大阪府富田林市にあるPL球場
★1985年夏(阪神甲子園球場)
第67回全国高等学校野球選手権大会
●二回戦
東海大山形 001 000 015=7
P L 254 362 52x=29
●三回戦
津久見 000 000 000=0
P L 000 201 00X=3
●準々決勝
高知商 020 000 100=3
P L 004 020 00X=6
●準決勝
甲西 000 002 000=2
PL 223 420 20X=15
●決勝
宇部商 010 002 000=3
P L 000 111 001x=4
◎KKコンビ最後の夏は屈辱から始まった
2年前の夏、スーパー一年生として名門・PL学園(大阪)を甲子園制覇に導いたエースの桑田真澄(元:巨人ほか)と四番打者の清原和博(元:西武ほか)。
人はいつしか彼らをKKコンビと呼ぶようになった。
KKコンビの二年時は春夏連続甲子園準優勝。
二年生が中心のチームで、普通の感覚では凄い成績なのだが、彼らも周囲も納得しなかった。
KKコンビが中心のPLは、常に甲子園でも優勝を義務付けられていたのである。
春は甲子園初出場の岩倉(東京)に決勝で敗れて中村順司監督の甲子園連勝記録は20でストップ、夏は県立校の取手二(茨城)に決勝で延長戦の末に敗れた。
岩倉と取手二、共通していたのは「ノビノビ野球」と呼ばれる自由奔放なプレーだった。
それに対し、PLは「管理野球」と呼ばれていたのである。
「ノビノビ野球が管理野球のPLを打ち破った!」とマスコミはこぞって書き立てた。
KKコンビの二年秋、PLは東洋大姫路(兵庫)に敗れたとはいえ近畿大会準優勝、翌春のセンバツには文句なく選ばれた。
最上級生になったKKコンビには中心選手としての自覚が芽生え、さらに他のメンバーも充実、センバツでPLはダントツの優勝候補と言われていた。
それどころか「戦後最強軍団」とさえ謳われたのである。
「サンデー毎日」のセンバツ・ガイドブックでは、PLは投攻守全ての部門で95点評価、総合点でも32校中ただ1校のみの95点評価だった。
しかし、前評判通り順調に勝ち進んだPLだったが、準決勝では甲子園初出場で県立校の伊野商(高知)に1-3で敗れ、まさかの決勝進出前での敗退となってしまった(伊野商は決勝でも勝って優勝)。
KKコンビが甲子園で決勝に進出できなかったのは、後にも先にもこの大会だけだ。
特に清原は、伊野商のエース渡辺智男(元:西武ほか)に3三振を食らうという完敗を喫したのである。
清原は、渡辺の146km/hの快速球に、手も足も出なかった。
◎雰囲気が変わったPLの練習
「なんだ?この練習は??」
PLの練習を見に訪れた記者は一様に驚く。
「ウェーイ、ウェーイ」という野球部にありがちな、意味不明の掛け声は聞こえて来ない。
代わって聴こえてくるのは、当時流行っていた中森明菜の「1/2の神話」などのヒット曲である。
選手を怒鳴るべき中村監督は、芝刈り機を運転して外野の芝生を呑気に整備していた。
選手がエラーしても、「いいかげんにしろ!」という中村監督の怒声の代わりに、「いいかげんにしてぇ~♪」と中森明菜の歌声がPL球場に鳴り響く。
現在でこそ練習中に音楽を流すのは珍しくもないが、当時の野球部、特に名門校と呼ばれる高校では異例のことである。
「曲は選手が選んで、1本のテープ(当時はカセット・テープが主流だった)を作ってかけています。音楽をかけた方がリズムに乗れるし、練習も楽しいでしょう」
芝刈りを終えた中村監督がそう明かした。
「PLは管理野球」という先入観を持った記者連中は、みんな面喰ってしまう。
練習内容だって、特に変わったことをしているわけではない。
猛練習をイメージしていた記者にとって、PLの練習風景はあまりにもノンビリしすぎていた。
