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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

華麗なるステップで駆け抜けた人生①~楕円球との出逢い

2016年10月20日、ミスター・ラグビーとも称された平尾誠二さんが53歳という若さで逝去されました。

故人の死を悼み、追悼記事を連載します。

(文中敬称略)

引っ込み思案だった子供の頃

平尾誠二は1963年1月21日、京都市で生まれた。

子供の頃は目立つことが嫌いで、無口でおとなしく、引っ込み思案だったという。

幼稚園にも行きたがらず、登園拒否にもなっていた。

小学生になっても、引っ込み思案は変わらなかった。

ラグビー界のスーパースターとなって、饒舌だった平尾からは信じられない。

 

ただ、小学生になって、他人よりも秀でていることがあるのに気付いた。

運動神経が良かったのである。

足は誰よりも速かった。

平尾少年は少しずつ自信を持ち始めるが、引っ込み思案の性格が変わったわけではない。

もちろん、この段階ではラグビーのことなど全く知らなかった。

 

初めて触れた楕円球

小学校を卒業した平尾は、京都市立陶化中学校(現在は凌風学園に統合)に進学した。

中学生になった平尾は、自分に自信が持てるようになったスポーツをやろうと思っていた。

ターゲットとなったのは、人気№1の野球。

しかし、平尾が見た野球部は、最も嫌う世界だった。

野球部を見学すると、上級生が下級生を理不尽なまでにシゴいている。

 

次に見たのはサッカー部。

これも野球部と同じ風景だった。

そして、陸上部を見てもやはり同じ。

当時の運動部は、どこでも同じようなものだった。

いや、現在でもあまり変わらないか……。

 

もう、平尾には運動部に入部する気は失せていた。

そんな時、校庭を歩いていると、平尾の前に楕円形のボールが転がって来た。

「悪い悪い」と、向こうで叫んでいる運動部員がいた。

要するに、その楕円球を投げ返してくれ、と。

 

平尾はそのボールを掴もうとした。

ところが、その楕円球は、こっちの方へ転がってはくれない。

あっちこっちに弾んで、なかなか捕ることができない。

野球のボールだったらグラブさえあれば簡単に捕ることができるし、サッカー・ボールでも容易に蹴り返せる。

 

だが、この楕円球は一筋縄ではいかなかった。

「なんやねん、このボールは?」

それが、平尾とラグビーとの、運命的な出逢いだった。

 

ラグビーと美術

陶化中には、公立の中学校としては珍しくラグビー部があった。

その時、ラグビー部の監督は、ラグビー・ボールに興味を持ったであろうその少年に声をかけた。

「そのボール、蹴ってみいひんか?」

そう言って監督はボールを投げてよこすと、やはり楕円球は二転三転して、平尾にはまともに捕れない。

なんとか捕まえて、蹴ってみるとやはりトンデモない方向へ転がる。

 

「どや、オモロいやろ?」

ラグビー部の監督は言った。

この瞬間から、平尾はラグビーの虜になっていたのかも知れない。

 

陶化中のラグビー部監督は、寺本義明だった。

監督というか、要するに顧問である。

寺本が平尾に声をかけた理由はただ一つ、ラグビー部員が足りなかったからだ。

別に平尾の素質に惚れ込んだわけではない。

 

寺本は当時、25歳。

新任教師だった寺本が、2年前にラグビー部発足を学校側に申請したが認められず、同好会扱いになる。

そして、1年前にようやくクラブに昇格したが、大会に出場するにはいかんせん部員が足りなかった。

そこで、楕円球に興味を持ったであろう平尾少年に声をかけたのである。

 

平尾は、寺尾に誘われるがままラグビー部に入部した。

もちろん、この時点で平尾はラグビーのルールはおろか、試合すら見たことがない。

ただ「オモロそうや」それだけの理由で入部した。

 

こうしてラグビーを始めた平尾にとって、ラグビー部は天国だった。

なにしろ、先輩は少数の二年生しかいないので、運動部にありがちな理不尽なイジメなど全くない。

伝統などもないので、自由に練習できる。

形式的な練習など皆無だった。

なぜなら、監督の寺本は美術の先生だったからである。

 

