▲外野から見たPL球場
最近、慶應義塾大学の野球部に入部し、新人戦で活躍する元プロ野球選手の清原和博の長男・清原正吾選手が話題になっている。
筆者の数少ない自慢の一つに、KKコンビの世の中デビューを生で観た、というのがあるが、そのことについてはこのネタランで何度か書いた。
KKコンビについて、今では若い人はよく判らないかも知れないので、もう一度おさらいしておく。
1983年、夏の甲子園に出場したPL学園(大阪)は、一年生の桑田を事実上のエース(2完封を含む4勝)、やはり一年生の清原を四番打者(1本塁打)として抜擢、この一年生コンビの大活躍により全国制覇を達成した。
桑田・清原は一躍大スターとなり、いつしか彼らを人は「KKコンビ」と呼ぶようになったのである。
特に桑田は、1968年4月1日生まれ。
つまり、早生まれでの最後の日であり、「史上最年少の甲子園優勝投手」ということで話題になった。
何しろ、桑田が生まれるのがあと1日遅かったら、桑田はまだ中学三年生だったので、この年に甲子園で活躍することは有り得なかったのだから。
高校野球の制度が変わらない限り、桑田の「最年少甲子園優勝投手」の記録が破られることはない。
この年、最も注目を集めた高校はPLではなく池田(徳島)。
池田は前年夏とこの年の春の甲子園を制覇し、史上初の夏春夏三連覇の偉業を成し遂げるかが最大の関心事だった。
特に、池田は当時まだ珍しかったウェート・トレーニングをいち早く取り入れ、パワー抜群の「やまびこ打線」をどの投手が止めるのか、ということでも注目されていたのである。
そんな中、PLの前評判は決して高くはなく「一年生にエースと四番を任せるなんて、PLも落ちたものだ。とても池田には敵わないだろう。桑田なんて、やまびこ打線にアッサリKOされるに違いない」というのが大方の予想だった。
ところが、準決勝での両校の対決で、「実質中学生」の桑田は、全国レベルの三年生投手でも抑えることができなかったやまびこ打線を完封してしまった。
しかも、桑田自ら特大のホームランを打つというオマケ付きである。
当時の高校野球雑誌で、「PLの桑田投手は最年少選手として話題になったけど、池田の三年生の金山(光男)選手は(1965年)4月2日生まれで『一番のオジン選手』なのに、話題にならなかったのはナゼ?」という読者投稿があった。
そう、高校野球には年齢制限があるので、1983年夏の甲子園に出場できる選手は「1965年4月2日~1968年4月1日に生まれた高校生」に限られている。
例えば、この年の夏の甲子園に出場した箕島(和歌山)の硯昌巳は二年生だったが、留年したうえでの二年生だったため、翌年は年齢制限に引っ掛かるので高校野球の大会には出場することはできない。
このような制度があるのは、かつては規定が曖昧で、全国大会に出場するため大学選手を引っ張ってくる、なんてことが行われていたからだ。
そう考えると、池田の金山は「一番のオジン選手」だったはずだが、この年の甲子園大会に限っては違った。
つまり、金山以上の「オジン選手」が、甲子園に出場していたのである。
その選手とは、後に阪神タイガースなどで活躍する、当時は興南(沖縄)の左腕エースだった“マイク”こと仲田幸司だ。
マイク仲田の生年月日を見ると「1964年6月16日」となっている。
つまり、上記の「1965年4月2日~」よりも1年早いわけだ。
それではなぜ、マイク仲田はこの年の高校野球大会に出場できたのか?
マイク仲田はアメリカ生まれで、アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれたハーフだ。
高校野球には前述のように年齢制限があるが、特別な事情がある場合は19歳でも大会に参加できる(20歳以上は、いかなる事情があっても出場できない)。
マイク仲田の場合は「特別な事情」に該当したのだろう。
マイク仲田は、二年夏(普通なら三年生)と三年春夏(普通なら高校卒業)の三季連続で甲子園に出場している。
この年の夏の大会前にマイク仲田は、練習試合で池田を完封しており、甲子園でも興南は「打倒・池田」候補に挙げられていた。
ところが、マイク仲田が練習試合で池田を完封したちょうど同じ頃、そのマイク仲田を打ち込んだ選手がいたのだ。
それが、他ならぬ清原である。
筆者はKKコンビの世の中デビューを生で観た、と書いたが、それはこの年の夏の大阪大会でのこと。
PLにとっての初戦(二回戦)、住之江公園球場での大阪学院戦、四番打者として登場したのが背番号14の清原だった。
この試合が清原にとって初の公式戦、つまり世の中デビューだったわけだ。
清原は公式戦初試合で、見事に二塁打を放っている。
筆者はこの時、清原が一年生だとは知らなかったが、翌日の新聞で一年生だと知った。
まさか、自分と同い年の選手が、一年生でPLの四番を張るとは……。
▼清原和博にとって“高校デビュー”の場となった住之江公園球場
そして四回戦での大阪球場、吹田戦で先発マウンドに上がったのが、背番号17の桑田だった。
当時の大阪大会でのベンチ入りは17名で、つまり背番号17の桑田はドン尻のベンチ入りメンバーだったのだ。
好調の吹田打線を、背番号17の投手が抑えられるのか?と思ったが、この小さな投手は凄い球を投げていた。
二回戦の住之江球場ではPL三年生エースの藤本耕のピッチングを見たが、ハッキリ言ってモノが違っていたのである。
結局、桑田は吹田を2安打完封、これが桑田にとって公式戦初登板初勝利だった。
この試合で清原は公式戦初ホームランを放っている。
高校一年生の選手にとって、初の公式戦は夏の地方大会ではない。
それより前に、入学間もない4月に春季大会が始まる。
普通の都道府県では、春季大会で好成績を収めると夏のシード権を獲得するが、大阪の場合はシード校制度がなかった(今年から大阪でもシード校制度を採用)。
従って、大阪では春季大会は夏の大会に直結しないが、それでも選手たちにとっては夏のベンチ入りメンバーに入るための大事な大会である。
この年の春季大会では、清原も桑田もベンチに入っていなかった。
つまり、普通では夏の大会でもベンチ入りできないところだが、実際には夏にベンチ入りを果たしている。
春季大会に出場できなかった清原にとって、夏のベンチ入りのチャンスが6月に行われた興南との練習試合だった。
マウンドに立つのは、甲子園で活躍し、練習試合ながら池田を完封したマイク仲田。
代打で登場した清原にとって、これが高校入学後の対外試合初打席だった。
打席に立った清原はバット一閃、マイク仲田から見事にライナーで右中間を破る二塁打を放ったのである。
この時、清原は3ヵ月前まで中学生だった一年坊主。
一方のマイク仲田は、本来なら高校を卒業している19歳。
もしマイク仲田が、年齢通り高校を卒業していたら、どうなっていただろうか。
マイク仲田のポテンシャルから言って、高卒でいきなりプロにドラフト指名されていた可能性は高い。
実際のマイク仲田は高校卒業後、ドラフト3位で阪神に入団し、2年目には一軍で1完封を含む3勝をマークした。
マイク仲田が清原と対決した年にプロ入りしていたとすると、一軍登板は難しかったかも知れないが、二軍戦では投げていたのではないか。
いずれにしろ、”実質プロ”とも言えるマイク仲田から放った二塁打が、清原にとって夏の大会でのベンチ入り切符となった。
ちなみに、現在のマイク仲田は野球チームの監督、ではなく工事現場の監督になっている。
▼PL球場のスコアボード下にあった、KKコンビが高校時代を過ごしたPL学園硬式野球部の「研志寮」(大阪府富田林市)