ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

”永遠の学園”PL学園・甲子園優勝物語⑦~鉄壁の春夏連覇編

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毎年8月1日に行われるPL花火芸術(大阪府富田林市)

 

★1987年夏(阪神甲子園球場
 第69回全国高等学校野球選手権大会

●一回戦

中央 000 020 000=2
PL 100 001 05x=7

 

●二回戦

九州学院 000 002 000=2
P  L 222 000 10x=7

 

●三回戦

高岡商 000 000 000=0
P L 300 010 00x=4

 

●準々決勝

習志野 000 100 000=1
P L 200 011 00x=4

 

●準決勝

PL 231 200 202=12
帝京 000 210 020=5

 

●決勝

P  L 110 200 001=5
常総学院 000 000 110=2

 

センバツ制覇で自信を付ける

桑田真澄(元:巨人ほか)、清原和博(元:西武ほか)という、いわゆるKKコンビが抜けた翌年はセンバツ初戦敗退、夏の甲子園は不出場となり、暗雲が立ち込めたPL学園(大阪)。

しかし2年後の1987年に春のセンバツで優勝し、PLは再び高校野球の頂点に返り咲いた。

特にこのチームは、秋季大阪大会で3位、近畿大会では準決勝敗退と決して下馬評は高くなかっただけに、センバツ優勝ですっかり自信を付けたのである。

 

春季大阪大会では、センバツで腰を痛めていたエース左腕の野村弘(現:弘樹。元:大洋・横浜)を休ませて、センバツではリリーフ・エースとして活躍した右腕技巧派の岩崎充宏を中心とした投手陣で勝ち進み、優勝。

続く近畿大会でも、圧倒的な強さを発揮して近畿王者となったのである。

 

打線では、センバツ二塁打を量産し、打撃開眼した片岡篤史(元:日本ハムほか)が四番に上がってきた。

筆者は、片岡の中学時代を知っている人から聞いたことがあるが、その頃はハッキリ言って大した選手ではなかったらしい。

センバツでも下位の七、八番を打っていた。

 

センバツまで四番に座っていたのは深瀬猛

前年夏の甲子園では二年生ながら浦和学院(埼玉)の主砲として活躍していた鈴木健(元:西武ほか)と並び称され、「左(東)の鈴木健、右(西)の深瀬」と呼ばれるほど、深瀬はプロ注目の長距離砲だった。

その深瀬を押しのけて四番の座を奪ったのだから、片岡の急成長ぶりがわかるだろう。

なにしろ片岡は、PL卒業後は同志社大を経てプロ入り、日本ハム・ファイターズ(現:北海道日本ハム・ファイターズ)が誇ったビッグバン打線の中軸を担うようになるのだから。

もっとも、キャプテンだった立浪和義(元:中日)は後に「アッちゃん(片岡のこと)が四番やねんから、全然強力打線とちゃうやん」と憎まれ口を叩いていたが……。

 

しかし、片岡が四番に入ることによって、立浪―片岡―深瀬という左・左・右のクリーンアップ・トリオが完成、センバツでは五番を打っていたピッチャーの野村を七番に下げて、打線は厚みを増した。

さらに投手陣は野村の腰痛が癒えて、岩崎は春季大会で経験を積み、右腕本格派・橋本清(元:巨人ほか)の剛速球もますます冴えてきた。

近畿大会に優勝したからと言って大阪ではシード校制度はないのだが、夏の大阪大会ではもちろんダントツの優勝候補に挙げられていたのである。

 

◎苦しんだ夏の大阪大会

だが、日本一のレベルを誇る大阪は、そう甘くなかった。

四回戦では、強豪の上宮に先発の野村が捕まり、2回で3点を失ってKO。

しかし、片岡や深瀬のホームランなどで逆転に成功、投手は橋本―岩崎と繋ぎ、8-5で上宮をなんとか振り切った。

 

