前回からの続き。
ミラクル・トライとキャプテン交代
1991年に行われた第2回ワールドカップから半年前に時計の針を戻す。
同年の1月8日、神戸製鋼(現:神戸製鋼コベルコ・スティーラーズ)は全国社会人大会決勝で三洋電機(現:パナソニック・ワイルドナイツ)と対戦していた。
2連覇を果たし、3連覇を狙う神鋼は、三洋の激しい当たりに大苦戦を強いられる。
FWで押しまくられ、防戦一方の神鋼。
トライも2つ奪われ、逆に神鋼はノートライで、後半40分を過ぎても12-16でリードを奪われていた。
当時のトライは4点で、たとえ同点トライを奪っても、コンバージョン・ゴールが決まらなければ引き分けとなり、トライ数の差で日本選手権出場は譲らなければならない。
しかも、ロスタイムに入っても神鋼はまだ自陣、3連覇は絶望視されていた。
ところが、ここから奇跡が起きた。
自陣から積極的にボールを回し、何度も連続攻撃を仕掛け、ようやく強固な三洋ディフェンスに穴が開いた。
そこを見逃さなかった神鋼は、WTBのイアン・ウィリアムスにボールを渡す。
このシーズンから加入したオーストラリア代表(ワラビーズ)のウィリアムスは自陣から一気に走り切り、ゴールポスト中央に同点トライを奪った。
細川隆弘が正面からのコンバージョンを難なく決めて、神鋼は奇跡の逆転勝ちで3連覇を成し遂げたのである。
まだラグビー界で外国人助っ人が珍しかった時代、このミラクル・トライによってウィリアムスは一躍、時の人となった。
そして、日本選手権では明治大学を一蹴し、日本選手権3連覇も果たした。
だが、キャプテンの平尾は神鋼に危惧を抱いていた。
このシーズン、神鋼は三洋戦だけでなく、苦戦することが多かったのである。
自分の采配がマンネリ化しているのではないか、そう考えた平尾はキャプテンを退く決意をした。
平尾は、FWの大西一平(№8)に次期キャプテンを託す。
大西は「俺はそんな器ちゃうし、平尾さんでもまだまだいけるやん」と思って固辞した。
しかし平尾は言い放つ。
「お前しかおらんって言うてるやろ!お前しかおらんのにお前が断って勝てんようになったら、お前にも責任があるで」
その言葉で、ようやく大西も了承し、新キャプテンが誕生した。
大西は、副キャプテンにウィリアムスを指名する。
当時の日本ラグビー界で、外国人選手がそれほど重要なポジションを担うのは異例のことだった。
大西には、当時から引退するまで日本代表経験がない。
そんな自分が、年上でジャパン経験者ぞろいの神鋼を引っ張っていくのは不安だった。
しかも神鋼には監督はいない。
だが平尾は、そんな大西だからこそ期待した。
平尾はBKで大西はFW、プレー・スタイルも違えば、考え方も全く異なる。
自分とは違うカラーを大西は神鋼にブチ込んでくれるのではないか、と平尾は思ったのだ。
実際に大西は、平尾時代にはなかった「激しくぶち当たる」というプレーを積極的に取り入れた。
平尾がキャプテンに就任した時「ラグビーは格闘技じゃなくて球技」と言っていたのを、大西は再び格闘技的要素を復活させたのである。
やがて大西は、日本代表のスターであり大先輩で実質的FWリーダーの林敏之に対しても、遠慮なくズケズケ注文するようになった。
こうして大西・神鋼は、三洋のFWにも負けない強力なチーム作りを始めたのである。
バッシングを浴びる日本代表
一方の日本代表でも、平尾は引退を表明していた。
そして監督も、宿沢広朗から小藪修にバトンが渡されたのである。
