子供の頃、学習机の狭い引出の中に、どうやってドラえもんやのび太が入っていたのか不思議に思っていた。
そして成人した今、もしタイムマシンがあったら何に使うだろうと時々思う。
少なくとも、未来は見たくない。
自分が将来どうなっているかなんて、知ってしまった上で生きていくなんて、こんなにつまらない人生はないだろうと思う。
ただ、自分の死後がどんな世界になっているかは見てみたい気がするが。
いささか矛盾することだが、今の僕なら20年ほど前の自分をタイムマシンに乗せて、現代の世界を見せたいと思う。
当時の僕は嫌がるかもしれないが、無理やりタイムマシンに乗せてしまうのだ。
と言っても、20年後の自分を見せるわけではない。
20年後の野球界を見せるためである。
今から約20年前といえば1980年代半ば、僕が高校生になっていた頃だ。
それより少し前、僕が小学校5年生だった頃の'78年の秋、シンシナティ・レッズが来日していた。
当時のメジャーリーグは単独チームが来日するのが常で、日本チームが対戦する単独チームは巨人だけ。それ以外は巨人と他球団の連合チーム、あるいは全日本だった。
僕がメジャーリーガーを見たのはその時が初めてで、メジャーとはどんなに凄いのだろうかと興味を持って見ていた。
そのときのレッズのパワーに圧倒されてしまった。
打球が日本人選手のものと全く違うのである。
ホームランの打球よりも、ラインドライブの鋭さに驚いた。
当時、狭かった後楽園球場でも日本人選手がライナーで両翼のフェンスを直撃することは少なかったが、レッズの選手はフェンスに穴が開きそうな強烈な打球をダイレクトでブチ当てるのだ。
そのときのレッズの戦績は14勝2敗1分。内訳は以下の通り。
対巨人=7勝1敗1分
対巨人+他球団=6勝0敗
対全日本=1勝1敗
つまり、レッズと互角だったのは全日本だけだったのである。
その3年後の'81年、今度はカンザスシティ・ロイヤルズが来日した。
日米野球の試合方法としては3年前のレッズとほぼ同じだったが、このときのロイヤルズは9勝7敗1分。
日本チームの健闘が目立ったシリーズだったが、むしろ野球ファンの見方は「なんて弱いメジャーチームなんだ」というものだった。
その2年後の'84年、前年度ワールドチャンピオンのボルチモア・オリオールズが来日した。
このときのオリオールズの成績は8勝5敗1分で、ロイヤルズよりはマシだったとはいえ、日本のファンに、おっ?と言わせた。
実はこの年の日米野球は「日米ワールドシリーズ」と言われていて、前年度ワールドチャンピオンのオリオールズと、この年の日本シリーズチャンピオンと世界一決定戦を行うという趣旨だった。
世界一決定戦なら本年度のワールドチャンピオンチームを招くのが筋だろうと思うのだが、手続きの点で問題があったのだろう。
それはともかく、'83年のワールドチャンピオンであるボルチモア・オリオールズと、'84年の日本シリーズチャンピオンである広島東洋カープが5回戦制で戦い、4勝1敗でオリオールズが真の世界一に輝いた(もちろん、非公式である)。
ちなみにこのときの広島にはルー・ゲーリックの連続試合出場記録を破らんとする衣笠祥雄がいて、オリオールズには後に衣笠の世界記録を破る若かりし頃のカル・リプケン・Jrがいた。
このときの衣笠は、まさか12年後にカンザスシティで、自らの記録を破ったリプケンを祝福に訪れるとは夢にも思わなかっただろう。
話は逸れたが、その後もオリオールズは日本各地で巨人や連合チーム、全日本と戦った。
広島との対戦成績は4勝1敗だったオリオールズも、その後の成績は4勝4敗とやや精彩に欠いたものだった。
というより、日本が強くなったのか?