準決勝は公立校の桜宮。

今度は好調だった打線が苦しみ、苦戦するも3-0でなんとか桜宮を下す。

朗報だったのは、野村が9回完投、さらに完封したことだった。

8月1日のこの日、PL学園がある大阪府富田林市では教祖祭PL花火芸術(トップ写真参照)が開催された。

毎年恒例の行事とはいえ、まるで甲子園出場の前祝いのようだった。

ちなみに夏の甲子園不出場の年は、硬式野球部員は花火終了後の清掃を強いられる。

筆者はこのアルバイトをしたことがあるが、バイト料は一晩1万円で(夜食付き)、その仕事をPL野球部員はタダ働きさせられるのである。

 

決勝の相手は「打倒PL」に燃える近大付。

近大付は後年に甲子園制覇を果たすことになるが、この頃は常に大阪大会の上位に食い込むも、あと一歩のところでいつも甲子園出場を逃していた。

その大きな壁となっていたのがPLだったのである。

特に1983年には秋季近畿大会で準決勝に進出し、翌春のセンバツ出場は当確と思われていたものの、KKコンビのPLに2度続けて2ケタ失点の大敗が問題となり「投手力が弱すぎる」ということでセンバツ出場はならなかった。

だから、近大付の合言葉は「甲子園に出よう」ではなく「PLに勝とう」だったのである。

その執念が近大付のエース・門脇太に乗り移った。

PLの強力打線を0点に抑えていく。

一方のPL先発の野村も好投、0-0のまま遂に9回裏、PL最後の攻撃となった。

ここでPL打線は集中力を見せ、一死から三連打で一死満塁とした。

打者の野村が放った打球はセンター前へ。

PL得意のサヨナラ・ゲームで甲子園行きを決めた。

甲子園を含む今夏の大会で、PLが最も苦しんだのがこの近大付戦である。

そのため、この年の近大付は「幻の全国2位校」と呼ばれた。

 

◎春とは対照的な戦いぶり

夏の甲子園にやって来たPL、もちろん春の大会前とは違い優勝候補の大本命だった。

その象徴的な存在だったのが、春は腰痛で苦しんだエース野村である。

大阪大会の準決勝と決勝では2日続けての完封勝利、完全復活を遂げていた。

大会の焦点はただ一つ、PLの春夏連覇を阻む高校はどこか、である。

 

この大会は、好投手が目白押しだった。

大会№1の剛腕と噂された尽誠学園伊良部秀輝(元:ロッテほか)、伊良部と並ぶ速球派と言われていた佐賀工(佐賀)の江口孝義(元:ダイエー)、1年夏から甲子園のマウンドに立っている沖縄水産(沖縄)の上原晃(元:中日ほか)、総合力№1・東亜学園西東京)の川島堅(元:広島)、北の鉄腕・函館有斗(現:函館大有斗南北海道)の盛田幸妃(元:大洋ほか)など。

だが、PLの野村、橋本、岩崎の投手陣は、彼らに全く引けを取らなかった。

実際に、野村と橋本は高校卒業後にプロ入りし、岩崎はプロ入りしなかったものの常にプロから狙われる存在だったのだ。

全国的にも10本の指に入る投手が、PLには3人もいたわけである。

 

PLは大会初日から登場、中央(現:中央中等、群馬)と対戦した。

中央は初出場の県立校ながら、監督は1978年春のセンバツで甲子園史上初の完全試合を達成した松本稔ということで注目を集めていたが、下馬評では圧倒的にPLが上。

だがPLは初回にいきなり1点を先制したものの、5回表に野村が捕まり、2点を奪われて逆転された。

PLは6回裏に1点を返して同点に追い付くが、楽勝の予想が大きく外れて大苦戦。

しかし8回裏、一死満塁からセンバツでラッキー・ボーイだった六番・長谷川将樹の右前打で勝ち越すと、七番・野村の三塁打など打線が爆発し一挙5点、守りでも6回以降はリリーフ登板の橋本がキッチリ締めて、7-2で善戦の中央を退けたのである。

