PL学園(大阪、1983年夏・優勝、'84年春・準優勝、夏・準優勝、'85年春・4強進出、夏・優勝)
最上級生になった桑田、清原を擁するPLは、秋季近畿大会では準優勝に終わったとはいえ、翌春のセンバツには文句なく選ばれ、当然のことながらこの大会でも優勝候補大本命だった。
センバツでも難なく勝ち上がり、初出場の伊野商(高知)と対戦した。
もちろん、下馬評ではPL圧倒的有利だった。
しかし土佐の快腕こと渡辺智男(西武他)の速球が冴えわたり、強打のPL打線を寄せ付けない。
特に清原に対しては146km/hの快速球で無安打3三振。
桑田も打たれて1−3と甲子園で初めて決勝進出できずに敗退した。
三季連続で屈辱を味わったPLは、夏に向けて意識改革を図った。
中村監督は各選手に夏に向けて自分たちで調整するように指示。
特に桑田に対してはオーバーホールを施し、投球練習もほとんどせず、春季大会も近畿大会決勝以外は全く登板しないで、控え投手に登板を譲った。
センバツで渡辺に3三振の屈辱を味わった清原は、練習の鬼と化していた。
他の各選手も夏でのレギュラー獲りを目指し、自主練習に余念がなかった。
この年のPLは、中村監督が指示しなくても勝手に練習するチームになっていたのだ。
迎えた夏の大阪大会では圧倒的な力で勝ち進み、難なく甲子園出場を決めた。
甲子園でも順当に勝ち進み、打倒PLの一番手である高知商(高知)と対戦した。
高知商は高知大会で、センバツでPLを倒した伊野商に5−1で勝って甲子園出場を決めた。
特にエースの中山裕章(横浜大洋他)は最速148km/hという、清原を3三振に打ち取った渡辺以上と言われ、その渡辺に投げ勝っての甲子園だった。
二回表、高知商の川村建志が桑田から先制2ラン。
このホームランの理由を桑田は、その試合の球審は初めて判定してもらう審判だったのでストライクゾーンがわからず、いろいろなコースを試しているうちに甘いコースに入ってしまった、と語った。
桑田が打たれたという事実よりも、こんな芸当ができる高校生がいるということに驚かされる。
2点リードされたPLだったが、3回裏には中山に襲いかかり、見事な集中打で一挙4点を獲得、試合をひっくり返した。
そして迎えた5回裏、伝説的なシーンを迎える。
バッターは四番の清原。
中山は大きく振りかぶって渾身の剛速球を内角高めに思い切り投げ込んだ。
この速球を清原は完璧に捉えた。
ジャストミートされた打球はレフトスタンド中段へ。
推定140mという、甲子園史上最長ホームランだった。
センバツでの渡辺へのリベンジを、同じ高知県勢の速球投手中山に対してこれ以上ない形で果たした。
さらに桑田も清原とのアベックホームラン。
難敵中の難敵・高知商を6−3で葬り去った。
決勝の相手は宇部商(山口)。
ここには絶好調の四番打者、藤井進がいた。
藤井は準決勝までに甲子園記録となる一大会4ホーマーを放っていた。
ちなみにこの大会準決勝までの清原の記録は3ホーマー。
清原は準決勝で藤井に記録を抜かれていたのである。
決勝戦前、清原は桑田に言った。
「俺が打ってお前に甲子園20勝をプレゼントするから、絶対に藤井にはホームランを打たれるな」
桑田は2回表に先制点を許し、なおもピンチを迎えるも藤井を三振にきって取り、追加点を許さなかった。
PLはその後、清原の藤井に並ぶ大会4本目のホームランなどで逆転に成功するが、5回表の藤井のセンターオーバーの二塁打で再びリードを許す。
1点ビハインドのその裏のPLの攻撃、ここでまたもや伝説のシーンが再現される。
この大会初先発の宇部商・古谷友宏の球を清原は思い切り叩き、センターへの大飛球となった。
朝日放送アナウンサーの植草貞夫が絶叫する。
