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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

高校日本代表

8月30日から韓国・ソウル市で行われる第25回IBAF18U世界野球選手権(18歳以下の世界野球選手権)に出場する高校日本代表が結成された。

メンバーには、春夏連覇を達成した大阪桐蔭のエース・藤浪晋太郎はもちろん、センバツには出場しながら夏の甲子園には出場できなかった160km/h男、花巻東大谷翔平も選ばれた。

去年の大会では、春夏とも甲子園に全く縁がなかった東海大甲府の高橋周平(現・中日)が代表に選ばれたのだから、時代も変わったものだ。

 

どう時代が変わったのかと言えば、かつては夏の甲子園に出場できなければ、高校日本代表には選ばれなかったのである。

それもベスト4以上に進出した高校中心に選手が選ばれて、必ずしも日本最強の高校チームとは言えなかった。

たとえば、プロ注目の選手が夏の甲子園に出場しても、一、二回戦で敗れれば選ばれないことも多かったのである。

高校ラグビーでは予選の段階で既に高校日本代表候補が選ばれ、所属する高校が花園に出場するかどうかは関係なく、花園での全国大会終了後に候補選手の中から高校日本代表選手が選ばれるのである。

それに比べると高校野球では随分いい加減な選手の選び方だが、最近ではやっとそれに近付いてきたというところか。

 

1980年代頃だろうか、高校日本代表(当時は「全日本高校選抜」などと呼ばれていたようだが、ここでは「高校日本代表」で統一する)が注目され始めた。

当時はまだ18歳以下の世界選手権などはなくて、日韓親善高校野球が主流だった。

夏の甲子園終了後、夏の甲子園上位進出校を中心に高校日本代表が結成され、高校韓国代表と対戦していたのである。

 

1981年、夏の甲子園で優勝した報徳学園のエースが在日韓国人の金村義明(元・近鉄ほか)だったので、韓国でも夏の甲子園が大いに注目され、優勝した瞬間に金村が甲子園のマウンドで飛び跳ねている写真が韓国各新聞の一面トップを飾ったものである。

金村を中心に名古屋電気(現・愛工大名電)の工藤公康(元・西武ほか)や、まだ二年生だった早稲田実業荒木大輔(元・ヤクルトほか)らで高校日本代表が結成され、韓国に遠征したが、高校韓国代表に0勝3敗で惨敗した。

当時の韓国では、日韓高校野球は日本とは比べ物にならないほど注目されていたので、韓国中は沸きかえったことだろう。

在日同胞の選手が甲子園優勝投手になり、その選手が中心の日本チームに完勝したのだから。

 

翌82年、夏の甲子園では高校野球に革命を起こしたと言われたパワー野球の池田が、圧倒的な強さで制した。

そのせいか、池田からはエースの畠山準(元・南海ほか)をはじめレギュラー9人全員が高校日本代表に選ばれた。

その年は高校韓国代表が日本に遠征してきたが、畠山や荒木を中心とした高校日本代表は、1勝2敗でまたもや韓国に苦杯を舐めたのである。

 

この年から韓国でもプロ野球が発足、常に日本を目標にしてきた韓国野球界は、もはや高校レベルでは韓国の方が日本よりも上だ、と胸を張った。

その一方で韓国の野球関係者にも、

「日本の高校野球の参加校は3千校を超えるのだから、高校日本代表と同じレベルのチームを5つは作れるが、我が韓国には50数校しか野球部がないので最強チームを作るのには便利だけれど、二番手以下のチーム力はかなり落ちる」

という冷静な意見もあった。

 

翌83年の夏は、夏春夏の3連覇を狙う池田を、一年生の桑田真澄(元・巨人ほか)と清原和博(元・西武ほか)を擁するPL学園が破り優勝した。

この頃、日本のある一般週刊誌が、

「池田もPLも敵わない!韓国高校野球の恐るべきパワー野球!!」

という特集を組んでいたのを憶えている。

野球と関係のない週刊誌が注目するほど、パワー野球で革命を起こした池田以上の凄いパワーが、韓国高校野球にあったのだ。

 

だがこの年は残念ながら、代表チーム同士による日韓高校野球は行われなかった。

高校日本代表は18年ぶりに、アメリカ本土に遠征したのである。

池田のエース・水野雄仁(元・巨人)や桑田(清原は代表に選ばれなかった)を擁する高校日本代表はアメリカに渡り、カリフォルニア州選抜と戦って2勝2敗、ハワイに移動してホノルル市選抜に敗れ、オアフ島選抜に勝って計3勝3敗で帰国した。

2勝2敗だったとはいえカリフォルニア州選抜のパワーは凄まじく、池田はもちろん韓国よりも遥かに上だっただろう。

この頃、池田の影響で日本でもようやくウエート・トレーニングの重要性が認識されつつあったが、まだまだ日米のパワーの差は歴然だった。

なお、この年のセンバツでは享栄の藤王康晴(元・中日ほか)がタイ記録となる3本塁打するなど大活躍したが、夏の甲子園には出場できなかったので代表には選ばれなかった。

藤王の打棒をアメリカで見せ付けて欲しかったのにと、当時は残念に思ったものだ。

 

先ほど、代表チーム同士による日韓高校野球は行われなかったと書いたが、実はこの年も高校韓国代表は来日している。

高校日本代表が渡米している間、関東各都県の高校選抜チームと対戦していたのだ。

高校日本代表にすら勝ってしまう高校韓国代表のパワー野球だったら、県選抜チームだとひとたまりもないだろうと思われた。

ところがフタを開けてみると、最終戦で千葉県高校選抜が1点差で惜敗した他は、栃木県高校選抜、神奈川県高校選抜、東京都高校選抜はいずれも解消し、高校韓国代表は1勝3敗と惨敗に終わった。

「日本では代表レベルのチームが5つは作れる」

と語っていた韓国の野球関係者の懸念が当たったのだ。

 

ところでこの年、埼玉県の高校選抜チームが中国に遠征している。

日本の高校野球チームが訪中するのは、この時が初めてだった。

この頃の中国野球はまだまだレベルが低く、埼玉県高校選抜は北京高校選抜と大連高校選抜にいずれもコールド勝ちで圧勝している。

しかし第2戦に行われた北京青年選抜戦では、相手は大学生も混じったチームとあって埼玉県高校選抜は大苦戦、6-5でかろうじて勝つことができた。

現在の中国野球は、この頃から既に野球強国だった台湾にも勝ってしまうほどレベルが上がっているが、その礎が当時にはあったのだ。

この年の日本の高校野球は、アメリカ、韓国、中国と親善試合を行い、国際化を意識していたことがわかる。

 

その頃から30年近くが経ち、高校野球の国際化は当時とは比べ物にならないほど進んでいる。

高校野球(18歳以下)の世界大会なんて、当時は想像もしていなかった。

今回、高校日本代表に選ばれた選手たちは、甲子園で戦った選手とチームメイトになって交流も深まるだろうし、何よりも各国の選手との異文化間での交流は貴重な体験なので、野球のみならず多くのものを学んでもらいたいものだ。