野村の不調は誤算だったが、腰痛が治ったことで野村が降板しても春と違ってそのまま外野守備に就くことができ、打線の厚みが変わらなくなったことは大きな成果だった。

試合後、PLの中村順司監督は逆転された場面について「選手を信頼するしかなかった」と語っている。

 

ノーマークの中央に苦戦したことで、PLは一皮むけた。

二回戦の相手は強豪の九州学院(熊本)。

PLは初回、立浪の2ランで2点先制。

2回裏には今夏から一番打者となった、センバツでホームランを放っている尾崎晃久の2ランで4-0と突き放す。

さらに3回裏には右の長距離砲・五番の深瀬が甲子園初ホーマーとなる2ラン。

なんと、初回から3イニング連続2ランでPLが6-0と圧倒的優位に立つ。

PL先発の野村が6回表に2点を失うとすぐさま岩崎にスイッチ、九州学院打線の火を消し止めて、結局はPLが7-2で九州学院を一蹴した。

 

三回戦は北陸の名門・高岡商(富山)と対戦。

初回、PLは五番の深瀬がレフトのポール際へ2試合連続ホームランとなる3ランを放って3点先制。

さらに5回裏には深瀬が今度は流し打ち、右翼線タイムリ二塁打で4-0とリードを広げる。

PL先発の野村は内角速球で高岡商を7回まで無失点に抑えるが、8回表には先頭打者に三塁打を許し、無死三塁の大ピンチ。

ここでPLの中村監督は伝令を送り、「1点取られたら橋本に交代」と野村に告げた。

この通告に野村は発奮、この回を無失点で切り抜け、終わってみれば甲子園初完投、初完封のオマケまで付き、4-0で高岡商を破ってベスト8に駒を進めたのである。

野村のみならず、この年のPLにとって、センバツを含めて甲子園で初めての完投投手となった。

 

準々決勝の相手は、夏の甲子園2度の優勝を誇る公立校の星・習志野(千葉)。

習志野は三回戦で大会屈指の剛腕・佐賀工の江口を3回KOし、12-4で大勝している。

その「速球に強い」習志野打線に対し、PLの中村監督は江口と並ぶ速球派・橋本を先発マウンドに送った。

「投げたくてウズウズしているのがわかった(中村監督)」という甲子園初先発の橋本は、初回から豪快に飛ばした。

一番打者の城友博(元:ヤクルトほか)から3者連続三振のスタート。

その裏、PL打線は習志野のエース綿貫健一の立ち上がりを捉え、いずれも左中間を破る立浪の三塁打と片岡の二塁打で2点先制、左打者の流し打ちがアンダースローを攻略した。

5回裏には、捕手ながらこの試合から二番に上がった好調・伊藤敬司二塁打を足掛かりに1点追加、6回裏にも伊藤のタイムリーで4点目を奪う。

橋本は4回表に1点を失ったものの、11奪三振の力投で甲子園初完投を飾った。

この試合のヒーローは完投勝利の橋本と、女房役の捕手・伊藤のバッテリー。

「PL唯一の弱点は捕手の肩」と言われながら、ベース一周14秒0の城をはじめ、過去3試合で12盗塁と走りまくった習志野を相手に1盗塁を許したものの、1人は刺した。

あまり盗塁を仕掛けなかった習志野について、伊藤は「僕の強肩に恐れをなして走って来なかったのでしょう」といたずらっぽく笑った。

センバツでは打撃不振だったうえにサインの見逃しがあったため、決勝戦は控え捕手の松下仁彦にマスクを譲ったが、夏にその失敗を取り返したと言える。

父親読売ジャイアンツの辣腕スカウトだった伊藤菊雄。

伊藤はPL卒業後も大学、社会人で野球を続けていたが2015年、父の菊雄が亡くなった2ヵ月後に筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病により死去。

46歳という若さだった。

 

