ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

”永遠の学園”PL学園・甲子園優勝物語①~「逆転のPL」誕生編

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高さ180mのPL大平和祈念塔(大阪府富田林市)

 

2017年3月29日、高校野球の超名門校として知られるPL学園の硬式野球部が、大阪府高等学校野球連盟に対して脱退届を提出、府高野連もこれを受理して正式に脱退した(軟式野球部はそのまま加盟)。

PL学園と言えば甲子園で春3回、夏4回、計7回という2位タイの優勝回数を誇る(2017年春現在。1位は中京大中京の計11回)。

今後、部員募集再開の目途が立ったら再加盟の申請をするというが、それがいつになるかはわからない。

いずれにしても、一つの時代の幕が下りたと言えよう。

そこで今回から、PL学園が甲子園で優勝した大会の詳報を連載する。

 

★1978年夏(阪神甲子園球場
 第60回全国高等学校野球選手権記念大会

●二回戦

日川 000 000 002=2
PL 100 001 03X=5

 

●三回戦

熊本工大高 000 000 000=0
P   L 002 000 00X=2

 

●準々決勝

県岐阜商 000 000 000=0
P  L 001 000 00X=1

 

●準決勝

中京 000 101 011 000=4
PL 000 000 004 001x=5

 

●決勝

高知商 002 000 000=2
P L 000 000 003x=3

 

◎万年優勝候補

PL学園(大阪)はこの年まで、夏の甲子園で2度の準優勝を果たしていた。

日本一の練習設備を誇り、優秀な選手が集まって、歴史は浅いながらも全国屈指の強豪校にのし上がったPLに付けられたニックネームは「万年優勝候補」。

それは、恵まれた環境ながら甲子園制覇に届かないPLを揶揄した言葉だった。

 

1970年の夏は初めて甲子園の決勝に駒を進めたが、東海大相模(神奈川)との打ち合いに負けて準優勝。

2年前の1976年夏は、決勝戦桜美林西東京)に延長11回の激闘の末に3-4でサヨナラ負け、またもや準優勝に甘んじた。

この試合では終盤までリードしながら7回裏、同点に追い付かれ、延長戦で敗れたのである。

この頃のPLは、どちらかというと「実力はありながら勝負弱い」というイメージだった。

 

1974年からPLの監督に就任したのは、南海ホークス(現:福岡ソフトバンク・ホークス)の名監督と言われた鶴岡一人の息子である鶴岡泰(現姓:山本)。

高校球界きっての”サラブレッド監督”の鶴岡監督は、PLを押しも押されもせぬ強豪校に押し上げたが、心技体のうち「心」がまだ欠けていたのかも知れない。

 

◎大阪大会前にPLを襲ったエースの故障

2年前の準優勝から、悲願の甲子園初優勝を目指したこの年、春のセンバツでPLはベスト8に進出、夏の大阪大会でも当然のことながら優勝候補に挙げられていた。

しかし、エースの西田真次(現:真二。元:広島)が利き腕の左腕を故障、”PL株”は大暴落したのである。

 

西田はセンバツ3試合で僅か3失点、しかも自らホームランを放つという、文字通りの大黒柱だった。

控え投手に、卒業後プロ入りする金石昭人(元:広島ほか)がいたが、プロ入りは伯父の400勝投手・金田正一(元:国鉄ほか)の弟である金田留広(元:東映ほか)のコネ入団のようなもので、実際には西田が1人でPLのマウンドを守っていたのだ。

金石は自著で、

「僕は練習の時でさえ、正捕手で主将だった木戸克彦(元:阪神)に球を受けてもらえない程度の投手だった」

と語っている。

そんな選手がプロ入り後は一流投手になるのだから、PLの選手層は当時から相当厚かったと言える。

それはともかく、西田不在のため誰もがPLの甲子園出場は無理だろうと思った。

 

しかし、大阪大会前に西田の左腕は奇跡的に完治した。

原因不明の左肩痛が、原因不明で回復したのである。

プロ入り後、西田は「今までで一番嬉しかったことは?」という質問に対して「甲子園で優勝したことよりも、左肩が治って再び背番号1を背負い、マウンドに立てたこと」と答えている。

