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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

永遠の四番打者〜清原和博の高校時代(3)

甲子園出場を決めたPLは、ベンチ入りメンバーの再編成を行った。
当時、大阪大会のベンチ入り人数は17名だったが、甲子園では15名。
つまり、二人はベンチ入りを外れることになる。
清原、桑田は当然ベンチ入りを果たしたが、同じ一年生の田口はメンバーから漏れた。
田口の大阪大会で付けていた背番号は「13」。
つまり、清原の「14」、桑田の「17」よりも上のナンバーだったが、大阪大会では活躍できず、甲子園でのプレーはこの時点で夢となった。
逆に清原と桑田はいわば「下克上」を果たしたというわけだ。
清原は甲子園では堂々とレギュラー番号の「3」を付けることになった。
桑田はエースナンバーではないとはいえ、「17」からは大出世の「11」で、事実上のエース。
現在ならPLのエースと四番が一年生となれば相当な話題となるが、当時はほとんど注目されなかった。


この年、最も注目されていたのは池田(徳島)が、史上初の夏春夏三連覇を果たすかどうかに尽きた。
と同時に、どこが池田を倒すかに焦点が絞られていた。
野中徹博(元・阪急他)、紀藤真琴(元・広島他)の両エースを持つ名門・中京(愛知、現・中京大中京)。
後にメジャーリーガーとなる吉井理人(元・近鉄他)を擁する箕島(和歌山)。
打倒池田に燃えるセンバツ準優勝の横浜商(神奈川)。
前年夏の準優勝・広島商
練習試合で池田を完封したサウスポー・仲田幸司(元・阪神他)の興南(沖縄)。
センバツで唯一池田を苦しめた明徳(現・明徳義塾)を破って出てきた津野浩(元・日本ハム他)を擁する高知商
これらの高校が打倒池田の有力校と言われた。


この「打倒池田包囲網」の中にPLは含まれていなかった。
「PLには凄い一年生がいる」という評判はほとんどなく、「天下のPLが一年生に頼るようではおしまい」という見方が一般的で、Bクラスのチームにすぎないというのが下馬評だった。
とは言っても一年生四番ということで清原は多少注目されていて、当時の「週刊朝日・甲子園大会号」のPLの紹介欄の見出しには「一年生四番清原の打棒光る」と書かれている。
逆にいえばこの年のPLには他に目玉がなかったわけで、一年生投手の桑田は投手陣の一人という扱いしかされていなかった。
つまり、この時点では清原の方が桑田よりも圧倒的に注目度が上だったのである。


その評価が一変したのは甲子園での一回戦、所沢商(埼玉)戦だった。
大事な初戦で先発を任されたのが桑田。
大阪大会では初登板初完封の吹田戦以外はリリーフ登板だったが、甲子園では桑田を先発の軸として使うという中村監督の決意の現れと言える。
「桑田は一年生で怖いもの知らずなところがいい」というのが中村監督が語る桑田の先発起用だった。
桑田はこの試合で2失点完投勝ちという見事なデビューで、やはり一年生時に大活躍した早稲田実荒木大輔(元・ヤクルト他)の再来として注目されるようになる。
さらに二回戦の中津工(大分)戦では初完封勝利、しかも自らのバットでホームランを打つという活躍ぶりだった。
対して清原は一、二回戦とも無安打。
打撃面でも桑田には水を開けられ、注目度は完全に逆転した。


プロ入り後、清原は常々「高校時代から『KKコンビ』の最初の『K』は桑田やった」と言っていたが、その原点はこの年の甲子園一、二回戦と言っていい。
PL入学後はずっと清原が注目されていて、桑田は無視されるような存在だった。
大阪大会に入っても清原の注目度の方が断然上だったが、桑田が急速に追いついてきた。
そして甲子園では身長175cmの小男にあっという間に抜かれてしまった。
今後、長年続く清原の野球人生の原点は、この甲子園の一、二回戦にあったような気がしてならない。


三回戦の相手はセンバツ4強の東海大一(静岡、現・東海大翔洋)。
中村監督は連戦になることを考慮して桑田を温存、三年生エースの藤本を先発させた。
鬼の居ぬ間に……、というか、清原は甲子園初安打をマーク、この試合二安打で、四番としての面目を保った。
しかし桑田も八回から登板、無失点でキッチリと甲子園初セーブを挙げた。


準々決勝では津野を擁する高知商との対戦。
五年前の夏の決勝で、PLが壮烈な逆転劇で初優勝を飾った時の相手だ。
「逆転のPL」の異名は、五年前の高知商戦で定着したと言っても過言ではない。
この試合で清原が大爆発した。
津野からは連続二塁打、リリーフした一年生の中山裕章(元・横浜大洋他)からは三塁打と、全て長打でパワーの片鱗を見せつけた。
序盤で8−0とPL大量リード、楽勝ムードだったが、五回に先発の桑田が突然崩れた。
投球の際、マウンドに指をかいてしまい、握力がなくなったのだ。
一挙に5点を奪われてKO、PLは三年生の東森、藤本とつなぐが、高知商の猛攻は止まらない。
負けじとPL打線も打ち返して壮絶な打撃戦となるが、最後は藤本が踏ん張って10−9と薄氷の勝利。
高知商は五年前の逆転サヨナラ負けの屈辱を、8点差からの逆転という最高の形でリベンジしかかったが、あと一歩及ばなかった。