◎芝草攻略の秘訣

準決勝は、センバツ準々決勝で延長11回サヨナラ勝ちした帝京(東東京)との対戦。

春の雪辱に燃える帝京のエース芝草宇宙(元:日本ハムほか)は二回戦の東北(宮城)戦でノーヒット・ノーランを達成、準々決勝まで3試合連続完封と調子を上げてきている。

この二都決戦が事実上の決勝戦と言われていた。

 

さらに、PLには一抹の不安があった。

これまでファースト片岡、サード深瀬だったのが、この試合ではファースト深瀬、サード片岡と守備変更を行っていた。

実は準々決勝の習志野戦で、一塁走者の深瀬が牽制球で帰塁した時に右肩を脱臼してしまったのである。

だが深瀬は準決勝も五番打者として強行出場、とはいえ一塁送球もままならなかったのでファーストに就いたのだった。

 

1回表、PLは二番の伊藤が右中間へ三塁打を放ち、一死三塁のチャンスで打席には三番のキャプテン立浪。

立浪は甘く入ったカーブを狙い打ち、今大会2号となるライトへの2ランにより、PLが2点先制した。

この試合で中村監督が出した指示は「打順が奇数の打者は変化球、偶数打者はストレートを狙え」という、相手投手に狙い球をわからせない作戦だった。

2回表、さらにPL打線は芝草に襲い掛かり、二死無走者から5連打で一挙3点、芝草をKOし5-0と試合を有利に進める。

3回表には右腕を使えない五番の深瀬が左腕一本でライト前ヒット、七番・長谷川の左越え二塁打で1点追加、そして4回表にも深瀬がスクイズを決めて8-0の一方的リードとなった。

ただし、今秋のドラフト上位指名確実と言われていた深瀬は脱臼のためプロ入りは断念、大学および社会人で野球を続けるも右肩に脱臼癖が付いてしまい、右打者では大会№1の長距離砲もプロ入りすることはなかった。

 

PL先発の野村は4回裏に2点、5回裏に1点を失い橋本と交代。

野村は完投できなかった悔しさをバットにぶつけ、7回表には右中間へ甲子園初ホーマーとなる2ランを叩き込み、強打者ぶりを見せ付けた。

橋本は8回裏にランニング・ホームランを浴びて2点を失うも、大量リードに守られてゆうゆう交代完了。

結局、PLは12-5の完勝で難敵中の難敵・帝京を返り討ちにした。

 

◎因縁の監督対決

勝戦の相手は初出場の新興校・常総学院(茨城)。

常総学院は今春のセンバツにも初出場しているが、実は補欠校で東海大浦安(千葉)の出場辞退による代替出場であり、明石(兵庫)に0-4と全くいいところがなく初戦敗退している。

夏の甲子園でもほとんどノーマークだったが、エースの島田直也(元:日本ハムほか)を中心にあれよあれよと勝ち上がり、遂に決勝まで進出してきた。

しかも、決して相手に恵まれたわけではなく、二回戦では上原を擁する沖縄水産を7-0、三回戦では剛腕・伊良部の尽誠学園を6-0といずれも完勝、準々決勝では名門・中京(現:中京大中京、愛知)に7-4で逆転勝ち、準決勝では大会№1投手の川島を擁する東亜学園に延長10回の末サヨナラ勝ちしての、堂々たる決勝戦進出。

その原動力となったのが、朴訥とした茨城弁で有名だった木内幸男監督である。

 

3年前の1984年夏の甲子園、KKコンビ二年時のPLは決勝に進出し、県立の取手二(茨城)と対戦した。

試合前の予想ではPL有利だったが、延長10回の末に取手二が8-4でPLを下したのである。

その時の、取手二の監督だったのが木内だった。

取手二はノビノビ野球で絶対王者のPLを翻弄、その手腕は「木内マジック」と呼ばれた。

だが、取手二を甲子園初制覇させた直後に「公立校では強力チームを毎年作ることは困難」と新設校の常総学院に転校したのである。

自らを「プロの高校野球監督」と呼び、その野球理論はプロ野球の指導者でも敵わないと言われ、この試合で一年生ながら三番打者の重責を担った仁志敏久(元:巨人ほか)は「プロ、社会人、大学を含めて、木内監督以上に野球を知っている人はいなかった」と語っている。