「単調な練習を長時間やっても選手は飽きるだけで、技術は向上しません。それに、選手たちは自分が何をすべきかわかっているので、私は気付いた点をアドバイスするだけです。桑田ですか?そう言えばアイツ、どこへ行ったのかな?」
と中村監督はアナタ任せ。
そのころ桑田は、グラウンドから離れて芝生に寝そべりながら自己流の調整を行っていた。
これも「管理野球」からかけ離れた光景である。
練習時間の短縮を中村監督に進言したのは桑田だった。
元々、中村監督になってからのPLは練習時間も短くなったのだが、それをさらに緩めて欲しいと願い出たのである。
岩倉、取手二、伊野商に敗れて、楽しそうに野球をする彼らに触発されたのだ。
中村監督も桑田の要望を聞き入れ、全体練習は短縮されたのである。
だからといって、練習内容が薄くなったわけではない。
その分、自主練習にウェートが置かれるようになったのだ。
勝つために、自分の技術を高めるために、チーム内の競争に打ち勝つために、そしてより野球を楽しむために、自己管理が必要になった。
清原は伊野商に敗れた晩、室内練習場で鬼神の如く打ち込みをした。
渡辺に3三振を食らった悔しさから、練習の鬼となったのである。
桑田はみんなが寝ている早朝に起きて、PLゴルフ場を走り回り下半身強化に努めた。
夏を投げ抜く体力を付けるために。
その他のメンバーも、KKコンビに負けぬよう、自主練習に励んでいた。
その分、全体練習では明るい雰囲気が流れていたのである。
「桑田は一年から投げていて、1日に何百球も投げ込んでいるので肩が使い減りしている。プロでは通用しないだろう」
などとマスコミはステレオタイプ的に報じていたが、桑田は意に介さず右肩を見せて、
「僕の肩、全然”減って”ないでしょ?」
と記者に対して冗談を飛ばしていた。
センバツ後、桑田はオーバーホールに努め、投げ込みも4~50球程度に抑えていたのである。
調整は完全に、中村監督から任されていた。
練習試合や春季大会では桑田をほとんど登板させず、控え投手の小林克也らにマウンドを託してのだ。
それでも春季近畿大会決勝に進出してしまうのだから、この年のPLは恐ろしい。
ようやく決勝で先発した桑田は、センバツ8強の天理(奈良)を相手にノーヒット・ノーランの快挙を演じてしまった。
この試合で清原も2ホーマーを放ち、もちろんPLは近畿大会優勝、夏に向けて試運転は完璧だった。
◎破竹の勢いで勝ち進む
いよいよKKコンビ最後の夏、大阪大会が始まった。
今までの「優勝がマスト」のPLから硬さが取れ、大阪大会を圧倒的な力で勝ち進んだ。
KKコンビの他にも、主将で二塁手の松山秀明(元:オリックス)、俊足の中堅手・内匠政博(元:近鉄)、高校時代は背番号2ながら控え捕手だった今久留主成幸(元:大洋ほか)と、後に5人もプロ入りする才能集団。
「戦後最強軍団」の名に恥じぬ実力を見せ付けた。
大阪大会決勝の相手は、新興校の東海大仰星。
ここでも清原は2ホーマーを放つなど、後にプロ入りする二年生の小坂勝仁(元:ヤクルトほか)を完膚なきまでに叩きのめし、PLは17-0でアッサリと5季連続甲子園出場を果たした。
レベルが高い大阪で、5季連続甲子園出場など至難の業だ。
ちなみに、夏の大阪大会3連覇は、この年のPLが史上初である(後に大阪桐蔭も記録)。
甲子園出場校が全て決まり、抽選によりPLは二回戦からの登場、初戦の最終日となる第7日に東海大山形(山形)と対戦することとなった。
つまり、1週間も待ちぼうけを食らうことになったのである。
当時のPLは甲子園に出場しても、研志寮からバスに乗って試合ごとに甲子園入りしていたから、普段と変わらない生活をしていた(現在では、PLが甲子園出場した際には大阪市内のホテルに宿泊する)。