確かに単独チーム同士での対戦ならまだ差はあるものの、連合チームなら充分互角で戦える。
全日本なら勝って当たり前とすら言われるようになった。
それから2年後の'86年、単独チームではなく、いよいよMLBオールスターチームが来日して、全日本軍(この頃はNPBという言葉がなかった)と対戦することになる。
この頃の日本には二年連続三回目の三冠王を獲得した落合博満がいて、勝ち越しはともかくかなりの善戦が期待された。
しかし結果は全日本の1勝6敗。
その全日本の1勝も、ポテンヒットが重なっただけのラッキー勝利であり、この試合以外での試合内容は完敗だった。
ホームランはMLBの19本に対し、全日本は僅かに2本。パワーの差はどうしようもなかった。
このシリーズでホームランを打てなかった落合は「日本はアメリカ(メジャー)には半永久的に勝てない」と落胆した。
落合はこのシリーズで、完璧にとらえた(つまりホームラン)と思った打球が急に失速し、外野フライに倒れたため、その後数年間バッティングが狂ったそうである。
ちょうどこの頃、日本では落合と共に二年連続三冠王の栄冠に輝いていた猛者がいた。
それが史上最強の助っ人、ランディ・バースである。
しかしこのバースも、メジャーでは通算ホームラン僅か9本の無名選手で、もっぱら3Aの選手だった。
アメリカではマイナーの選手が日本で二年連続三冠王を獲得する現実。
さらにその翌年の'87年、アトランタ・ブレーブスでスーパースターのデール・マーフィと三、四番コンビを組んでいたボブ・ホーナーがヤクルトスワローズに入団した。
それまで日本に来る外人選手は3Aクラスのマイナー選手か、盛りを過ぎた元メジャーリーガーと相場が決まっていた。
そこに現役バリバリのメジャーリーガー、しかもオールスター級の選手が来日したのである。
シーズン途中の入団だったが、ホーナーは来日早々打ちまくって日本中にホーナーフィーバーを巻き起こし、規定打席には届かなかったにもかかわらず31ホーマーという驚異的な数字を残した。
もう、メジャーと日本の差を見せ付けられるばかりであった。
バースや落合に浮かれていたのが恥ずかしいくらいだった。
しかもホーナーはシーズン終了後、「日本のベースボールは『野球』という名の別のスポーツだ」という捨てゼリフを残して日本を去った。
翌年、ホーナーはセントルイス・カージナルスに入団するが、思うような活躍ができず、結局1年で引退を余儀なくされた。
1年間の日本野球経験がレベルを下げたのでは?とさえ思われた。
話は前後するが、'85年のミルウォーキー・ブリュワーズのスプリングキャンプに、日本を代表するクローザーだった江夏豊が参加している。
当時は江夏の日本野球で培った投球術がメジャーでも通用するのではないかと言われたが、江夏が計算通りに投げた球がマイナー選手にホームランを打たれて自信をなくし、結局開幕直前で解雇されてしまった。
あの一匹狼・江夏ですら不安に怯える日々、それがメジャーリーグである。
それから約10年後、またアメリカに渡りたいというヤツが現れた。
近鉄バファローズの野茂英雄である。
当時の日本プロ野球界には既にフリーエージェントシステムがあったが、それを利用してメジャーに飛び込む選手はいなかった。
日本のFA取得年数は長いし、日本にいれば高給は保証されるので、あえてメジャーに冒険する選手なんていなかったのだ。
しかし野茂は、メジャーにこだわった。
メジャーに挑戦するには悠長にFA権を待つことはできず、自分が旬のうちにメジャーに挑戦したいと考えたのである。
そこで野茂は代理人の団野村と相談し、任意引退選手となってメジャーに挑戦するというウルトラCを思いついた。
すったもんだの末、野茂がロサンジェルス・ドジャースに入団したのが'95年。
野茂は「ドクターK」としてメジャーのスターとなり、オールスターの先発投手を任されるのである。
このときも僕は、10年前の自分をタイムマシンで連れてきて、今の野球界を見せてあげたい、と思ったものだ。
どうやら僕は、10年周期でタイムマシンで過去の自分を連れてきたがるらしい。
そして日本の野球がMLBに全く歯が立たなかった時代から20年、昨年のWBCでは日本が世界一に輝いた。
20年前、日本が野球の世界一になることはおろか、プロを含めた野球の世界大会が開催されるなんて夢にも思わなかった。
さらに今年のMLBオールスター戦、日本人選手が3人も選ばれ、そのうちのイチローが3打数3安打、1ランニングホームランでMVPに輝くなんて、誰が想像しただろう。
今の時代では日本人選手がMLBに挑戦するなんて誰も不思議には思わないが、20年前の僕がなんの情報もなくこの事実を知って、僕はどういう感想を持つのだろうか。
のび太の学習机の引出に入って、過去の自分を連れてきて聞いてみたい。