12月16日に衆議院総選挙を控え、橋下徹・大阪市長の国政に対する動きが注目されている。
「大阪から日本を変える」というのが橋下市長のスローガンだが、大阪も随分偉くなったものである。
元々大阪と日本は仲が悪い、というか、ことごとく国に反抗してきたのが大阪という土地柄だった。
それが最も如実に現れているのが、駅名である。
大阪市交通局が運営する大阪市営地下鉄と、かつては国が保有していた旧国鉄のJR西日本の駅では、同じ場所にあっても違う駅名であることが非常に多いのだ。
大阪は私鉄王国と呼ばれ、各私鉄は国鉄に反抗する形で路線を伸ばしてきたのだから仲違いするのもわかるが、公営同士の大阪市交通局と国鉄までもがずっと仲が悪かったのである。
逆に、同じ駅名ながら違う場所にある、なんていう駅もあるぐらいだ。
そんな、JR西日本と大阪市営地下鉄の天邪鬼的な駅をいくつか挙げてみよう。
●JR西日本 大阪駅(東海道本線、大阪環状線) 北新地駅(JR東西線)
●大阪市営地下鉄 梅田駅(御堂筋線) 東梅田駅(谷町線) 西梅田駅(四つ橋線)
俗に「キタ」と呼ばれる梅田地区は、大阪はおろか西日本最大の繁華街であり、駅でもJR西日本の大阪駅、北新地駅、大阪市営地下鉄の梅田駅、東梅田駅、西梅田駅の他に、私鉄である阪急電鉄の梅田駅、阪神電気鉄道の梅田駅を合わせると7つもの駅(JR貨物の梅田駅を含めると8つ)が集中するハイパー・シティだ。
そもそも大阪駅という旧国鉄が定めた中心駅としての駅名があるのに、他の私鉄や公営地下鉄がそれに逆らった駅名を付けているなどという奇妙キテレツな都市は、日本広しと言えども大阪市だけだ。
JRの東京駅でも名古屋駅でも乗換駅は、他の私鉄や公営地下鉄は鉄道会社名が冠に付くことはあっても、あくまでも東京駅、名古屋駅と名乗っている。
そんな大原則に逆らった大阪の特殊性が、大阪と日本の仲の悪さの根源だ。
1869年(明治2年)、アメリカの商社が大阪外国事務局に対し、大阪―神戸間の鉄道敷設を請願した。
もちろん大阪府側は大賛成だったが、明治政府は「鉄道敷設は政府主導で行う」として大阪府の申し出を却下した。
3年後の1872年(明治5年)に、アジア初の鉄道として東京(新橋駅)―横浜間が政府主導により開通。
それから遅れること2年、1874年(明治7年)に大阪―神戸間の鉄道が、もちろん政府主導により開通したのである。
大阪側のターミナルの駅名は当然ながら大阪駅となったが、明治2年の時の恨みを忘れていない大阪府は「梅田ステンショ」と呼ばせたのである。
つまり、大阪×日本の戦争は明治維新早々に始まっていたのだ。
そして現在の橋下大阪市長が「大阪維新の会(現在は「日本維新の会」)」を立ち上げたのも面白い。
なお、「梅田」という地名は、元々は「田んぼを埋めた」という意味に由来する「埋田」であり、そこに佳字を当てて「梅田」になった。
大阪駅完成当時の梅田地区は、大阪中心部からは離れた、寂しい田園地帯だったという。
明治の中頃、私鉄各線が大阪中心部に路線を伸ばそうとしていた。
しかし、大阪市は利権を守るために「大阪中心部は市営交通が担う」というモンロー主義を掲げて、私鉄の乗り入れを簡単には許可しなかった。
しかし、どうしても大阪駅周辺に乗り入れたい場合は「梅田駅と名乗れ」と私鉄各社に言い渡したのである。
1906年(明治39年)、阪神が梅田地区に進出して梅田駅を設置、1910(明治43年)には阪急も梅田駅を建設した。