西田は法政大学進学後、打者に転向したが、プロ入り後は勝負強い打者として定評があった。

PL時代に、一度地獄を体験したことが勝負強さを生んだのだろう。

 

西田が復活したPLは、夏の大阪大会では最大のライバルと見られていたセンバツ出場校の浪商(現:大体大浪商)が早い段階で敗退するという幸運もあって、危なげなく春夏連続甲子園出場を決めたのである。

 

◎「奇跡のPL」へのプロローグ

夏の甲子園に出場したPLは二回戦から登場、日川(山梨)を5-2で一蹴した。

三回戦は西田が2ランを放ち、その2点を守って熊本工大高(熊本)を完封、2-0で勝って8強に進出した。

準々決勝では県岐阜商(岐阜)に大苦戦を強いられるも1-0で西田が2試合連続完封、打線が湿りがちながらも西田の素晴らしいピッチングで4強に駒を進めた。

 

そして準決勝、相手は高校球界№1の名門、今大会でも優勝候補筆頭の中京(現:中京大中京、愛知)である。

中京打線は今大会絶好調の西田を捉え、9回までに4点を奪った。

逆に不調のPL打線は中京エースの武藤哲裕にキリキリ舞い、1点も取れずに0-4と4点ビハインドのまま、9回裏の最後の攻撃を迎える。

 

先頭打者は四番の西田。

この時、球審の西大立目永(にしおおたちめ・ひさし)は、嫌な予感がしたという。

PLの試合は、どんな点差でも不思議と客が席を立たない、と。

つまり、このクソ暑い中、PLが反撃して試合が長引くんじゃないか、という意味での「嫌な予感」だった。

かくいう筆者も、この試合で甲子園のスタンドにいた1人だ。

もちろん、席は立たなかった。

ちなみに筆者は、PL学園のある富田林市出身である。

 

バッター・ボックスに向かう西田に、西大立目は声をかけた。

「どうせ負けるんだから、待球なんかせずに初球から思い切り打て」。

審判としてはあるまじき行為だとも思えるが、西大立目は待球作戦などを嫌った。

野球とは、積極的に打っていくスポーツだ、というのが西大立目の信念だったのである。

 

そんな西大立目に従ったのか、あるいは最初からそのつもりだったのか、西田は初球を思い切り叩いた。

打球はあっという間に一塁線を抜け、西田はトップ・スピードのまま塁間を駆け抜けて一気に三塁へ。

PL、無死三塁のチャンス!

点差はまだ4点、遅きに失した感はあったが、この三塁打が反撃の狼煙となった。

いや、あるいは西大立目の一言が、進軍ラッパとなったのかも知れない。

そして、試合は西大立目が感じた「嫌な予感」どおりに進んでいく――。

 

五番の柳川明弘が放った打球はレフト・オーバーの二塁打となり西田が生還、ようやく1点を返してなおも無死二塁。

この時、甲子園から暖かい拍手が起こった。

よく1点返したな、これでいい思い出になるだろう、と。

この時はまだ、甲子園の観客は誰もが、この試合がPL伝説の始まりになるとは夢にも思ってなかったのだ。

 

しかし一死後、七番の戎繁利の中前打で2点目、さらに八番の山西徹が左前打を放って一死一、二塁と攻め立てると、甲子園のマンモス・スタンドがざわめき始めた。

慌てた中京ベンチはエースの武藤を一塁に下げ、一塁手の黒木光男をマウンドに送る。

しかし、これが中京にとって仇となった。

 

九番の中村博光は一死ながらバントで送り、二死二、三塁で同点のランナーがスコアリング・ポジションに進んだ。

打順はトップに返り谷松浩之(元:ヤクルト)は四球を選んで二死満塁、続く二番の渡辺勝男にも黒木は制球が定まらず3ボール0ストライク。

もはや大観衆は、2点ビハインドながらPLの逆転ムードとなり、異様な雰囲気となった。

たまらず中京ベンチはエース武藤をマウンドに戻し、なんとか3ボール2ストライクまで持ち込んだ。

結論から言えば、これも中京にとって凶と出る。

 

次の球、渡辺が放った打球は二遊間へ。

セカンドがなんとか捕って、二塁カバーに入ったショートにトスしたが間一髪セーフ、一塁に転送したがこちらもセーフとなる。

この間に三塁走者がホームを駆け抜け、しかも二塁走者までが生還した。

PL、9回裏に一挙4点、奇跡の同点劇!

