1月7日、東大阪市の近鉄花園ラグビー場で行われた第92回全国高等学校ラグビーフットボール大会の決勝戦で、常翔学園(大阪第一)が御所実(奈良)を17-14で破り、17大会ぶり5度目の日本一に輝いた。
今大会は花園が会場になって50回目という節目の大会、しかも常翔学園にとっては現校名になって初めての優勝ということで、喜びもひとしおだろう。
今大会では西のAシードに選ばれ、決勝の御所実戦と準々決勝の伏見工(京都)戦では試合終盤での逆転勝ちと苦戦を強いられたものの、それ以外の試合では圧倒的な強さを示した。
バックスにタレントを揃え、特にフルバック(FB)の重一生は場面によってスクラムハーフ(SH)もこなす変幻自在ぶり。
いわばSHが二人もいるのだから密集でもノーハーフになることが少なく、得意の展開ラグビーで相手を翻弄した。
現校名になって初めての優勝、と書いたが、前校名は言わずと知れた大阪工業大学高校。
コーダイ(工大)の愛称でファンからは親しまれ、相手校からは恐れられた存在だった。
今でも大阪工大高という校名に愛着を感じているファンは多い。
濃紺に2本の赤いラインが入ったジャージは花園名物でもあり、最も印象が深いデザインである。
元々、大阪の高校ラグビー界は天王寺や北野といった伝統ある府立校が引っ張っていた。
府立校優勢の中、私立の大阪工大高が花園に初出場したのは1965年度の第45回大会。
この大会で大阪工大高はいきなりベスト4入りし、その存在感を全国にアピールした。
その後、大阪工大高は花園の常連になり、1977年度の第57回大会では、決勝戦で最多全国優勝を誇る秋田工(秋田)を20-12で破り、念願の初優勝。
大阪勢としては1950年度の第30回大会で優勝した天王寺以来の、実に27大会ぶりの日本一だった。
それ以来、大阪工大高はラグビー王国・大阪を引っ張る存在となる。
ちなみに筆者が初めてラグビーを見たのは1979年度の第59回準決勝、大阪工大高と東京の雄・國學院久我山(前回優勝)の試合だった。
当時の筆者はラグビーとサッカーの違いもわからず、ボールを持って走る選手を見て、
「ボールを手で持って走ってもええの!?」
なんて思ったものだ。
結局この試合は大阪工大高が圧倒的に押しながら攻めきれず、双方ノートライで3-3の引き分け、抽選で國學院久我山が決勝に進出した。
高校野球だったら勝負の決着がつくまで延長戦で戦うのに、抽選という方式に憤りを感じたのを憶えている(現在でも、抽選による勝敗の決着はおかしいと思う)。
現在ではそうでもなくなったが、この頃の高校スポーツではラグビーに限らず大阪は東京に対して分が悪かった。
高校野球では1971年の春のセンバツ決勝で大阪の大鉄(現・阪南大高)が東京の日大三に0ー2で敗れたり、1976年の夏の甲子園決勝では大阪のPL学園が西東京の桜美林に延長11回の末、3-4でサヨナラ負けを喫している。
高校サッカーでも、大阪の北陽(現・関大北陽)と東京の帝京との対戦は黄金カードと呼ばれたが、いつも北陽は帝京の軍門に下っていた。
大阪工大高はこの大会では國學院久我山と引き分けたものの抽選負け、3大会後の第62回大会では準々決勝で、有利と言われながら東京の目黒(現・目黒学院)に6-22で完敗している。
大阪の高校があらゆるスポーツで東京に勝てないのは「東京コンプレックス」が原因と言われたが、真実のほどはわからない。
前年度は悔しい抽選負けとなったが、ハイライトは翌1980年度の第60回大会にやってくる。
大会前から優勝候補の呼び声が高かった大阪工大高は圧倒的な強さで勝ち進み、決勝戦を迎えた。
決勝の相手はやはり優勝候補、京都の伏見工である。
伏見工とは近畿大会決勝で10-8で勝ち、国体決勝では終始劣勢ながら試合終了直前で同点に追いつき、10-10の引き分けで両校優勝に持ち込んでいる。
関西対決となったこの花園決戦は、まさしく雌雄を決する戦いとなった。
期待通り大熱戦となった決勝戦は試合終了間際まで双方ノートライで3-3、両校優勝かと思われたが、フルタイム寸前で伏見工の劇的な決勝トライが生まれ、大阪工大高は準優勝に甘んじた。
この試合は大ヒットドラマ「スクール★ウォーズ」のモデルになり、現在でも花園史上最高の名勝負と言われている。
2年連続で涙を飲んだ大阪工大高だったが、その経験は翌1981年度の61回大会に活きた。
前年程の強さはなかった大坂工大高だが、順調に勝ち進み決勝戦で第57回大会と同じ相手の秋田工を13-4で破り、4大会ぶり2回目の日本一に輝いた。
「力を合わせる”協力”ではなく、心を合わせる”協心”で勝った」
という名言を残している。