大阪市は1908年(明治41年)に路面電車の大阪市電を大阪駅近くまで乗り入れたが、当然のことながら「大阪駅前」などとは名乗らず「梅田停留場」とした。
1933年(昭和8年)、大阪市は日本初の公営地下鉄を敷設、大阪駅近くにある始発駅はもちろん梅田駅と名乗った。
梅田駅―心斎橋駅を走ったこの路線は、現在の御堂筋線である。
戦後、御堂筋線の混雑は限界に達し、バイパス的路線として谷町線と四つ橋線が開通、谷町線には東梅田駅、四つ橋線には西梅田駅が設置された。
つまり、大阪市交通局は大阪駅付近に梅田駅、東梅田駅、西梅田駅という3つの駅を持っており、改札はそれぞれ別なので別駅扱いだが、30分以内を条件にそれぞれの駅への乗り継ぎが可能だ。
JR西日本が大阪駅の他に、梅田地区に保有するもう一つの駅がJR東西線の北新地駅である。
北新地駅は1997年(平成9年)に出来た新しい駅で、地下駅となっている。
大阪駅とは改札が別なのでやはり別駅扱いだが、一定の条件を満たせば乗り継ぎすることができる。
なお、JR東西線とは当ブログでも何度か書いたように、第三セクター会社の関西高速鉄道が敷設した路線であり、日本で初めて「JR」が冠に付いた路線名でありながら、線路を保有しているのはJR西日本ではなく関西高速鉄道だ。
以上のような複雑な事情が絡み合って、梅田地区は1つの地区に5つもの駅名が乱立するようなややこしい事態になったのである。
しかも、この7つの駅は乗り換えエリアではあるが、最北端である阪急の梅田駅から最南端の北新地駅までは1駅間分ぐらいの距離があり、乗り換えには不向きだ。
◆大阪市営地下鉄 玉川駅(千日前線)
野田地区は、乗換駅が違う駅名であるばかりか、同じ駅名でも違う場所にある、という、ややこしさが混在する地域である。
JR西日本の海老江駅、大阪市営地下鉄の野田阪神駅、阪神電気鉄道の野田駅が一つ目の乗り換えエリア。
二つ目の乗り換えエリアは、JR西日本の野田駅、大阪市営地下鉄の玉川駅だ。
まずは同じ駅名ながら違うエリアの、JR西日本の野田駅と、阪神電気鉄道の野田駅から説明しなければなるまい。
先に出来たのはJRの野田駅で、1898年(明治31年)に西成鉄道の駅として開業、1906年(明治39年)に西成鉄道の国有化によって国鉄の駅となった。
阪神の野田駅は1905年(明治38年)に開業したが、西成鉄道の野田駅とは500mほど離れていたにもかかわらず、同じ駅名としてしまった。
普通なら「阪神野田」などとしそうなものだが、変なプライドがあったのか社名を冠に付けることはなかった。
ややこしさの全ての根源は阪神の頑固さにある。
1969年(昭和44年)、地下鉄千日前線が開通し、乗り換えが不便だった「両・野田駅」に待望の接続路線が通じた。
ところが、この際の駅名が問題だった。
地下鉄の駅名を二つとも「野田駅」とするわけにはいかない。
そこで、国鉄の野田駅との接続駅を玉川駅とし、阪神の野田駅との接続駅はなんと野田阪神駅となったのである。
大阪人がしばしばネタにし、それでいて誰もが謎に思う「野田阪神」という駅名は、どこから付いたのだろう。
阪神電鉄の駅名を「阪神野田」とはせず、大阪市営地下鉄の駅を「野田阪神」とするのはどう考えてもおかしい。
その鍵は、地下鉄開通前の大阪市電にあった。
1918年(大正7年)、阪神の野田駅近くに大阪市電の電停が設置されたが、その名前が「野田阪神電車前」だった。
つまり、国鉄の野田駅と区別するため、わざわざ「阪神電車」と駅名に付けたのであるが、電停ではよくあることである。