準決勝の相手は三連覇を目前とした池田。
試合前の下馬評は池田圧倒的有利だった。
準々決勝では難敵中の難敵と言われた中京を3−1で振り切って、もう三連覇は決定的とさえ言われた。
逆にPLは「8点差を1点差までに追いつかれたチーム。桑田、藤本の投手陣では池田のやまびこ打線にはとても通用しない」と言われていた。
しかし、蓋を開けてみれば7−0とPLの圧勝。
桑田は強力なやまびこ打線をカーブでかわし、五安打完封と完璧なピッチングだった。
打っても難攻不落のエース水野雄仁(元・巨人)からあっと驚く大ホームラン。
桑田の八面六臂の大活躍には誰もが唖然とし、水野に代わるニューヒーローの出現に喝采を贈った。
だが、その陰で清原は水野に対し4打席4三振。
手も足も出なかった。
と同時に、完封勝ちで脚光を浴びる桑田に対し、打つ方でも甲子園で桑田の2ホーマーに対し、清原はまだゼロ。
高知商戦で挽回したと思われたが、池田戦で清原は桑田に完全に差をつけられた。


清原は甲子園入りしてから、ずっと神経性の下痢に悩ませられていた。
豪放磊落に見える清原は、実は繊細な性格の持ち主だった。
甲子園ではPLの四番というプレッシャーに押しつぶされそうになっていたのである。
一方の繊細な性格に見える桑田は、甲子園でのマウンドを楽しんでいた。
誰もが震え上がったやまびこ打線に対しても「打てるもんなら打ってみい!」と投げ込み、打つ時でも「ヒットを打って走って疲れるくらいなら、ホームランをブチ込んだれ!」とばかりに強振し、剛腕水野を打ち砕いた。
この二人の性格がそのまま、初めての甲子園での成績に表れていた。


だが決勝戦で、清原は開き直った。
打倒池田に燃えていた横浜商のエース三浦は、相手が一年生中心のPLになって拍子抜け、清原のこともナメていた。
しかし清原は三浦得意の変化球を叩き、打球はライトラッキーゾーンへ吸い込まれた。
清原にとって、甲子園初ホーマーである。
ただ、本来なら一年生四番が決勝戦でホームランというだけで大フィーバーになるところだが、前日の桑田のホームランがあまりにも強烈だったから、清原の初ホーマーも色褪せて見えた。
とはいえ、プロも注目する三浦からホームランを打った清原に、どんなスケールの大きな打者になるのだろうという期待を抱かせた一打でもあった。
試合は清原の先制ホームランを桑田が守り、七回まで1−0とPLリード。
しかしここで中村監督は思い切って桑田から藤本にスイッチ。
この継投がズバリ当たり、藤本は三年生の意地で横浜商打線を抑え、先制点と自らのバットで叩き出した点を含む2点の追加点を守り切り、3−0でPLが夏2度目の優勝を成し遂げた。
中村監督にとっては春の2度を含む3度目の甲子園制覇、なんと自身、監督として甲子園16連勝で無敗という前人未到の記録を打ち立てた。


池田一色で始まった夏の甲子園
しかし閉幕した頃には、主役はPLに移っていた。
もっと言えば、桑田、清原の一年生コンビが池田から真打ちの座を奪い取ったと言っても過言ではない。


この大会で面白いデータがある。
桑田が完投した3試合(所沢商、中津工、池田)で清原はノーヒット。
逆に桑田が完投しなかった3試合(東海大一、高知商、横浜商)では清原は二安打を放ち、打点を挙げている。
つまり、清原が打てないと桑田が抑え、桑田がピンチになると清原が助けるという図式がこのとき既にできているのだ。


だが甲子園大会終了後、清原は再び桑田に後れを取っていることを見せつけられた。
アメリカ遠征する全日本選抜に桑田は選ばれたが、清原は選から漏れたのである。
大会序盤は当たっていなかったものの、終盤は当たりを取り戻し、終わってみれば23打数7安打1本塁打、打率.304で長打率に至っては.609という、優勝校の四番として恥ずかしくない成績を残していた。
しかし序盤戦および池田戦での不振が目立ったのか、粗いバッティングがネックになったのか、清原に白羽の矢は立たなかった。


アメリカ遠征では、桑田はメジャーリーガー予備軍の大男たちを手玉に取り、一段と評価が高まった。
一方の清原は、アメリカで活躍する桑田の情報を伝え聞きながら、大阪の富田林で一心不乱にバットを振り続けた。


桑田と決定的な差をつけられたことにより、清原は本物の怪物への覚醒が始まった。


(つづく)