「戦略の知将」木内監督と、3年前のリベンジを図る「奇策を好まない技術屋」中村監督との、監督対決も注目された。

 

PLは、右肩脱臼の深瀬が遂にスタメンを外れ、代わってサードに入ったのが二年生の宮本慎也(元:ヤクルト)。

1回表、PLは二死一、三塁のチャンスで、この日は深瀬欠場で五番に上がって来た長谷川。

センバツで勝負強い打者に変身した長谷川は中前打を放ち1点先制。

さらに2回表には、深瀬の代役・宮本の三塁打をきっかけに1点追加、そして4回表に夏は九番に下がっていた蔵本新太郎三塁打と一番・尾崎の犠牲フライで4-0とリードを広げる。

 

PLの先発・野村は安打を許すも要所を締め、6回まで無失点ピッチング。

しかし7回裏、尾崎の悪送球により1点を失うと降板、リリーフに出て来たのは橋本ではなく、二回戦以来の登板となる岩崎。

常総打線は上原や伊良部といった剛球投手を打ち崩しており、橋本のような速球には強いと判断したのだろう。

岩崎は後続を断ち、8回裏には1点を失うものの、4-2で2点リードのまま最終回を迎えた。

 

9回表、またもや長谷川の中前適時打で1点を加えたPLは3点リードで優勝に保険を掛けた。

9回裏、常総学院最後の攻撃で、マウンドに立つのは「第三の投手」岩崎。

粘る常総学院は一年生・仁志のバント・ヒットなどで無死一、二塁のチャンスを作る。

「最後はお前に投げさせる」と中村監督は野村に言っていたがそのまま岩崎が続投、四番、五番を連続三振に打ち取った。

そして最後の打者はショート・ゴロ、キャプテン立浪が捕って二塁の尾崎にトス、5-2で常総学院を破った。

PL学園、遂に史上4校目となる春夏連覇の偉業を達成!(2017年春現在では計7校)

 

この試合のヒーローは深瀬の代わりに五番打者となった長谷川であり、深瀬の代役でこれまでほとんど出番がなかった二年生の宮本であり、胴上げ投手となったのは登板機会が少なかった岩崎だった。

「それまではほとんど投げてなかったのに、一番オイシイところを持って行ってしまって……」と岩崎は照れていたが、脇役が活躍した夏の決勝戦こそが、この年のPLを象徴していたと言える。

 

キャプテンの立浪は「僕たちの代の三年生は春と夏、どちらかの優勝メダルを全員が持っている。それが一番嬉しい」と語っていた。

春夏連覇を達成したPL学園の33期生は17名が全員、春と夏の甲子園でどちらかに必ずベンチ入りしているのだ。

しかも全員が、何らかの形で試合に出ているのである。

春のセンバツではベンチ入りメンバーから漏れた中西聡は、夏の甲子園では6試合中4試合にレフトとして先発出場していた。

やはり春にはベンチ入りしていなかった住野弘亘は、33期生の中では珍しい近畿以外(香川)の出身で、夏の甲子園では九州学院戦で代打出場、1打数1安打と10割の打率を残している。

逆に、センバツ決勝では先発マスクを被り「優勝キャッチャー」となった松下は、夏の大阪大会直前で盲腸になってしまい、夏はベンチ入りから外れた。

同じくセンバツではレフトのレギュラー、セカンドも経験した西本篤史も、大阪大会決勝で右手人差し指を負傷し、夏の甲子園を諦めている。

成松紀彦センバツでは代打と代走で2試合に出場、死球を浴びただけで打数は無し、夏は大阪大会からメンバーを外れた。

センバツでは代走のみで1試合に出場した吉本守も夏の大阪大会でベンチ入りから外れ、甲子園に出場しない選手を集めた在日韓国人チームのキャプテンに就任し、夏休みには韓国に遠征して「韓国版・夏の甲子園」こと鳳凰大旗全国高等学校野球大会に出場している。