小藪は、それまで宿沢が用いてきた「接近・展開・連続」の早稲田戦法を改め、強力FWを前提とする「タテ・タテ・ヨコ」の戦法を打ち出した。
FWで相手ディフェンスを崩し、その上でBK勝負に持ち込もうとしたのである。
しかし、この戦法ではなかなかテストマッチでは成果を上げられなかった。
当然、マスコミからバッシングを浴びる。
「FWを全面に押し出すなんて、体が小さい日本人向きの戦法ではない」
と。
しかし小藪は、
「FW戦で負けているままでは、いつまでたってもジャパンは世界では勝てない。ジャパンが世界の一流国にのし上がるためには、FWの強化が必要だ」
と主張した。
ジャパンには追い風もあった。
第2回大会はアジア太平洋地区予選で、韓国の他にもトンガや西サモア(現:サモア)と闘わなければならなかったが、第3回大会はアジア大会がワールドカップのアジア予選となったのである。
アジア枠は1チームになったが、事実上の敵は韓国と香港だけという、日本にとって与しやすい相手となった。
とはいえ、現在に比べて当時のこの3国はまだまだ力が拮抗していたが、それでも実力的に日本有利となったのである。
果たして、アジア大会決勝では韓国に対して「タテ・タテ・ヨコ」戦法が炸裂、日本が韓国に26-11で完勝して第3回ワールドカップ出場を決めた。
7連覇達成直後の阪神・淡路大震災
大西体制となった神鋼は、それまでの華麗なプレーに力強いラグビーも加わって、順調に連覇を重ねた。
また、社会人ラグビー全体のレベルと人気も上がったのである。
特に神鋼の人気は高く、大卒のスター選手がこぞって神鋼に入社した。
そして1994-95年度のシーズンではキャプテンが細川に交代、元木由記雄と吉田明という日本代表のCTBが入社し、平尾は入社3年目以来という久しぶりのSOに返り咲いていた。
神鋼のキャプテンからも、そして日本代表からも退いていた平尾は4年間ノビノビとプレーしていたが、久々の司令塔となるSOでは水を得た魚のように動き回り、暴れまくったのである。
そして1995年1月15日、大東文化大学に102-14という圧勝で、新日鉄釜石(現:釜石シーウェイブス)と並ぶ日本選手権7連覇の偉業を成し遂げた。
しかし、その2日後にとんでもない悲劇が待ち受けていたのである。
阪神・淡路大震災である。
練習場の灘浜グラウンドも大被害を受けたが、それどころではない。
神鋼の社宅は倒壊寸前、もう生きることが必死で7連覇の喜びなど吹き飛んでしまった。
余震は続き、冬ということもあって火災が続出、力自慢の神鋼ラガーメンもなす術がなかった。
ライフラインも断たれ、水も食料もない。
それでも神鋼フィフティーンは兵庫県民と力を合わせ、復旧に取り組んだ。
平尾、電撃のジャパン復帰
大震災から間もない2月、同年5月に南アフリカで行われるワールドカップに向けて、日本代表はトンガとテストマッチを行った。
ジャパンには神鋼の選手も含まれたが、あえなく2連敗。
アジアでは威力を発揮した「タテ・タテ・ヨコ」戦法も、FW自慢のトンガには全く通用せず、ワールドカップに暗雲が立ち込めた。
そして、ワールドカップ直前の東京・秩父宮ラグビー場、ヨーロッパの強豪であるルーマニアと最後のテストマッチを行った。
ここで日本代表は、SOに平尾を起用したのである。
代表を引退していた平尾が、4年ぶりに電撃的なジャパン復帰。
しかもジャパンは、34-21でルーマニアに完勝したのだ。
ワールドカップを目前にしてのこのニュースは、全世界を駆け巡った。
ジャパンに何が起こったのか?
