昭和40年代は読売ジャイアンツ9連覇の時代。
長嶋茂雄や王貞治が打ちまくり、プロ野球人気は上昇した。
巨人の本拠地である後楽園球場は、スコアボードが日本の球場で初めて全面電光掲示板となり、さらに後年にはグラウンドが日本で初めて全面人工芝化した。
そして首都圏では横浜スタジアムや西武ライオンズ球場(現・西武ドーム)など、やはり電光掲示板・人工芝の近代的球場がオープンし、甲子園は時代遅れの球場になりつつあった。
阪神の選手たちも、甲子園の老朽化したロッカールームや風呂に不満を持ち始めた。
そこで1978年(昭和53年)のシーズン終了後からリフレッシュ工事が行われるようになった。
翌1979年(昭和54年)の開幕には甲子園の内側が新装され、選手施設はもちろん売店などもリニューアルされた。
筆者もこの年に甲子園へ行った時、前年までは(失礼ながら)汚かった甲子園のスタンド内部がウソのようにピカピカになっていたので、子供心に驚いた記憶がある。
その数年前に初めて甲子園に行った時は、圧倒的で巨大な存在感に威圧されてしまったが、その反面ずいぶん古い球場だなあという感想を持ったのである。
ところが、この年の甲子園は本当に綺麗で、近代的な球場に見えた。
また、バックスクリーンも一新され、イニングの合間には広告が、そしてホームランが飛び出した時は「おめでとう」の文字が躍るようになった。
そしてこの年、内野ファウル部分のフェンス際に人工芝が敷かれるようになった。
この人工芝が、球史に残る伝説のドラマを生み出した。
この年の夏の甲子園三回戦、春のセンバツで優勝した箕島と、北陸の強豪・星稜が激突した。
春夏連覇を狙う箕島は星稜に対して大苦戦。
1−1のまま延長戦に入り、箕島は延長12回表に1点を奪われ、その裏の攻撃も二死無走者と絶体絶命に追い込まれた。
しかしここで島田宗彦が同点ソロホームランを放ち、試合は振り出しに戻った。
試合は進み、延長16回表に星稜が1点を奪い再びリード、その裏の箕島の攻撃も二死無走者となって、今度こそ勝負あったかと思われた。
打者の森川康弘が放った打球は平凡なファーストファウルフライ、箕島の春夏連覇の夢はついえたと誰もが思った。
ところが、捕球態勢に入った星稜の一塁手・加藤直樹はこの年に敷かれた人工芝にスパイクの爪を引っ掛けて転倒、ファウルフライが捕れなかったので箕島は九死に一生を得た。
息を吹き返した森川はレフトラッキーゾーンへ起死回生のホームランを放ち、箕島は二度の奇跡によって再び同点に追い付いた。
そして引き分け寸前の延長18回裏(当時の規定では延長18回で打ち切り、引き分け再試合となっていた)、箕島は1点をもぎ取りサヨナラ勝ち、高校野球史上最高の名勝負と言われた試合にピリオドを打った。
箕島はその後も勝ち進み、史上3校目の春夏連覇という大偉業を成し遂げた。
勝負にタラレバは禁句だが、もしこの年から内野ファウル部分が人工芝になっていなければ、一塁手の加藤が難なくファウルフライを捕って箕島は敗れていただろうし、この試合は伝説とはならなかったはずである。
甲子園に宿る野球の神様は、とんでもない悪戯をするものだ。
1982年(昭和57年)2月には、大銀傘がジュラルミン製からアルミ合金製に吹き替えられた。
そしてこの年のシーズン終了後、ある試みが行われた。
芝生の常緑化である。
それまでは高麗芝が使われてきたが、日本の気候では芝生が育ちにくく、どの球場でも冬になると枯れてしまっていた。
もちろん甲子園も例外ではなく、春のセンバツやプロ野球の開幕直後では茶色い枯れた芝生で見栄えが良くなかった。
日本で人工芝がもてはやされた理由は、こんなところにもある。
流行していた人工芝化は甲子園でも検討されたが、デーゲームで行われる夏の甲子園では人工芝が暑くなりすぎるうえ、下がアスファルトの人工芝では選手の体に負担をかける、として却下された。
英断だったと言えるだろう。
阪神電鉄では冬芝対策を検討していたところ、アメリカ原産のペンハインという牧草を植えて二毛作にすれば常緑になるということがわかった。
オフシーズンに外野の芝生部分にペンハインを植え付けると見事に育ち、翌1983年(昭和58年)の春のセンバツでは、緑まぶしい芝生の上で行われた。
「日本では冬芝は枯れる」という常識を覆したのである。
現在ではプロ野球常打ちの天然芝球場はもちろん、有名な競技場は全て常緑の芝生になっているが、始まりは甲子園だったのだ。
これは日本のスタジアムの歴史を変えた、甲子園の偉大な功績と言える。
1984年(昭和59年)、甲子園は60歳、つまり還暦を迎えた。