残念だったのは、二年夏に急死した南雄介が甲子園の土を踏めなかったことだ。

 

夏の甲子園の閉会式後、ベンチ入りした15人のメンバーは深紅の大優勝旗を持った立浪主将を先頭に、優勝行進で甲子園を一周した。

センバツには出場しながら、夏の甲子園ではベンチ入りから外れた三年生たちがいる一塁側のアルプス・スタンドでは、PLにとって初めてとなる「春夏V」の人文字が躍った。

 

◎KK世代と連覇世代、どっちが強い?

苦戦続きだった春と違い、夏のPLは盤石の優勝だった。

6試合でリードを奪われたのは中央戦の1試合、しかも1イニングだけ。

さらに6試合全てで初回に点を奪うという、常に先手を取る楽な試合運び。

エース級3人を持つ贅沢な投手陣、上位から下位まで全くムラが無く一発あり小技ありの打線、水も漏らさぬ堅い守備は「総合力野球」「鉄壁野球」と呼ばれた。

春は「逆転のPL」を再現する粘りの野球、夏は選手層の厚さを利し安定した強さを見せ付けた野球。

 

ここで疑問となるのが「桑田、清原のKK世代と春夏連覇世代、どちらが強いのか?」ということだ。

キャプテンの立浪らは口を揃えてこう言う。

「僕らの世代は全然大したことない。そりゃ桑田さんや清原さんらの方がずっと強いですよ」

一方の清原はどうか。

「10試合すれば6勝4敗でアイツらが勝ち越すやろ。でも、甲子園での一発勝負やったら俺らが勝つ」

中村監督はこう答える。

「そんなこと、監督の私からはよう言いません。でも、どうしても答えろと言うのなら……。ここは先輩を立てて桑田、清原らということにしときましょか」

 

プロ(NPB)入りの人数で言えば、KK世代は桑田、清原、松山秀明内匠政博今久留主成幸の5人。

一方の連覇世代は野村、橋本、立浪、片岡の4人(二年生の宮本は除く)でKK世代の勝ち。

ただ、連覇世代では深瀬が右肩脱臼さえなければプロ入りは間違いなかったと思われ、さらに岩崎もプロ入り寸前まで行っていた。

KK世代では、前述の5人の他にプロ入りの可能性があったのは、将来性を買って身長192cmの控え投手・田口権一ぐらいではないか。

しかも、連覇世代の4人は全員がプロで活躍したが、KK世代で実績を残したのは桑田と清原の2人だけだった。

 

桑田真澄実弟で連覇世代の桑田泉は中学時代、エースで四番として活躍し「兄の真澄より上ではないか」と言われて鳴り物入りでPLに入学した。

その桑田泉が入学直後のインタビューで「投げる方では橋本、打つ方では深瀬が凄いんです」と、自分の実力は一年生の中でも全然、と答えていた。

実際、桑田泉は怪我もあって実力を発揮することはできず野手に転向、三年時に外野の控えとしてベンチ入りするも、春夏の甲子園での先発出場は3試合に留まった。

つまり、連覇世代にもKK世代に決して劣らない選手が集まっていたのである。

ただそれでも、KK世代が三年生となった1985年、一年生だった連覇世代でベンチ入りした選手は1人もいなかった。

さすがにそこは「戦後最強」と謳われたKK世代の実力が圧倒的だったということか。

 

KK世代の特徴は、良くも悪くも桑田、清原の2人が抜きん出ていたことだ。

もちろん、他のメンバーも実力者が揃っていたが、KKがマークされると途端に機能しなくなる。

その典型となったのが1985年春のセンバツ準決勝、伊野商(高知)戦だ。

清原は伊野商エースの渡辺智男(元:西武ほか)に3三振と完璧に抑え込まれ、桑田も伊野商打線に捕まり、1-3で苦杯を舐めた。

KK世代は、勝つ時には同年夏の東海大山形(山形)戦のように29-7という豪快な勝ち方をするが、反面もろさも併せ持つ。

 