寺本はラグビーをかじったことはあるが、体育会気質とは全くの無縁だった。

それが、平尾の気性に合っていた。

寺本は、

「平尾は天才だと言う人がいるけれど、とんでもない。あんなに人のいない所で練習するヤツはいませんよ」

と言う。

要するに、平尾は天才型ではなく努力型だ、と。

 

ただ、平尾の場合は苦難を越えて努力していたわけではあるまい。

単に、練習してラグビーが上手くなると嬉しいから努力するだけ、というタイプである。

野球で言えばイチローのような「努力を楽しむ天才」ということだ。

平尾にとってみれば、オモロいから練習している、それだけのことである。

 

ラグビー人生、最高の至福

最初、平尾がラグビー部に入部すると言った時、反対したのは父親だった。

ラグビーなんて危険なスポーツ、息子にはやらせられない」

と。

それでも平尾の意思は固く、その意を察して母親の方が父親をなだめた。

普通なら、母親が危険なスポーツに反対して、父親が「バカモン!男たるもの、危険を恐れてどうするか!」などと怒鳴るものだが……。

だが、母親は平尾が飽きっぽい性格を知っていたので、ここまで息子がやりたいと主張するのならば応援したいと思ったようだ。

 

こうして陶化中でのラグビー部生活が始まったが、平尾には楽しくて仕方がなかった。

もし、陶化中にラグビー部が無かったら、あるいは野球部などの運動部にリベラルな雰囲気があったのなら……、ミスター・ラグビーとしての平尾は存在していなかったのかも知れない。

 

中学三年生になった時、ラグビーで自信を付けた引っ込み思案の平尾は、勉強でもちょっと頑張ってみるか、という気になった。

そして勉強してみると、それまではオール3の平凡な生徒だったのが、オール5になったのである。

平尾は引っ込み思案の性格を、ラグビーによって克服したのだ。

 

そして平尾は、ラグビー人生で最高の瞬間を迎える。

ラグビーには無理解だった父親が、京都市中京区にある「白狼運動具店」に連れて行ってくれた。

そこでは、京都には滅多にないラグビー用のスパイクを売っている。

いや、大阪や東京でも、ラグビー・スパイクを売っているスポーツ用品店なんてほとんどないだろう。

 

その店で、父親は当時で1万円もするラグビー・スパイクを買ってくれた。

今の価格だと、その何倍になるのだろう。

平尾はそのスパイクが嬉しくて嬉しくて、布団と一緒にくるまって寝た。

そして朝になると、近所の公園に駆け出した。

もちろん、父親に買ってもらった新品のスパイクを履いて。

 

「あの時は嬉しかったですなあ。ラグビー人生で、一番嬉しかったかも知れまへん」

後に平尾はそう語った。

つまり、花園優勝よりも、大学3連覇よりも、社会人7連覇よりも、そしてテストマッチでのスコットランド戦勝利よりも、中学時代に買ってもらったスパイクの方が嬉しかったのである。

水泳の岩崎恭子は、中学生の時にオリンピックで金メダルを獲得して「今まで生きていた中で一番幸せです」と言ったが、平尾は同じ中学生の時に、父親から買ってもらったスパイクが「人生で一番嬉しかった瞬間」だったのだ。

 

スクール☆ウォーズへの序曲

陶化中で頭角を現した平尾は、中学生による「オール京都」に選ばれた。

その時のプレーが、ある高校の監督の目に止まったのである。

その監督とは、京都市伏見工業高校(現在は京都工学院に統合)の山口良治だった。

あの大ヒット・ドラマ「スクール☆ウォーズ」で、主演の山下真司が演じた滝沢賢治のモデルである。

 

山口は、オール京都の中学生と、自身が監督を務める伏見工の一年生との対戦を組んだ。

この頃の伏見工は「スクール☆ウォーズ」のドラマよろしく悪たれ校の代名詞だったが、山口の好指導により京都ラグビー界の強豪になりつつあったのである。

そして、この時の伏見工一年生には、後に平尾と深く関わることになる大八木淳史がいた。

 