ということは、甲子園が完成した甲子(きのえね)の年となったわけである。
この年、甲子園は装いを大きく変えることとなった。
スコアボードが電光掲示板になったのである。
電光掲示板には反対の声も大きかった。
甲子園のスコアボードは、あの独特の明朝体が情緒を醸し出すので、電光掲示板になったら味気なくなるだろう、というわけである。
特に高校野球では、チーム名や選手名は印刷ではなくペンキで書くため、雨が降ると名前部分が消えて、それがかえって名物になっていた。
スコアボードが手書きから電光掲示板になる際に、反対意見が出る球場も甲子園ぐらいだろう。
しかし、高校野球の大会のたびに700名もの選手名を書きこむのは、裏方さんにとって大変な作業である。
電光掲示板化はもはや、避けられない状況となった。
電光掲示板となると、スコアボード内には巨大な電気機器が入るため、従来のスコアボードよりも巨大になったが、黒地の軍艦型という形はそのまま残された。
さらに「黒板にチョーク」というイメージを守るため、世界で初めて白色ブラウン管を採用。
字体も電光掲示板特有の味気ない形ではなく、手書き時代と同じく明朝体で表示された。
この年の春のセンバツで、電光掲示板となったスコアボードが披露された。
新スコアボードは最先端の技術を駆使しながら、見事に手書き時代の伝統を残していた。
電光掲示板化に反対していた人も、手書き時代のイメージが残ったままだったので安心しただろう。
「伝統を残しつつ進化する」という道を選んだ甲子園の大勝利である。
得点表示の下の部分、手書き時代は他球場の途中経過が示されていた部分はフリーボードとなり、カラーではないものの白色のアニメーションが流されていた。
白色ブラウン管は電気消費量が少ないということで、その後は電光掲示板の主流となった。
ここでも甲子園がさきがけとなったのである。
なお現在では、スコアボードの左右両面がフリーボードとなり、LED表示でもちろんカラー、VTRなどの映像も流れるようになった。
ちなみに、手書きスコアボード時代の最後の夏の甲子園大会が行われたのは1983年(昭和58年)。
この大会でPL学園の1年生コンビ・桑田真澄と清原和博が颯爽と甲子園デビュー、見事優勝を飾った。
決勝戦に進出したPL学園と横浜商業の選手に対し、それぞれの名前が刻まれたスコアボードのネームプレートがプレゼントされたという。
なお、阪神やビジター選手のネームプレートは現在、甲子園歴史館に展示されているので、ぜひ行って見てみることをお勧めする。
スタンドの座席も何度も改修された。
元々は60,000人とされていたのが58,000人になり、その後も55,000人、53,000人と移り変わり、現在では47,757人となっている。
つまり、より多くの人を詰め込んで窮屈な思いをさせるよりも、広くゆったり観戦できるというサービスを選んだのだ。
それでも、野球場としては未だに日本一の収容能力を誇っている。
スタンド改修で、あるものを変更しようとする計画もあった。
記者室の設置である。
プロ野球の本拠地球場には冷暖房完備の記者室があるが、甲子園は大銀傘があるため雨の影響を受けないということで、観客席と同じくオープンエアであり、記者室ではなく単なる記者席だ。
これでは春は寒いし夏は日影とはいえ暑いし、記者さんも大変だろうということで、他の球場並みにエアコンが効いた記者室を造ろう、と配慮された。
ところが他ならぬ記者たちが、この改善案に反対した。
甲子園の風と大歓声を直に感じるからこそ、いい記事が書けるというのが、記者連中の主張だった。
せっかく待遇改善しようというのに、それを断るのも甲子園の持つ魔力ゆえだろうか。
1988年(昭和63年)、前年に取り壊された後楽園球場に代わり、日本初の全天候型球場となる東京ドームが完成した。
東京ドームの登場は、単なるドーム時代到来というだけではなく、日本の球場が広くなるということを意味していた。
後楽園球場は両翼90m、中堅120mで公認野球規則の基準を満たしていなかったのに対し、東京ドームは両翼100m、中堅122mでクリアしていた。
ちなみに公認野球規則では、望ましい広さとして両翼320フィート(約97.5m)、中堅400フィート(約121.9m)以上と謳われている。
メジャーリーグの球場は概ね両翼100m、当時の日本の球場は91mぐらいで、広さの差は明らかだった。
これは前述したようにホームランを増やして客を呼ぼうという戦後の日本プロ野球の方針だったが、球場の狭さが日本野球を退化させる、と言われるようになった。