震災から復興へ立ち上がりつつある神戸のように、ジャパンは甦りつつあるのか……。
ブルームフォンテーンの悲劇
「ヒラオはルーマニア戦で本当に出場したのか!?コーベでもフライハーフ(スタンドオフ=SOのこと)をやっているのか??」
ウェールズ代表のヘッドコーチであるアレックス・エバンスは、日本人記者を見つけてそう問い質した。
ウェールズにとってワールドカップでの日本は第1戦の相手。
それだけに、ジャパンのルーマニア戦勝利と、平尾の代表復帰は衝撃的だったのだ。
そうでなくても、エバンスHCは神鋼でコーチをした経験もあり、平尾の実力は熟知している。
日本のことをよく知っているエバンスHCだけでなく、第2回ワールドカップで日本に苦戦したアイルランドのジェリー・マーフィHCも「ジャパンは今や驚異的な相手となった」と語った。
第2戦で対戦するアイルランドにとって、日本は警戒すべき相手だったのである。
海外の記者も、
「ジャパンはヒラオがフライハーフに復帰してSHホリコシ(堀越正巳)とのハーフ団は世界のトップ・クラスになり、WTBに快足のヨシダ(吉田義人)が控えているのでお家芸のオープン攻撃が復活、今大会の台風の目となるのではないか」
と予想した。
しかし、ルーマニア戦での勝利と平尾の復帰が逆効果になったのだろうか。
南アフリカのブルームフォンテーンで行われた第1戦のウェールズ戦では、ジャパンは何もさせてもらえず10-57の惨敗。
その結果は「タテ・タテ・ヨコ」戦法の失敗を雄弁に物語っていた。
だが第2戦のアイルランド戦では、第2回ワールドカップのように、アイルランドのパワーとジャパンのスピードが激突する好ゲームとなった。
まだ第3戦は残していたが、平尾はこの試合がジャパンでの最後の試合と決め、SOで出場していた。
14-26とジャパンが12点ビハインドで迎えた後半19分、敵陣のラインアウトからサインプレーが決まり、ループで切れ込んできた平尾がゴールラインを割った。
なんとこれが、平尾にとってテストマッチ初トライ。
日本代表としてはリンク・プレーヤーに徹してきた平尾が、最後のテストマッチで初めてトライを挙げたのだ。
翌日、南アフリカの新聞は「今大会で最も美しいトライ」と一面トップで書き立てたのである。
コンバージョンも決まり試合は5点差、勝負はわからなくなった。
しかし、ここからアイルランドはなりふり構わぬパワー勝負に出てジャパンを圧倒、最終的には28-50でジャパンは敗れた。
結局、世界の一流国には力勝負では勝てないことを立証されたのである。
第3戦、日本は既に予選プール敗退が決まっていた。
最終戦の相手、優勝候補のニュージーランド(オールブラックス)も既に決勝トーナメント進出を決めており、要するに消化試合だった。
前の試合で代表引退を表明していた平尾は、当然のことながらスタンドでの観戦。
そしてオールブラックスもメンバー落としをしたのである。
そのため、日本は勝ち目こそないとはいえ、オールブラックスは手を抜くだろうし、そこそこの勝負ができるのではないか、と思われた。
しかし、現実は悲惨だった。
オールブラックスの二本目(控え選手)の連中は、この試合で認められて決勝トーナメントに出場できるように、目の色を変えてジャパンに挑んできたのである。
次から次への、オールブラックスによるトライの嵐。
たとえジャパンが敵陣深くまで攻め込んでも、ボールを獲られればあっという間にボールを回されて、トライに結び付けられてしまう。
後半にはジャパンもようやく2トライを返すものの、終わってみれば17-145の大惨敗。
もちろん、この得点も得失点差も、現在までワールドカップでのレコードである。
ジャパンはオールブラックスの二本目に、完膚なきまでに叩きのめされた。
高校野球でいえば、地方大会の一回戦で20点差の5回コールド負けをしたようなものだ。
それが、ワールドカップという世界最高の舞台で演じられたのである。
そのため、この試合は会場となった場所にちなんで「ブルームフォンテーンの悲劇」と呼ばれる。
この試合を境に、日本ラグビーの信用は失墜し、国内での人気も急落して、暗黒時代に突入した。
神鋼が7連覇しようが、その程度のレベルだったのか、と考えられたのである。
この大会では、決勝で地元の南アフリカ(スプリングボクス)とオールブラックスが激突、延長戦の末に15-12でスプリングボクスが初優勝を遂げた。
アパルトヘイト策により、過去の2大会はボイコットされ、第3回大会が地元開催で初参加となった南アフリカが、初の栄冠を勝ち取ったのである。
この大会が後に「インビクタス/負けざる者たち」という映画になり、黒人のネルソン・マンデラ大統領がスプリングボクスのキャプテンで白人のフランソワ・ピナールにエリス・カップ(ラグビーのワールドカップ)を授与したのは象徴的なシーンとなった。
この20年後、あの惨めだったジャパンが、オールブラックスを破ったスプリングボクスに勝つなど、誰も予想していなかっただろうが――。
(つづく)