第3回WBC準決勝で、日本はプエルトリコに1-3で敗れ、3連覇の夢は潰えた。
その敗因として、2点ビハインドの8回裏に一死一、二塁で痛恨のダブルスチール(重盗)失敗、一塁走者の内川が刺されてしまったことが、今なお取り沙汰されている。
試合後、ベンチからのサインが「(盗塁を)行けるなら行ってもいい」というものだったと明かされた。
「そんな中途半端なサインを出すな!」
「重盗の失敗を選手のせいにする気か!」
「選手任せのいい加減な作戦」
この報道により、山本浩二監督に対する痛烈な批判が巻き起こった。
たしかに試合の責任は監督が負うべきものであり、敗戦の責任は山本監督にある。
だが、僕はこのバッシングとも言える報道に違和感を感じる。
ハッキリ言って、上記のような批判は、結果論でしかないからだ。
というより、こんなものは批判とはとても言えない。
なぜなら、物事の本質を全く捉えていないからである。
もう一度、8回裏の日本の攻撃をおさらいしてみよう。
0-3とリードされた日本は、一死から鳥谷の三塁打と井端の右前適時打で1点返す。
さらに内川の右前打で一死一、二塁、打者は四番の阿部という絶好機を迎えた。
ところがカウント0-1からの2球目、二塁走者の井端がスタートを切るが途中で止まり、そのままスタートを切ってしまった一塁走者の内川が刺されてしまったのだ。
結局、チャンスを潰した日本はこの回1点止まり、そのまま敗れてしまった。
試合後、この重盗について「行けたら行っていいという作戦だった」と首脳陣から明かされたために日本のメディアが大紛糾、上記のような、
「そんな中途半端なサインを出すな!」
「重盗の失敗を選手のせいにする気か!」
「選手任せのいい加減な作戦」
という大バッシングが巻き起こった。
だが、実際には「中途半端な作戦」ではない。
山本監督は「(失敗を)選手の責任」にしたわけでもない(実際に山本監督は「選手の責任」とは一言も言っていない)。
もちろん選手任せにしたわけでもない。
これはグリーンライトという、チームの作戦だったのだ。
中には、盗塁をさせるならジスボール(この球で盗塁せよ)のサインを出せ、と書いている記者もいたが、このケースで盗塁(しかも重盗)のサインなど出せるものではない。
8回裏、2点ビハインドの場面なのだ。
このケースで重盗のサインを出せるとしたら、よほどの大監督か、あるいはただのバクチ好きだろう。
一死、一、二塁で阿部を迎えた場面で、プエルトリコは左腕のロメロをリリーフに送った。
左腕だと重盗はしやすい。
ロメロはモーションが大きいというデータも日本ベンチは持っていた。
一塁コーチの緒方もロメオの投球を見てこれを確認、ベンチに伝えてグリーンライト続行の了承を得た。
簡単にジスボールと言っても、投手の癖までベンチからわかるものではない。
投手のモーションを盗むのは、実際にグラウンドでプレーしている選手(走者)の感覚である。
もっと言えば、同点ならともかく、8回で2点ビハインドの場面で重盗のサインなど有り得ない。
「盗塁ならばジスボールにすべきだった」と言っている人は、そのあたりのことを考えているのだろうか。
残念だったのは、最後の部分で意思統一が図れていなかったことだ。
カウント0-1からの2球目、二塁走者の井端がスタートを切った。
これは間違いではない。
チームの作戦はグリーンライトであり、行けると思ったから井端はスタートを切ったのだ。
井端のスタートを見て、一塁走者の内川がスタートを切った。
これも間違いではない。
重盗が成功すれば、一死二、三塁で一打同点のチャンスである。
いや、単なるチャンスではない。
沈滞ムードだった試合の流れを一気に変えるビッグプレーだった。
だが、二塁走者の井端は刺される、と思って二塁へ戻ってしまった。
ところが、重盗だと思っていた内川はそのまま走ってしまい、あえなくタッチアウト。
押せ押せムードが絶たれてしまった。
井端には、行けると思ったのならそのまま行って欲しかったが、このままでは刺される、と判断したので二塁に戻ってしまったのは仕方がない。
だが、一塁走者の内川は、井端が止まったのだから、やはり自分も止まるべきだった。
それが重盗における、一塁走者のセオリーだからである。
イチローは、内川の走塁について「あれは凄いプレー」と絶賛していた。
あの局面で、スタートを切れる一塁走者はなかなかいない、と。
イチローは、自分ならスタートを切る度胸はない、と言っていた。
プエルトリコの捕手はメジャー随一の強肩・モリーナであり、盗塁を成功させるには好スタートが必要だった。
が、井端は「三盗は無理」と途中で止まってしまった。
しかし、二塁走者の井端が二塁に戻ったからといって内川まで止まってしまえば、結局はモリーナに刺されていただろう。
イチローは、内川の走塁はどうしようもなかった、という見解を示した。