他校の選手たちは甲子園入りすると、まるで修学旅行のように非日常の生活を味わえるのに、PLナインは研志寮で寝泊まりしてPL球場で練習するという、全く代わり映えのしない日常。
試合ができないイライラも募って、清原は取材に来た記者に対し「僕ら、ホンマに甲子園に出場してるんですかね?」と愚痴をこぼしていた。
憂鬱だったのはPLナインだけではなかった。
対戦相手の東海大山形、監督の滝公男である。
系列校のよしみで東海大仰星から大阪大会決勝のビデオが送られてきたが、5回にPLが9-0と一方的リードになった時点で、滝監督はビデオを消してしまった。
こんな試合を見ても何の参考にもならず、ただ恐怖心が募るだけだ、と。
そして、滝監督の悪い予感は、予想を遥かに越える現実となってしまった。
1週間待ってようやく甲子園に真打ちのPLが登場、待ってましたとばかりマンモス・スタンドは5万8千人の超満員となった。
それは、PLの猛打ショーを見るために他ならない。
その期待に応えるように、PL打線は打ちまくった。
どんな試合だったかは、冒頭のランニング・スコアを見れば一目瞭然、29-7という甲子園史上最多得点、さらに甲子園史上初の毎回得点試合となった。
完全試合よりも確率が低いと言われる毎回得点、後攻で8回までの攻撃だから達成できたとも言えるが、逆に先攻だったら30得点に届いていたかも知れない。
あまりの惨劇に、山形県議会では「本県の高校野球はなぜこんなに弱いのか」と大真面目に議論されたほどだ。
しかし、PLナインの中で一人だけ浮かぬ顔をしていた男がいた。
四番の清原である。
この試合で清原は5打数2安打でホームランなし、PL打線の中で一人取り残された形となった。
それでも一つだけいいことがあった。
夏の甲子園のマウンドに立ったのである。
この年のセンバツ初戦、浜松商(静岡)戦でもリリーフとして登板したが、夏の熱い甲子園のマウンドに立つのは初。
結果は2/3回を投げて打者4人、1奪三振2四球と、ピリッとしない内容。
「桑田みたいにはイカンな。ピッチャーをやめてホンマ良かったわ」と苦笑いしていた。
それでも清原は、甲子園のマウンドに立てたのは何よりも嬉しかったと語っている。
三回戦の相手は、センバツで「PLキラー」東洋大姫路を破った津久見(大分)。
初戦とは一転、1点を争う好ゲームとなった。
2-0とPLリードで迎えた6回表、津久見の攻撃。
二死一塁で打席に入るのは、センバツでの東洋大姫路戦では、昨秋の近畿大会でPLを完封した豊田次郎(元:オリックス)からホームランを打った主砲の上島格。
桑田の球を捉えた上島の打球はセンターへグングン伸びる。
あわやホームランか?という打球をセンターの内匠が背走、また背走してフェンスに激突しながら好捕。
抜けていれば1点は確実だっただけに、桑田を救うビッグ・プレーとなった。
筆者が見てきた中で、甲子園史上最高のスーパー・プレーである。
結局、桑田は8安打を浴びながらも要所を締めて完封、PLは3-0で津久見を退けてベスト8に進出した。
◎豪快!140m弾で春の借りを返す
準々決勝の相手は、2年前の夏にも準々決勝で対戦した高知商(高知)。
あの1978年夏、決勝でPLが奇跡の逆転優勝を演じた因縁の相手である。
2年前は10-9の大接戦でPLが勝利、高知商は雪辱に燃えていた。
それだけでなく、この試合が事実上の決勝戦と言われていたのだ。
高知大会決勝で高知商は、センバツ優勝校の伊野商に5-1で逆転勝ちした。
エースの中山裕章(元:横浜大洋ほか)は最速148km/h、清原を3三振に斬って取った伊野商の渡辺以上と噂された剛腕である。
現在でこそ150km/hを投げる高校生はいるが、当時は148km/hと言えば驚天動地の剛速球だった。
実は2年前、一年生だった中山裕はPL戦でリリーフ登板している。