一方の連覇世代は、春にはチーム力が完成してなかったものの伝統の粘りで優勝し、夏は完璧なチームとなって連覇を果たした。

投手陣は、野村が打たれたら橋本、それがヤバいとなると岩崎をすぐに投入するという、タイプの異なる3投手を揃えている。

打線では、立浪がダメでも片岡がおり、片岡がダメなら深瀬、3人ともダメなら脇役がカバーするという選手層の厚さを見せ付けた。

特に夏の連覇世代は、KK世代にはなかった安定した戦いぶりだったのである。

 

「立浪らのチームは、私は何も指示する必要はなかった。私が何かを言う前に、キャプテンの立浪がナインに指示してくれたから」

中村監督はそう語る。

つまり監督の考えていることを、キャプテンは全て理解していたのだ。

こういうチームは強い。

KK世代と連覇世代、どちらが強いか?

その答えは出ない。

条件が違うので、どちらが強いかなんてことは軽々には言えないからだ。

ただ、これだけは言える。

連覇世代の、PLの伝統である粘りの野球と、選手層が厚くスケールの大きな野球がミックスされ、そこに立浪のキャプテンシーが加わった、全くスキがないまさしく「鉄壁野球」。

連覇世代はやはり、中村監督が作り上げた最高傑作のチームだったと言えよう。

 

◎永遠の学園

80年代の高校野球ファンなら誰もが、PLの校歌を口ずさめるだろう。

おそらく、高校では日本で一番有名な校歌だ。

実はこの校歌、硬式野球部のために作られたものである。

1962年、PLは春のセンバツに選ばれ、甲子園初出場を果たした。

ところが、当時のPLには校歌が無かったのだ。

甲子園で勝利すると校歌を歌う決まりがあるので、これは大変だとばかりに慌てて校歌を作ったというわけだ。

そんな「急造校歌」の割には、長年ファンから愛される名曲となったのである。

 

PL学園校歌 
作詞:湯浅竜起 作曲:東信太郎

燃ゆる希望に いのち生き
高き理想を 胸に抱く
若人のゆめ 羽曳野の
聖丘清く 育みて
PL学園 永久(とこしえ)に
向上の道 進むなり
ああ PL PL
永遠(とわ)の学園 永遠の学園

 

www.youtube.com

 

合計96回、この校歌が甲子園の銀傘にこだました。

しかし100回目まであと4勝として、2009年夏を最後に、この校歌は甲子園に流れていない。

2016年、夏の大阪大会で敗退し、部員がいなくなったPL学園高等学校硬式野球部は休部。

そして2017年3月29日、同部は大阪府高等学校野球連盟を脱退した。

 

学校そのものは存続するが、硬式野球部復活の目途は立っていないという。

つまり「永遠の野球部」ではなかったということか。

もしPL学園硬式野球部が活動を再開しなければ、1987年夏が最後の甲子園優勝ということになる。

そして、PL学園の選手がアミュレットの入った胸に手を当てる仕草も、甲子園のアルプス・スタンドを彩る人文字応援も、何よりも全国の人々を感動させた「PL奇跡の逆転劇」も、もう見ることはできない。

 

【完】

 

①野村 弘  三年
②伊藤敬司  三年
片岡篤史  三年
④尾崎晃久  三年
⑤深瀬 猛  三年
立浪和義  三年 主将
⑦岩崎充宏  三年
⑧蔵本新太郎 三年
⑨長谷川将樹 三年
⑩橋本 清  三年
⑪住野弘亘  三年
⑫中西 聡  三年
⑬桑田 泉  三年
宮本慎也  二年
⑮黒木隆司  二年

 

1978年夏

1981年春

1982年春

1983年夏

1985年夏

1987年春

1987年夏