その後、大阪工大高は日本一から遠ざかる。
力はありながら、試合運びの拙さからなかなか頂点を極めないでいた。
1986年度、第66回大会の準決勝では、フォワード(FW)平均体重で16kgも上回りながら、軽量FWの熊谷工に7-12で苦杯を舐めている。
「力はありながら優勝できない」
という大阪工大高のイメージが出来上がった。
それでも1988年度、第68回大会の大阪工大高は手応え充分のチームだった。
圧倒的な強さで勝ち進み、優勝は間違いなしと思われた。
決勝戦の相手は、ハンドリング・ラグビーで勝ち進んできた新鋭の茗溪学園(茨城)。
最強の大阪工大高が勝つか、魅惑のハンドリング・ラグビーを駆使する茗溪学園がこれを阻止するか、興味はその一点に絞られた。
しかし、この決勝戦は思わぬ形で幻となる。
1989年1月7日、決勝戦が行われる予定だったこの日に昭和天皇が崩御。
結局、決勝戦は行われず大阪工大高と茗溪学園の両校優勝となった。
杓子定規に日程にこだわらず、日を改めて決勝戦を行えば大阪工大高と茗溪学園の試合はどんな勝負になったのだろう、と今でも思う。
安易に決勝戦中止を決断した主催者を恨んだ。
それはともかく、大阪工大高は昭和最後の花園優勝校になったわけである。
元号が平成となり、大阪工大高の苦戦が続いた。
1991年度の第71回大会では西のAシードとして優勝候補に挙げられながら、準決勝でライバルの東京・國學院久我山に14-28で完敗。
東京コンプレックスが拭えないでいた。
ところが、大阪工大高の仇を討つチームがあった。
同じ大阪の啓光学園である。
史上初の東京×大阪決戦となった決勝戦で、大阪工大高を倒した國學院久我山を啓光学園が圧倒、28-8で初の日本一に輝いた。
それでも、1995年度の第75回大会では、大阪工大高は最強チームを作り上げて花園に参上した。
圧倒的な強さで決勝進出した大阪工大高は、決勝戦でも秋田工に50-10で圧勝、4度目の日本一となった。
大阪工大高の4度の日本一のうち、両校優勝の茗溪学園を除いて決勝の相手は3度とも秋田工というのは何かの因縁か。
それはともかく、この年の大阪工大高は花園史上最強のチームだと思っている。
しかしこのチームが、大阪工大高として最後の花園優勝となった。
この後、花園の主役は啓光学園となり、大阪工大高は脇役に甘んじた。
1998年度の第78回大会では、啓光学園×大阪工大高という史上初の大阪同士による決勝戦となり、啓光学園が大阪工大高を15-12で破って、大阪最強を示した。
その翌年の1999年度の第79回大会では、やはり大阪勢の東海大仰星が日本一となり、もはや大阪は大阪工大高の独裁ではなくなったばかりか、啓光学園や東海大仰星の後塵を拝することになってしまったのである。
しかも啓光学園は、2001~2004年度まで4連覇を達成、大阪工大高の優勝記録を飛び越えてしまった。
2008年、学校法人・常翔学園の設立により大阪工大高は常翔学園と改称した。
さらに、大阪工大高にとって最大のライバルだった啓光学園も常翔学園の傘下に入り、常翔啓光学園となる。
その年の第88回大会、新校名となった常翔啓光学園は7度目の花園制覇を達成した。
旧・大阪工大高、即ち常翔学園の復活が待たれたが、ようやく常翔学園として今年度、初めて花園優勝を果たしたのである。
大阪工大高時代から監督を務めていた野上友一は、大阪工大高として最後の大会となった2007年度の第87回大会を最後に監督の座から退いた。
その後、中学生を相手にラグビー指導を続けるうちに、
「ラグビーは楽しくやらなあかん」
と気付いたという。
大阪工大高の監督時代は、選手たちに勝たせようと気持ちが空回りしていた。
2011年に常翔学園の監督に復帰した野上は、チームを引き連れてニュージーランドに遠征した。
ラグビー先進国での現地コーチが言った言葉に、野上の目からウロコが落ちた。
「うまくいったプレーが、良いプレー」
それまでの野上の考え方は、
「練習通りにやったプレーが良いプレー」
だったのだろう。
いや、これは野上に限らず、ほとんどの日本の指導者が囚われている概念に違いない。
「練習通りにやったプレーが良いプレー」
なんていうのは、指導者の自己満足に過ぎない。
そこに気づいた指導者こそ、優れた指導者なのだろう。
大阪工大高といえば、「強い時には圧倒的に強いが、守勢に回ると弱い」と言われた。
しかし、今大会の常翔学園は圧倒的に勝つこともあれば、御所実戦や伏見工戦のようにリードを許しながらも、最後には逆転勝ちする粘り強さを見せた。
それが本場のニュージーランドで身に付けたラグビーであり、伝統の「協心」だったのかも知れない。