この時は3回2/3を投げて、三年生エースの津野浩(元:日本ハムほか)をメッタ打ちにしたPL打線に対して被安打1、無失点の好投を演じて、大器の片鱗を見せていた。
この試合で先発した桑田は、中山裕が登板した頃には既に降板、つまり「すれ違い対決」となっている。
KKコンビおよび中山裕が最上級生となった試合、2回表に高知商は川村建志が桑田から2ランを放ち2点先制。
しかし3回裏、PL打線は中山裕を捕まえて集中打を浴びせ一挙4点、あっという間に試合をひっくり返した。
さすが優勝候補同士の好勝負となる。
試合のハイライトとなったのは5回裏、PLの攻撃。
先頭打者として打席に立った清原は、中山裕渾身の内角剛速球を完璧に捉えた。
「中山君の球は手ぇ出えへんほど速かったけど、高校生活で最高の当たりでした(清原)」
「打たれて気持ち良かったというか、どこまで飛んで行くんやろ、って(中山裕)」
清原が叩いた打球はレフト・スタンド中段のやや上へ。
高校野球史上最長とも言われる、140m超特大弾である。
これが清原にとって、今夏の甲子園で初ホーマーとなった。
センバツで渡辺から3三振を食らって以来、速球対策でずっとバットを振り続けていた成果が出た一発だ。
渡辺に対して直接のリベンジはできなかったが、その渡辺に勝って甲子園に来た中山裕からこれ以上ないホームランを放ったのだから、春の借りを返したと言える。
さらに一死後、六番の桑田が放った打球は右中間ラッキーゾーンに飛び込む。
剛腕・中山裕から打ったKKアベック・ホームランにより6-2と差を広げた。
その後、桑田は1点を失ったものの、PLは6-3で難敵中の難敵・高知商を退け、準決勝に進出したのである。
高知商は三たび、PLの前に涙を飲んだ。
準決勝の相手は創立3年目の県立校、準々決勝では後のメジャー・リーガー「大魔神」こと佐々木主浩(元:横浜大洋ほか)を打ち崩し、東北(宮城)を破った初出場の甲西(滋賀)。
数々の奇跡を起こして準決勝まで勝ち進んだ「ミラクル」甲西だが、創部3年目と「戦後最強軍団」では格が違い過ぎた。
もちろん、試合前の予想ではPLが圧倒的有利。
甲西の奥村源太郎監督は「今日の相手は今までで一番楽だ。10点差以内なら、お前たちの勝ちなんだから」と選手たちに訓示を垂れていた。
しかし、試合は奥村監督の「10点差以内」をも超える試合となる。
PLは4回まで松山や内匠のホームランなどで11-0と一方的リード、そして5回には清原が今大会2本目となるホームラン(2ラン)を放ち、13-0とさらに差を広げた。
しかし、甲子園の大観衆はひたむきにプレーする「ミラクル」甲西を応援し、6回表には西岡伸剛が桑田から2ランを放ち、遂に甲西のスコアボードに「0」以外の数字を入れた。
一方、PLは5回まで毎回得点、東海大山形戦に続く2度目の毎回得点試合か、と思われたが、6回裏は甲西のエース金岡康弘が無得点に抑え、初めてPLのスコアボードに「0」を入れ、甲西のアルプス・スタンドは2-13と一方的ビハインドにもかかわらずお祭り騒ぎ。
6回表裏の1イニングだけを見ると、2-0で甲西がPLに勝っている。
ここで桑田はお役御免、リリーフのマウンドには田口権一が上がった。
PLに入学した時は桑田以上に期待されていた田口だが、夏の甲子園のマウンドに立つのはこれが初めてである(センバツでは二年時に2度、先発マウンドを経験し、1勝を挙げている)。
田口は3イニングを無失点で片付け、7回裏には清原がこの試合2本目、今大会3本目となるホームラン(2ラン)を放ち、PLは甲西を15-2で一蹴、決勝に進出した。
しかし甲子園のスタンドからは、「甲西高校1期生」の戦いぶりに大きな拍手が巻き起こった。