さすがに含蓄あるイチローの意見だが、やはり内川は二塁走者である井端の動きを見て行動を起こすべきだった、と思う。
それがグリーンライトでの重盗における、一塁走者のセオリーだからだ。
もちろん、モリーナの強肩は気になっただろう。
グリーンライトでの重盗の場合は、一塁走者のスタートがどうしても遅れるため、二塁で刺される危険性がある。
特にモリーナの強肩があったから、内川の暴走とも思えるイチかバチかの走塁も仕方がない、ということだ。
だが、実際に重盗が行われたとして、モリーナは一塁走者のスタートが遅かったからといって二塁に送球しただろうか。
そんなことはないと思う。
おそらくモリーナは、三塁に送球しただろう。
いくら一塁走者のスタートが遅いといっても、三塁に投げた方が捕手としてはずっとメリットがある。
まずは、二塁走者を三塁で刺した方が有利になるということ。
こんなことは当たり前で、二塁に送球して刺したとしても二死三塁、それよりも三塁に送球して刺せば二死二塁になるので、守備側としては有難い状況になる。
次に、いくら二塁走者のスタートが早くても、捕手から見れば二塁よりも三塁の方が近く、送球が早く届くのでアウトにしやすいこと。
これは野球ファンならよくわかっていることで、重盗の際にはほとんどの捕手が三塁に送球する。
さらには、スタートが遅い一塁走者を二塁で刺せると思っても、三塁に比べて遠いので、悪送球の危険性が高くなること。
重盗されたうえ、悪送球すれば必ず1点を失うので、捕手とすれば二塁よりも三塁に送球したがるものなのだ。
そう考えれば、少々スタートが遅くなっても、内川には二塁走者の井端の動きを見ながら走って欲しかった。
もちろん、この責任は内川個人が負うべきものではない。
井端だって、盗塁を仕掛けながら途中で止まってしまったのだから、責任がないわけではないが、アウトになると判断して止まったのだから、これも仕方がない。
肝心なのは、このあたりの意思統一ができていなかったことだ。
そのあたりの責任は、山本監督をはじめ首脳陣が負うものである。
いかに名采配をふるっても、首脳陣は敗戦の責任を負わなければならない。
それが野球に限らず、スポーツの真理だ。
だが、敗戦の責任は監督をはじめとする首脳陣にあるのは当然とはいえ、日本の報道を見ると単なる結果論、というよりはほとんど感情的に煽っているだけである。
たとえば、今回のグリーンライトに対して、
「そんな中途半端なサインを出すな!」
「重盗の失敗を選手のせいにする気か!」
「選手任せのいい加減な作戦」
とバッシングするなら、なぜ台湾戦での鳥谷の盗塁を批判しないのか。
あの時の鳥谷の盗塁だって、プエルトリコ戦での重盗と同じ、作戦はグリーンライトだった。
むしろ条件は、プエルトリコ戦よりも悪かったと言って良い。
プエルトリコ戦はまだ8回だったが、台湾戦の盗塁は9回で1点ビハインド、二死一塁だったのである。
もし盗塁失敗すれば、その時点でゲームセットだ。
だがベンチはグリーンライトを実行、鳥谷が果敢に盗塁を決め、井端の同点打を呼び込んだ。
あの時のメディアは鳥谷の勇気ある盗塁を誉めそやし、井端の勝負強さを一斉に称えた。
しかし、そこにはグリーンライトに関する記述はほとんどなかった。
でも、ベンチがグリーンライトを許可していなければ、鳥谷の盗塁は.なかったのである。.
もしそうなれば、台湾戦の勝利はなかった。
プエルトリコ戦での重盗を、
「そんな中途半端なサインを出すな!」
「重盗の失敗を選手のせいにする気か!」
「選手任せのいい加減な作戦」
と批判するなら、台湾戦での鳥谷の盗塁も批判するべきだろう。
なぜなら、鳥谷の盗塁もプエルトリコ戦と同じくグリーンライトだったのだから。
結局は、結果論だけで鳥谷の盗塁は不問に付してるのである。
もし鳥谷の盗塁が失敗していれば、
「そんな中途半端なサインを出すな!」
「盗塁の失敗を鳥谷のせいにする気か!」
「選手任せのいい加減な作戦」
とメディアはバッシングしていたに違いない。
だが、日本のメディアは結果論に終始した。
「台湾戦での鳥谷の盗塁成功は結果論で、本来ならこのケースでグリーンライトなどするべきではない。それがプエルトリコ戦での重盗失敗に繋がった」
とでも書けば説得力もあったのだが、そんなことを書いたメディアはなかった。
要するに、今回の重盗における、
「そんな中途半端なサインを出すな!」
「重盗の失敗を選手のせいにする気か!」
「選手任せのいい加減な作戦」
というバッシングは、全く的外れというわけである。
メディアやジャーナリストには批判的精神が必要だが、それとは全くかけ離れたバッシング報道が大手を振るっているのは悲しいことだ。
メディアとは、大衆を写す鏡である。
これだけレベルが低い事を書くメディアが横行しているということは、大衆のレベルが低下しているのだろうか。
レベルの低いメディアに、真の批判的精神など全くない。