「センター藤井のところに飛んだ!藤井は見上げているだけだ!ホームランか、ホームランだ!恐ろしい!両手を挙げた!甲子園は、清原のためにあるのか!」
「たった一日だけの記録保持者」と言われた藤井の大会4ホーマーを抜く清原の5ホーマー目は、推定飛距離150mと言われ、中山から打った超特大ホームランとともに高校野球ファンの記憶に残されている。
試合は3−3のまま9回裏のPLの攻撃を迎え、三番のキャプテン松山秀明(オリックス)がサヨナラヒット。
KKだけではないという主将の意地がPLを二年ぶりの夏制覇に導いた。
桑田・清原がいた頃の高校野球は、間違いなくこの二人を中心に動いていた。
一年夏は池田(徳島)が圧倒的な力を誇っていたが、それをKK中心のPLが粉砕した。
二年の春夏は圧倒的な戦力で注目を一身に集めるも、いずれも決勝で悔し涙を流した。
三年春は4強に甘んじ、年々成績が落ちているではないかと揶揄されるも、夏にはきっちりリベンジを果たした。
しかし、ベスト4で成績が落ちている、と言われるのも考えてみれば凄い話である。
甲子園ベスト4といえば、普通の高校球児にとってみれば夢また夢の話なのだ。
それがKKのPLだと「物足りない成績」となってしまう。
では、KKの甲子園での成績がいかに凄いか、検証してみよう。
まず、桑田、清原は五季連続甲子園出場。
これは現在の学制では最長記録となり、この記録を超えることはできない。
この記録と並んでいるのは1980〜82年までの早稲田実(東京)の荒木大輔(ヤクルト他)と小沢章一である。
しかし、両校の甲子園での戦績を見てみると、その差は歴然としている。
早実は、'80年夏・準優勝、'81年春・初戦敗退、夏・三回戦進出、'82年春・8強進出、夏8強進出。
PLは、'83年夏・優勝、'84年春・準優勝、夏・準優勝、'85年春・4強進出、夏・優勝。
PLは実に五季の間に優勝2回、準優勝2回4強1回である。
決勝に進出できなかったのはわずかに1度だけ、しかも残りの1回でも準決勝に進出している。
人気野球漫画の「ドカベン」に登場する明訓高校は、ドカベン山田太郎が在籍中は五季連続甲子園出場、四度の優勝を果たしているが、山田二年の夏だけは二回戦で敗退している。
そして個人記録を見てみれば、桑田の甲子園20勝は戦後の最高記録。
ただし、戦前の中等野球時代を含めると、吉田正男(中京商=現・中京大中京)の23勝が甲子園最多勝記録である。
そして、泣く子も黙る清原の甲子園通算本塁打記録13本はもちろん、ダントツの1位。
この後、二人の運命はプロ野球ドラフトに委ねられる。
早くからプロ志望を宣言し、巨人熱愛の清原に対し、桑田は早稲田大進学を表明していた。
ところが、蓋を開けてみれば巨人が桑田を単独指名。
桑田は早大進学を覆し、清原を裏切る形で巨人に入団した。
ことの良し悪しはともかく、プロに入っても二人のライバル関係は続き、のちに清原は巨人に移籍し、再びチームメイトになった。。
先日、桑田が引退を表明し、奇しくもそのころ清原が久しぶりの一軍昇格したが、二人が野球に関わっている限りは二人の縁が切れることはないだろう。
エースと四番打者が一年生から活躍し、プロでもスターとなる。
もうこんなチームは現れないと思うが、それでも時には脆さも露呈した。
特にKK二年生時の春夏の決勝、桑田、清原が徹底マークされると、チームが全く機能しなくなった。
他の選手たちのレベルが決して低いわけではない(事実、その後プロへ進んだ選手が多数いる)のだが、あまり中心選手に頼り切るとその選手が不振になるとチーム力は一気に低下する。
KKを擁したPLは間違いなく戦後最強軍団といっても言いすぎではない戦力だったが、中村監督はPLを更なる強力チームへ変貌させようと模索していた。(完)