結果は、オール京都の完勝。

大八木を擁する荒くれ連中の伏見工一年生は、中学生に手もなく捻られたのだ。

この時、大八木の脳裏には、平尾の名前がハッキリと刻まれたのである。

 

そして、山口による平尾の熱心な勧誘が始まった。

ラグビー場のスタンドで平尾の姿を見つけると、

「君が平尾くんか」

などと、馴れ馴れしく声をかけて来る。

 

「なんやねん、このオッサン」

平尾は山口に対して口にこそ出さないが、嫌悪感を隠さなかった。

ハッキリ言うと、平尾が一番嫌うタイプである。

 

しかし、山口の勧誘は平尾の実家にも及んだ。

もちろん、山口の単独ではなく、陶化中のラグビー部監督の寺本も一緒だったが。

山口は寺本と共に平尾家へ乗り込み、伏見工への進学を説いた。

平尾の両親としては、当時は「京都一のワル」高校の伏見工への進学は不安だったし、平尾自身も工業校より普通科への高校進学が志望だった。

さらに、ラグビーの名門校からの勧誘もあったのである。

私学はいえ授業免除なら、普通科ラグビー強豪校へ進学した方がずっといい。

 

しかし、最終的には山口の熱意に負けて、平尾は伏見工に進学した。

だが、そこでは地獄の日々が待っていたのである。

 

太陽の位置で時間がわかる天才

伏見工ラグビー部に入部した平尾にとって、それは苦痛な時間でしかなかった。

平尾が忌み嫌った体育会系の練習が、そこにはある。

監督の山口は、まさしく根性によって無名選手から日本代表に選ばれた男だ。

そして、その実績を引っ提げて、とんでもない不良高校だった伏見工を建て直し、花園出場への道筋を先鞭した人物でもある。

 

だが、平尾にとっては、根性による練習が嫌で仕方がなかった。

太陽が昇る頃には朝練が始まり、太陽が沈む頃には一日の練習が終わる。

グラウンドの西側には工場があり、その煙突が物差しになってお天道様の位置がわかった。

太陽の位置がわかれば、時間もわかる。

「太陽が煙突のこの辺りまで来ているな。あと30分で練習が終わる」

伏見工に入った頃の平尾は、太陽の位置ばかり気にしていた。

つまり、早く練習が終われ、そのことばかり念じていたのである。

中学時代、時間を忘れて楕円球を追っていた時とは大違いだ。

 

全てを見抜いていた山口監督

そんな頃、平尾はとうとう練習をサボった。

仮病である。

もっと言えば、単なる仮病ではなく、心因性から本当に体調が悪くなっていた。

学校や会社が嫌になると、腹痛が起こったりするのと同じだ。

 

平尾が家で寝ていると案の定、山口から電話がかかってくる。

当然、怒鳴られるのかと思ったら、山口は「無理するな」と優しく語りかけてきた。

そして親にも「ゆっくり休ませてあげてください」と言う。

山口は平尾の性格がわかっていた。

もしこの時、山口が平尾を叱っていたら、平尾は間違いなくラグビーを辞めていただろう。

 

平尾も、山口の態度に接して我に返った。

俺は一体、何をやっているのだろう、と。

ラグビーをやりたくて伏見工に来たのではなかったのか?

まもなく平尾は、練習に復帰した。

 

平尾が三年生になった時、山口は平尾を主将に任命した。

そして、伏見工にとって初めての花園制覇を成し遂げたのは周知のとおり。

特に決勝戦での、大阪工業大学高校(現・常翔学園)との決勝戦は、高校ラグビ史上最高の名勝負として語り継がれ、ドラマ「スクール☆ウォーズ」でも再現された。

www.youtube.com

 

山口は、平尾を叱った記憶がないと言う。

初めて叱ったのは、平尾が53歳の時。

「俺が先に逝くはずやのに、順番を守らん奴や」

 

(つづく)