一年生のKKコンビが甲子園で大活躍していた頃、先輩のいない甲西の一年生たちは石ころを拾いながら野球ができるグラウンドを造っていたのである。
◎KKコンビ、有終の美
点差を見るとPLの快勝のように思えるが、7回まで3-2と接戦だったのだ。
しかも、夏の宇部商は春の段階とは別のチームになっていた。
まず、エース左腕の田上昌徳が不調のため先発を回避、控え右腕の古谷友宏が先発マウンドに立ったことと、もう一つはセンバツでは怪我で欠場していた藤井進が四番に座っていたことである。
特に藤井は、今大会では清原の3ホーマーを上回る大会新記録の4ホーマーを放っており、最も警戒すべき打者に成長していた。
しかもPLにはアクシデントが起きていた。
準決勝の甲西戦で清原が打球を右脚ふくらはぎに受け、赤く腫れあがっていたのである。
あまりの痛さに、入学以来1日も欠かさず続けていた夜の素振りを、高校生活最後の試合前夜に休むこととなった。
そして4連投となる桑田も疲労困憊、宇部商の強力打線を抑える自信がなかったのである。
桑田は清原に「なんとか3点以内に抑えるから、4点以上取ってくれ」と珍しく弱気なことを言った。
「おう、わかった。そのかわり、藤井には絶対にホームランを打たれるな」と清原は桑田に頼んだ。
1985年8月21日、5万3千人の大観衆を飲み込んだ甲子園で、いよいよKKコンビにとって高校最後の試合となる決勝戦が始まった。
2回表、宇部商は早くも桑田を攻めて、犠牲フライで1点先制。
さらに三回表、宇部商は一死満塁の大チャンスを迎える。
打者は三番の二年生、センバツでは桑田からホームランを放っている田処新二。
さらに、後ろには四番の藤井が控えている。
やはり桑田の球には、いつものキレがない。
たまらず清原がマウンドに行って、桑田に声を掛けた。
「次の打席で俺が必ず打つから楽に行け」
清原の一言で気持ちを落ち着けた桑田は、渾身の外角ストレートで田処、藤井を連続三振に斬って取り、大ピンチを切り抜けた。
ここ一番での桑田は、さすがに凄い。
もし田処か藤井、どちらかにヒットが生まれていれば、宇部商の一方的なペースになっていたかも知れない。
4回裏、先頭打者の清原は桑田との約束通り、古谷の内角速球を捉えてレフト・ラッキーゾーンへ同点ソロ・ホームラン。
これで大会4号となり、藤井の記録に並んだ。
さらに5回裏、PLは内匠の中前安打で1点を加え、2-1と逆転に成功した。
しかし6回表、宇部商は一死一塁で、四番の藤井がセンターへあわやホームランかという大三塁打を放ち、同点に追い付く。
そして、先発マウンドを奪われてレフトに入っている五番の田上がセンターへ犠牲フライ、宇部商が再逆転した。
その裏、一死無走者で打席に立つのは前打席でホームランを放った清原。
清原は古谷の真ん中高めストレートを叩く。
「さあ、映ったセンターの藤井の所に飛んだ!藤井が見上げているだけだ!ホームランか、ホームランだ!恐ろしい!両手を上げた!甲子園は清原のためにあるのか!!」
高知商戦で中山裕から放った140m弾を超える、センターのバックスクリーン横に飛び込む150mの大ホームラン。
この瞬間、打球を見上げた藤井はたった1日だけの記録保持者となった。
この試合2本目、今大会5本目の大会新記録となるホームランを清原が放ったのだ。
そして、試合自体も3-3の同点となる。
試合はそのまま膠着状態に入り、3-3のまま9回裏、PL最後の攻撃を迎えた。
桑田は清原との約束通り、藤井にはホームランを打たせずに宇部商打線を3点に抑えたのである。
次は、清原が桑田との約束通り、4点目を奪う番だ。
しかし清原”自身”は、この約束を果たせなかった。
打順が回って来なかったからである。
PL打線は古谷に抑えられて、あっさり二死無走者となった。
このままいけば延長戦、桑田のスタミナが持つかどうかわからない。
