車」で舞台となった路線は、神戸線の支線である今津線だ。
宝塚線だって、泣く子も黙る宝塚歌劇団に向かう路線なのだから、セレブでないわけがない。
ところが京都線のみ、いささか趣きが違う。
京都本線の沿線には昔から関大北陽、大阪学院、浪商(現在は移転)といったヤンチャ(ハッキリ言うとヤンキー)な男子高校生が通う高校があり、オッサンどもが通勤する工場も多数あるので、とてもセレブな電車とは言えない。
京都といえば雅なイメージがあるため、こんなレッテルは不思議に思うかも知れないが、京都線を走る大部分が大阪府内なので仕方がないだろう。
神戸線や宝塚線の沿線住民には「ワタクシ、阪急沿線住民ですわよ」的な誇り高さが伺えるが、その心の奥底には「阪急といっても京都線とは一緒にしないでくださいね」という思いが見え隠れする。
極端に言えば、電車といえば阪急電車以外は認めず、やむを得ない場合を除き阪急電車以外には乗らない、という人が多い。
しかし京都線の沿線住民には「阪急沿線住民」という誇りを持ち合わせているとは思えず、「JRの方が速いし安いので、そっちに乗ろか」と簡単に浮気したりする。
同じ阪急といっても京都線は異色の存在というわけだが、それもそのはず、阪急京都線は元々、阪急電鉄の路線ではなかったのだ。
では、阪急京都線とは何者なのか?
阪急京都線を敷設したのは、なんと阪急電鉄のライバル会社である京阪電気鉄道だったのである。
京阪電気鉄道が国鉄(現・JR)に対抗して大阪~京都間に電車を走らせたのは、ハレー彗星が地球に接近した1910年(明治43年)のこと。
淀川の北側を走る国鉄に対し、京阪本線は淀川の南側に線路を敷いたのだが、カーブが多くて高速運転が困難だった。
そこで、国鉄と同じく淀川の北側に路線を開通させ、いわば京阪本線のバイパスとして活用しようとしたのである。
1922年(大正11年)、京阪電気鉄道は子会社として新京阪鉄道を設立し、千里方面を走っていた北大阪電気鉄道(現在の阪急千里線)を買収、京阪新路線計画を着々と進めていった。
1928年(昭和3年)には大阪の天神橋駅(現・天神橋筋六丁目駅)~京都西院駅(現・西院駅)が開通。
1930年(昭和5年)に京阪電気鉄道は子会社の新京阪鉄道を吸収合併し、京阪電気鉄道の新京阪線となった天神橋駅~京都西院駅間に超特急を走らせ、大阪~京都を僅か34分で結び、ライバルの国鉄をビックリ仰天させた。
当時の国鉄のドル箱特急といえば、なんといっても「燕(つばめ)」だったが、「燕より速い!」という謳い文句を掲げた京阪はわざわざダイヤ調整をして、大阪と京都の府境にあたる天王山付近で、新京阪線超特急が国鉄自慢の特急「燕」を追い越すというパフォーマンスまでやってのけたのだ。
まさしく天下分け目の天王山での攻防、といったところだろう。
この頃の京阪間の国鉄はまだ電化されておらず、特急「燕」といえども蒸気機関車。
既に電化され、電車となっていた新京阪超特急には勝てる術もなかった。
1937年(昭和12年)、国鉄の京阪間もようやく電化され、スピードで新京阪線特急に対抗することができた。
京阪電気鉄道は国鉄の反撃に対し、新京阪線に淡路駅~十三駅を開通させ、大阪と神戸および宝塚を結んでいた阪神急行電鉄、即ち現在の阪急電鉄と接続を行うようになる。
ここに阪急と京阪の協力路線が出来上がったわけだ。
そして1941年(昭和16年)には太平洋戦争が勃発。
1943年(昭和18年)、「陸上交通事業調整法」により阪神急行電鉄(阪急)と京阪電気鉄道が合併、京阪神急行電鉄となった。
戦時中の私鉄は、軍部の横暴により無理な合併が繰り返されていたのである。
終戦後の1949年(昭和24年)に再び京阪電気鉄道は京阪神急行電鉄と分離した。
ところがこの時、なぜか新京阪線は京阪神急行電鉄、即ち阪急の路線として譲渡されたのである。
この新体制により、新京阪線は京阪神急行電鉄(阪急)の京都本線として改称した。
現在の千里線や嵐山線も、そのまま阪急の持ち物となったのである。
ちなみに、京阪神急行電鉄が阪急電鉄と改称したのは、終戦から遥か後の1973年(昭和48年)のことだ。
阪急京都線が、同じ会社でありながら阪急神戸線や阪急宝塚線と違う雰囲気なのは、元々が別会社だったという理由があるのだろうか。
一方の京阪電気鉄道にとって、自らが手塩にかけて育てた新京阪線が、お国の事情によってライバルの阪急に獲られたのは断腸の思いだったに違いない。
ただ、もし阪急京都線がそのまま京阪電気鉄道の持ち物だったら、大阪~京都間の乗客を自社同士で奪い合う結果になっていたとも考えられる。
その意味では、別会社になって良かったと言えなくもない。