○植草貞夫(ABC)
「甲子園の夏は終わった!サイレン鳴ってもう戦いはありません!」
PLが九回裏に2点差をひっくり返して逆転サヨナラ勝ちし、初優勝した瞬間の実況。
準決勝の中京(現・中京大中京)戦では4点差をひっくり返してサヨナラ勝ちしており、二試合続けてのサヨナラ勝ちで「逆転のPL」「奇跡のPL」と呼ばれるようになった。
「荒木大輔、鼻つまむ」
一年生の時から甲子園で活躍していた早実の荒木大輔投手が、三年生の最後の夏に池田の二年生だった水野雄仁に超特大ホームランを浴びてノックアウト。
池田が14−2で大勝、さらにこの大会で優勝し、甲子園の主役は荒木から水野に移った。
☆1983年 全国高校野球準決勝 PL学園×池田
「大きく上がった!レフトは見上げるだけだ!真っ白いスタンドだ!ホームラン!背番号1の水野が、背番号11の桑田に打たれました!」
前年、荒木を打ち砕いて頂点に駆け上がり、剛腕強打の名を欲しいままにしていた池田の水野が、PLの一年生の桑田真澄に特大ホームランを浴びた。
夏春夏の史上初の三連覇を目指していた池田は。桑田の投打による大活躍により0−7で完敗し、引導を渡された。
「藤井のところに飛んだ!藤井は見上げているだけだ!ホームランか、ホームランだ!恐ろしい!両手を挙げた!甲子園は清原のためにあるのか!」
PLの清原和博は甲子園一大会3ホーマーという記録を持っていたが、宇部商の藤井進が前日の準決勝でその記録を更新する4ホーマーを放った。
しかし清原はこの試合の第二打席でホームランを放って藤井の記録に並び、その次の打席でセンターの藤井の頭上を越える特大ホームランを放ち、再び記録を塗り替えた。
藤井は一日だけの記録保持者となり、PLはこの試合に勝って優勝した。
「しません!勝負はしません!」
明徳義塾の馬渕史郎監督は、星稜の超高校級四番打者・松井秀喜に対して徹底的な敬遠を指示。
異例の5打席連続敬遠は物議を醸し、社会問題にまで発展した。
この時、解説を務めていた当時の北陽高校(現・関大北陽)野球部監督の松岡英孝は、
「非常に残念ですよ。三年生同士のねえ、男同士の勝負を見せてもらいたいです」
と苦言を呈していた。
テレビの前で高校の監督が他校の作戦を非難するのは珍しい。
○斎藤洋一郎(NHK)
☆1991年 ラグビーワールドカップ決勝戦 オーストラリア×イングランド
「(イングランドの)チャンスだ!チャンスだ!ガスコット!ガスコット!アンドリュー!アンドリュー!ガスコットが待ってる!あーっと、パスできない!もう一回!ゴールライン見えた!ゴールライン見えた!チャンスだイングランド!絶好のチャンス!出したい!ボールが見えています!出ました!さあ、どうする!?アンドリュー!ヒル!オーストラリアも懸命なディフェンス!(解説者「あー、ノーハーフになった」)ノーハーフでガスコット、ガスコット!22メーターまで押し戻した!どうだ!?(ホイッスルが鳴り)イングランドボールのスクラム!イングランドボールのスクラムですが、惜しかったイングランド!」
イングランドの本拠地、トゥイッケナムでのW杯決勝戦。
ワラビーズ(オーストラリア)圧倒的有利という下馬評の中、イングランドは戦法をガラリと変えてワラビーズに挑み、後半35分で6−12と1トライ1ゴール差に迫っていた(当時はトライ=4点)。
結局、ワラビーズの堅いディフェンスの前にイングランドは準優勝に終わったが、地元のファンからは喝采を浴び、トゥイッケナムには「スイングロー・スィートチャリオット」の大合唱がこだました。
NHKのアナウンサーが日本戦以外のスポーツ中継で、これだけ興奮する実況をしたのはあまり例がない。
○古館伊知郎(ANB)
☆1981年 新日本プロレス スタン・ハンセン×アンドレ・ザ・ジャイアント
「世界で5人目!世界で5人目!」
田園コロシアムでの伝説の一戦。
250kgのアンドレをボディスラムで投げた公式記録を持つのは、ハーリー・レイス、ハルク・ホーガン、ローラン・ボック、アントニオ猪木の4人しかいなかった。
それがこの日、ハンセンがアンドレをボディスラムで投げたため、世界で5人目の公式記録を持つことになった。
ただし、それより前にオーストラリアでブルーザー・ブロディがアンドレをボディスラムで投げており、さらにアンドレが「モンスター・ロシモフ」の名乗っていた無名時代、ストロング小林も投げていたと言われているので、そう考えるといささか価値が落ちる気がしないでもない。
この試合の結果は、延長戦の末、ハンセンが反則勝ち。
○若林健治(NTV)
「三沢が勝ったー!三沢が、勝った〜!」
1990年、新団体SWSが設立されて、全日本プロレスから天龍源一郎をはじめとする主力レスラーが次々とSWSに移籍し、全日本プロレスは最大の危機を迎えた。
特に天龍の離脱によりエースの鶴田のライバルがいなくなり、もう全日本はダメだろうと噂された。
そんな中、二代目タイガーマスクの三沢がマスクを脱ぎ捨て、鶴田に挑戦した。
大方の予想では、三沢が鶴田に勝つのは無理、という声が圧倒的だったが、三沢の思わぬ返し技で鶴田を破った。
この一戦で全日本は息を吹き返した。
☆1986年 全日本プロレス 長州力&谷津嘉章×ジャンボ鶴田&天龍源一郎
「さあ、長州力、谷津嘉章組が入場してまいりました。長州は専修大学出身、谷津は日本大学でレスリングを学んできました。今、リングイン!」
「続いて、ジャンボ鶴田、天龍源一郎組の入場です。ジャンボ鶴田は中央大学卒業のインテリです。天龍源一郎……(ここで天龍だけが中卒だったことに気付き)、天龍源一郎、今日も元気です!」
これは元・日テレの徳光和夫がテレビで喋っていたネタだが、実際に実況したのは倉持隆夫で、ここまで面白くはなかったようだ。
こちらが元ネタ(2分過ぎ)↓
www.youtube.com
まあ何にせよ、元気があればなんでもできる!というアントニオ猪木の教えは、天龍に受け継がれているのかも知れない。