 

二死満塁でボール・カウントが3-2だったため、全ての走者が一斉にスタートしていたのだ。

もしそうでなければ二塁封殺で試合終了だったかも知れないし、セーフだったとしても少なくとも二塁走者までは生還できなかっただろう。

全ての運命が、PL同点劇へ向かっていたのだ。

 

その後は中京がなんとか抑えて延長戦に突入したが、もはや甲子園はPLの逆転勝ちムード一色に染まっていた。

そして延長12回裏でPLの攻撃、二死一、二塁で五番の柳川が放った打球はサードゴロ。

サードが難なく捕って一塁送球、3アウト・チェンジと思ったら、ファーストの黒木が落球、二死満塁でPLサヨナラのチャンスとなった。

そして六番の荒木靖信がボールをしっかりと見極め、ストレートの押し出し四球。

遂にPLが4点差をひっくり返し、延長12回の大激闘の末、5-4で奇跡のサヨナラ勝ちを収めたのである。

もはや甲子園は、かつてないほど興奮の坩堝と化していた。

 

試合終了後、PLの鶴岡監督は、

「こんな試合、一生に一度味わえただけでも幸せだ」

と語った。

だがこの試合は、これから長く続く伝説の序曲に過ぎなかったのである。

2日続けて奇跡が起こるとは、誰も想像できなかっただろう。

 

◎甦った不死鳥PL学園

決勝に進んだPLの相手は「黒潮打線」を誇る名門・高知商(高知)。

エースは二年生左腕の森浩二(元:阪急)という、PLの西田とのサウスポー対決である。

試合ごとに純白のユニフォームで挑むPLに対し、高知商はゲンを担いだのか大会中は一度も洗濯をせずに、甲子園の土で汚れたままの真っ黒なユニフォームで登場した。

PLの白と高知商の黒とのコントラストが印象に残る決勝戦となった。

 

私事で恐縮だが、この日の筆者は町内の子供ソフトボール大会に出場するため、決勝戦は見られないはずだった。

しかし試合前、簡易バックネットのロープに足を引っ掛けてこけてしまい、アゴを思い切り地面に打ち付けたのである。

グラウンドに大量の血が流れ、救急車を呼ぶほどではなかったものの、すぐに車で病院に運ばれた。

病院でアゴを何針か縫い(たしか9針だったと記憶している)、なんとか午後には帰宅できたが、今でもアゴには、その時の傷跡が残っている。

しかし、アゴは痛かったものの、内心は嬉しかった。

なにしろ心置きなく、決勝戦を見られるのだから。

そして、世紀のドラマを生放送で見ることができたのだから、PLのみならず筆者にも奇跡が起こったのだった。

 

さて、試合の主導権を握ったのは高知商

3回表、高知商は二死満塁から四番・青木悟の左前打で2点先制した。

高知商のサウスポー森は、右-左ー右ー左とジグザグに組んだPL打線を完璧に抑えていく。

試合はその後、両軍とも甲子園の手書きスコアボードに0を並べ、2-0で高知商リードのまま、あっという間に9回裏のPL最後の攻撃を迎えた。

 

この時、真紅の大優勝旗は大阪湾を越えて四国に上陸し、高知の上空を飛んでいた。

あとは、はりまや橋に着地するだけである。

ところが、台風13号が四国沖に接近していたのだ。

台風はそのまま近畿地方へ針路を取り、9回裏になると青かった甲子園の空を黒い雲が覆い、強風が真紅の大旗を大阪へ押し戻そうとしていたのである。

 

9回裏の先頭打者は九番の中村。

中村は森の初球を叩き、センター前ヒットとなった。

この日の西大立目は一塁塁審で、当然のことながら中村には声を掛けることはなかったが、前日の西田に続く初球攻撃である。

この積極性が奇跡を呼び込んだのだろう。

 

続く一番の谷松を迎え、それまで淡々と投げていた森のリズムが急におかしくなってきた。

谷松にストレートの四球を与えてしまったのである。

森の脳裏には、前日の大逆転劇がよぎったに違いない。

 