メジャーリーガーが来日した際、日本の球場を見て、
「なんだ、この狭い球場は?こんな球場でホームランを量産していたのなら、サダハル・オーのホームラン世界記録も大したことがないな」
と言われるのが常だったのである。
日本でも、東京ドーム以外にもメジャーリーグ並みの両翼100m級の球場が次々に建設されるようになって、甲子園でもラッキーゾーンはもう必要ないのではないかという意見が大きくなった。
そして遂に1992年(平成4年)のシーズンから甲子園名物だったラッキーゾーンが撤去され、元の「広い甲子園」に戻ったのである。
両翼は91mから96mに拡げられ、中堅は変わらないものの120mの球場となった(のちにこの数字が誤りであることがわかり、現在では両翼95m、中堅118mとなっている)。
「なんだ、それでも公認野球規則の基準を満たしてないじゃないか」と言われるかもしれないが、左・右中間が108.5mから118mと大幅に拡がった。
これは同110mの東京ドームより遥かに広く、ホームランの出にくい球場となったのである。
ラッキーゾーンが撤廃されたこの年、甲子園はまたもやとんでもない奇跡を起こした。
1985年(昭和60年)、初の日本一になった阪神は、その年以降ずっと低迷していた。
しかしラッキーゾーンがなくなって甲子園が広くなったこの年、阪神は投手力を全面に押し出して快進撃を続けた。
ヤクルト・スワローズ(現在の東京ヤクルト・スワローズ)とシーズン終盤まで激しく首位争いを繰り広げ、9月11日に甲子園でヤクルトとの首位攻防戦が行われた。
3−3で迎えた9回裏、阪神は二死一塁で八木裕がレフトオーバーのホームランを放ち、見事なサヨナラ勝ち。
ところがヤクルト側からクレームがつき、打球はラバーフェンスの上部に当たってスタンドに入ったとして、エンタイトルツーベースとなって得点は認められず、二死二、三塁からのゲームスタートとなった。
結局、この回に阪神は得点を取れず、日付が変わっても試合が行われ、6時間26分というプロ野球最長時間となり、当時の規定で延長15回引き分け、後日再試合となったのである。
もし前年までのようにラッキーゾーンがあれば文句なしのホームランだったし、ホームランとはならなくてもラバーフェンスに跳ね返った打球がスタンドではなくフィールドに落ちていればインプレーとなって、カウントが3ボール2ストライクだったので一塁走者はホームインして、阪神のサヨナラ勝ちになっていただろう。
この後のペナントレースでもデッドヒートを繰り広げた阪神とヤクルトだったが、最終戦の甲子園でヤクルトが阪神を破り、セ・リーグ優勝を果たした。
もし、ラッキーゾーンがあれば八木の打球はサヨナラホームランだったし、阪神が優勝していただろう。
甲子園に居座る野球の神様は、時に想像を絶する演出をしてくれる。
翌1993年(平成5年)、甲子園にとんでもない計画が持ち上がった。
甲子園球場のドーム化である。
この年で70歳となる甲子園は昭和50年代から延命工事を続けてきたが、老朽化は如何ともし難く、耐用年数はあと15年程度とされた。
そこで赤字続きの阪神パークを取り壊し、その跡地に新・甲子園球場を建てようというわけだ。
しかも当時の日本はドーム球場の建設や計画がラッシュしており、これからの時代はドームだ、という風潮が蔓延していたため、甲子園もドーム化すべきという意見が阪神電鉄内であったようだ。。
アメリカではとっくに人工芝やドーム球場は時代遅れの遺物となっていたのに、日本の野球は15年は遅れている。
それなのに甲子園をドーム化するという発想が恐ろしい。
当時の阪神電鉄内部は、先人達が残してきた偉大なる遺訓をどう考えていたのだろう。
しかし皮肉にも、2年後の大惨事のおかげで、甲子園ドーム化計画は立ち消えになった。
1995年(平成7年)1月17日、阪神淡路大震災が勃発。
阪神地方を襲ったこの大地震により、多くの建物が倒壊した。
ところが震災の中心地にある甲子園は、スタンドの僅かなひび割れなどが見つかった程度で、無事が確認された。
2ヵ月後には春のセンバツまで開催されたのである。
甲子園を救ったのは、大正時代の蓬川と申川にあった良質な砂利だった。
この砂利のおかげで強固なコンクリートを製造でき、甲子園の土台をしっかりと支えた。
以前に甲子園が僅か5ヵ月で完成したのは、蓬川と申川の跡地だったということで、コンクリートの原料となる砂利がタップリあったためだ、と書いたが、それだけでなく蓬川と申川の砂利は甲子園をあらゆる災害を守り抜いた。