控えの小林や田口では、宇部商打線は抑えられないだろう。
逆に宇部商の古谷はこの決勝戦が初先発のため余力があり、しかもエースの田上が控えている。
宇部商の玉国光男監督にとって、控え投手の古谷がPL打線を8回まで3失点というのは嬉しい誤算だっただろう。
逆に先発を外された悔しさから田上は何度もブルペンに行ってリリーフ登板をアピールしていたが、玉国監督からお呼びはかからなかったのである。
いずれにしても、延長戦になればPLは不利、なんとしても9回裏で決着をつけたかった。
ここで二番の安本政弘が執念のポテンヒットを放つ。
二死一塁で打席に立つのはキャプテンの松山。
KKコンビが一年時から甲子園で暴れまわっていた時、松山ら同級生はアルプス・スタンドから声援を贈っていた。
いや、心からの声援ではない。
KKコンビが活躍するたびに、松山は悔しい思いをしていたのだ。
PLにやって来る選手はみんな怪童。
しかし、PLに入学すると、同学年のKKコンビとの差に愕然としてしまう。
嫉妬心が抑えられなかったのは当然だろう。
だが今は、チームのまとめ役となるキャプテン、しかも清原の前を打つ三番打者である。
カウント1-2と追い込まれたが、一塁走者の安本が二盗を敢行、セーフとなって一打サヨナラの場面となる。
俺が決めてやる!そういう力みを松山から感じ取った清原は、ネクスト・バッターズ・サークルから出て声を掛けた。
「次の回に俺が打つから、気楽に打て」
3回表、一死満塁の大ピンチで桑田に掛けた言葉とほぼ同じである。
その一言で、松山から硬さが取れた。
次の球は外角低めに外れて3-2のフルカウント。
一塁が空いたからといって、古谷は松山を歩かせるわけにはいかない。
次には清原が控えているのだ。
必ず勝負して来る!そう読んだ松山は、真ん中に入ったストレートを見逃さなかった。
松山のバットから放たれた打球はライナーとなって二塁手の頭を越えて、右中間を転々とした。
二塁から安本が還って来てホームに滑り込む。
PL得意のサヨナラ勝ちで2年ぶり3度目の優勝!
一塁を回りかけたところで松山が飛び上がってガッツポーズ。
「KKコンビのPL」と言われたチームで、最後はキャプテンの松山が試合を決めたのだ。
清原は自分で試合を決めなかったものの、桑田が3点に抑えて打線が4点取るという、試合前に2人で話していた通りの試合となった。
ホームインした安本の元には真っ先に清原が駆け付け、バットを天にかざしながら歓喜の輪の中心になっている姿が印象的だった。
輪が解けると桑田と清原は抱き合って「やっと、辿り着いたな……」と言い合った。
結局、桑田と清原は一年時から5季連続の甲子園パーフェクト出場。
同じように、荒木大輔(元:ヤクルトほか)と小沢章一の早稲田実(東京)も5季連続甲子園出場を果たしたが、早実は準優勝1回、8強2回、三回戦敗退、初戦敗退が各1回という成績。
一方、KKコンビのPLは優勝2回、準優勝2回、4強1回という、まるで漫画「ドカベン」に登場する明訓高校のような戦績である。
個人成績では、桑田が戦後最高となる甲子園通算20勝、清原は史上最高の甲子園通算13本塁打という記録を打ち立てた。
もう二度と、こんなスーパー高校生が2人もいるチームは現れないだろう。
KKコンビがいたPLが「戦後最強軍団」と謳われたのも頷ける。
だが、2年後にPLは、さらに強力なチームとなって甲子園に登場するのだった。
【つづく】
①桑田真澄 三年
②今久留主成幸 三年
③清原和博 三年
④松山秀明 三年 主将
⑤笹岡伸好 三年
⑥安本政弘 三年
⑦杉本隆雄 三年
⑧内匠政博 三年
⑨黒木泰典 三年
⑩小林克也 三年
⑪井元秀人 三年
⑫本間俊匠 三年
⑬真崎秀樹 三年
⑭田口権一 三年
⑮今岡友通 二年
1985年夏