無死一、二塁と同点の走者を出して、続く二番の渡辺は送りバント

高知商はなんとかアウトを取ったものの、内野陣の動きはコチコチで、危うくセーフになるところだった。

一死二、三塁と一打同点のチャンス、甲子園の大観衆は2日続けてのPL大逆転劇なるか?と、騒然とした雰囲気となった。

 

ここで三番の主将・木戸がセンターへ犠牲フライを打ち上げて1点差。

しかし、高知商にとってはアウト・カウントを1つ増やしたわけで、2アウトまでこぎ着けた。

あと1アウト奪えば高知商が悲願の甲子園初優勝である。

真紅の大優勝旗は、淡路島の辺りで高知へ行くか大阪に行くか、迷っているようだった。

 

得点は1-2、PL1点ビハインドの9回裏二死二塁で、打席に立つのはエースで四番の西田。

西田は笑みさえ浮かべながらバッター・ボックスに入った。

アウトになれば全てが水泡と化す、絶体絶命のピンチなのに、なんという自信だろう。

ボール・カウント1-1となった3球目、高めのクソボールを西田は思い切り振った。

もちろん空振りで、カウント1ボール2ストライクと追い込まれる。

それでもまだ、西田の表情には余裕があった。

試合後、この空振りに関して西田は、

「意識して振ったんです。一度、思い切りバットを振ってみたかった」

と語った。

勝戦の土壇場で、自分の欲望そのままに、わざと空振りしたのである。

 

そしてカウント1-2からの4球目、甘く入ったカーブを西田のバットが捉えた。

鋭い打球が一塁線を破り、一塁塁審の西大立目はフェアのゼスチャー、ボールはそのままラッキーゾーンに飛び込むエンタイトル2ベースとなった。

二塁走者の谷松がホームイン、PLが遂に2-2の同点に追い付く。

一度はマウンドを諦め、地獄を見た経験が、西田の強心臓を生んだのか。

2日続けての9回裏の同点劇に、甲子園は爆発しそうになった。

 

同点の二死二塁で、打者は五番の柳川。

この時点で、甲子園のマンモス・スタンドを埋め尽くした5万8千人の大観衆は、誰もがPLの逆転勝利を確信していただろう。

カウント0-1からの2球目、高めのストレートを叩いた柳川の打球は、レフトの遥か頭上を越えた。

二塁走者の西田が、バンザイしながらホームを駆け抜ける。

 

「戦いは終わった!甲子園の夏は終わった!3対2、PL学園初優勝!青春のドラマは今、終わりました!まさにPL、奇跡の逆転!サイレン鳴って、もう戦いはありません!」

朝日放送(ABC)アナウンサーの植草貞夫が、テレビで絶叫した。

 

「ああ PL PL 永遠(とわ)の学園 永遠の学園」

今大会、5度目となるPLの校歌が甲子園に流れた時、ホーム・プレート上に整列したPLナインは、全員が目を強く閉じながら校歌を歌っていた。

溢れる涙を止めようと、必死に瞼を瞑っていたのである。

 

翌日の新聞は「奇跡は二度起きた!」「甦った不死鳥PL学園!」と書き立てた。

準決勝は4点ビハインド、決勝では2点ビハインドを跳ね返し、2試合連続のサヨナラで逆転勝ちしたのである。

この大会から「逆転のPL」伝説が始まった。

 

PLは翌春のセンバツにも出場、一回戦で中京商(現:中京、岐阜)に6-4、二回戦では宇都宮商(栃木)に4点差を跳ね返し延長10回の末8-6で勝って、甲子園で4試合連続の逆転勝ちとなった。

かくしてPLは「PL GAKUEN」の二段ユニフォームと共に「逆転のPL」として他校から恐れられる存在となったのである。

 

【つづく】

 

①西田真次  三年
木戸克彦  三年 主将
③渡辺勝男  二年
④中村博光  三年
⑤戎 繁利  三年
⑥山西 徹  三年
⑦荒木靖信  三年
⑧谷松浩之  三年
⑨柳川明弘  三年
金石昭人  三年
⑪山本英樹  三年
⑫竹中暢啓  二年
⑬山中 潔  二年
⑭阿部慶二  二年
⑮小野忠史  二年

 

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