甲子園はこの良質な砂利のおかげで、戦時中のB29による焼夷弾攻撃や、70年も経った平成の世の阪神大震災にも見事に耐え抜いたのである。
甲子園が別の場所に建てられていれば、その姿はとっくに見られなくなっていたかも知れない。
阪神大震災やバブルの崩壊もあって阪神電鉄は事業計画を見直し、甲子園ドーム化計画は白紙撤回された。
阪神大震災が起こったのは、甲子園ドーム化に対し野球の神様が怒ったからだろうか。
甲子園ドームが建設されるはずだった(?)阪神パークには大型商業施設が造られることになり、現在では「ららぽーと甲子園」というショッピングセンターになっている。
そして甲子園は3期に分けてリニューアル工事されることになった。
その際、もはや甲子園のドーム化はない、という方針が決められた。
ようやく甲子園の価値が見直されたのである。
2007年(平成19年)のオフシーズンからリニューアル工事が始まった。
翌年3月に第1期リニューアル工事が完了した時、視察に来ていた巨人の滝鼻卓雄オーナー(当時)が、
「やっぱりオープンエアの球場はいいねえ。ウチの本拠地の東京ドームも屋根を取っ払ってしまいたいけど、レンタルだからそうはいかなくてねえ。自前の球場を持っている阪神さんが羨ましい」
と、ため息をついていたのが印象的。
やはり甲子園をドーム化してはならなかったのだ。
日本にドーム球場が乱立し、天候に左右されず観戦できるのはいいのだが、やはりドームは息苦しさを感じるし、かえって野外球場の良さが見直されたのだろう。
2010年3月にはリニューアル工事が全て完了、新しい甲子園に生まれ変わった。
いちばん変わったのは第2期工事に吹き替えられた大銀傘だろう。
戦前のようにアルプス席まで覆うような大きさではないものの、内野席は全て屋根で覆われた。
さらに観戦するのに邪魔だった柱は後方のみになり、ぐっと見易くなった。
これは照明灯も同じことで、スタンド内に柱がなくなり、スタンドの外から照明灯が建てられた。
前述したが、座席もゆったりして、快適な観戦ができる。
スタンド内部も一新され、飲食店が充実して、食べ歩きだけでも楽しめるようになった。
唯一、工事のために蔦が伐採されたのだけが残念だが、いずれ甲子園の外壁を覆うことになるだろう。
最後に、甲子園に注文があるとすれば、内外野の総天然芝化か。
ご存知のように、甲子園の芝生は外野のみで、内野部分は黒土である。
「それが甲子園らしくていいんだ。選手が泥まみれになって球を追う姿は感動する」
という意見もあるだろうが、やはり世界的に見れば遅れた球場と言わざるを得ない。
アメリカには内野が土だけの球場なんてないし、お隣りの韓国でも天然芝球場では内野にも芝生を植えるのが主流となっている。
内野が土だけというのは、もはや日本のみになりつつあるのだ。
野球先進国・日本がそんな状態ではあまりにも寂しい。
実は、甲子園でも内野の芝生化は検討されていた。
しかしネックとなったのは、高校野球でのメンテナンス面。
連日3〜4試合もやっていれば芝生は荒れるだろう、ということだ。
抜群のグラウンド整備を見せる阪神園芸でも、これだけはお手上げか。
しかし例えば、開催期間を延長して1日2試合までとする、というのはどうだろう。
そして準決勝か決勝の前の1日をオフとし、芝生の養生に充てる。
その期間、タイガースが甲子園を使えなくなるが、近くにはほっともっとフィールド神戸という素晴らしい球場があるのだから、これをもっと活用すればいいのだ。
死のロード中は京セラドーム大阪を使うことが多いが、こちらはオリックスの持ち物なので簡単に借りることはできまい。
でも、ほっともっとフィールド神戸なら今は本拠地として使っている球団はないので、利用しない手はないだろう。
何よりもこの球場も、内外野総天然芝の球場だ。
この美しい球場を放っておくのはあまりにももったいない。
これは単なる一例で、もっと他にいい方法があるかも知れない。
筆者が内外野総天然芝球場にこだわるのは、美しさももちろん、野球レベルに関する問題もある。
世界的な主流が総天然芝なのだから、国際大会で総天然芝に慣れていなければ、苦戦することも多いだろう。
メジャーリーグで日本人内野手が苦労しているのは、人工芝や土のグラウンドに慣れてしまっていることと無縁ではない。
内野手のレベルを上げるためにも、総天然芝球場が日本にも増えて欲しいものだ。
阪神甲子園球場は、世界に誇れる日本の野球文化を象徴する球場だ。
それだけに、世界のどこにでも通用する球場になってもらいたい。
「伝統を守りつつ進化する」甲子園本来の姿勢があれば、絶対に可能なはずである。
<おわり>