その後「電車」が取れて「野田阪神前」となり、やがて「前」も取れて「野田阪神」という名前が定着した。
現在でもバス停や交差点名まで「野田阪神前」という名称になっているぐらいである。
1997年(平成9年)に開通したJR東西線に、阪神の野田駅と地下鉄の野田阪神駅の乗換駅が設置されることになったが、駅名が問題になった。
もちろん、既にJRで使用している野田駅にするわけにはいかず、地名としても定着した「野田阪神駅」にするという案もあった。
もし「野田阪神駅」になっていれば、旧国鉄のJRが他社私鉄の会社名を駅名に使うという、前代未聞の珍事になるところだった。
関東の私鉄では、京成電鉄が「国鉄千葉駅前駅」というプライドのカケラもない駅名を使用したことがあったが(国鉄がJRになって以降は「京成千葉駅」)、これはあくまでも私鉄が国鉄を奉った形であり、旧国鉄のJRが私鉄に屈することなど本来あり得ない。
さすがにそんなことはできず、JR東西線は地名から取った海老江駅となり、乗り換えエリアの3つの駅が全て違う駅名となってしまったのである。
そして、国鉄(現・JR)の野田駅の接続駅となった地下鉄千日前線の駅は玉川駅という、野田駅とはエンガチョの駅名となった。
なお、阪神電鉄は野田誠三という人物が社長・会長となったことがあるが、それと「野田阪神」とは全く関係がない。
また、プロ野球では「原巨人」のように、監督名の後にチーム名を付けることがよくあるが、阪神タイガースの元投手である野田浩司が阪神の監督に就任すれば「野田阪神」と呼ばれる、というのは大阪でよく聞かれるジョークだ。
JR西日本の天満駅と大阪市営地下鉄の扇町駅は、乗り換え可能だが完全にくっついているわけではないので、駅名が違っても不思議ではないのかも知れない。
先に出来たのは天満駅の方だが、なぜこんな駅名になったのかは疑問符が付く。
確かに駅周辺に「天満橋」という地名はあるのだが、実際に同名の橋は遥か南にあり、そちらの方がずっと有名だ。
この点については後に述べる。
地下鉄の扇町駅は、すぐ近くに扇町公園があり、大阪では有名な公園なのでこの駅名は頷ける。
また、現在では目の前に関西テレビがあるので、その最寄駅としても有名だ。
地下鉄堺筋線で扇町駅より一つ南にある南森町駅は、もちろん地名が由来。
しかし、1997年(平成9年)に開通したJR東西線の駅名は「南森町駅」とはせず、大阪天満宮駅とした。
もちろん、大阪の名所である「大阪天満宮」を駅名にしたい、ということもあったのだろうが、利用客の利便性を考えると「南森町駅」にすべきだろう。
しかし、あえて大阪市営地下鉄と同じ駅名を避けたのは、JRの意地と思えてならない。
その根拠は前述した通りで、大阪市はことごとく国鉄に反発してきた歴史があるからだ。
しかも同じJRには、離れた場所に天満駅という紛らわしい駅名があり、遠方から来た乗客は混乱するかも知れない。
そう考えると、この駅名の付け方はいささか利用者無視とも言える。
ところで、大阪市内には「天満」と付く駅名が離れた場所に3ヵ所もある。
前述の、JRの大阪環状線の天満駅にJR東西線の大阪天満宮駅、そして地下鉄谷町線および京阪電気鉄道の天満橋駅だ。
全く違う所に似たような駅名が3つもあれば、大阪以外の人は混乱するだろう。
この界隈は他の地区とはやや事情が異なる。
先に出来たのは国鉄(現・JR西日本)の新今宮駅ではなく、大阪市営地下鉄の動物園前駅だからだ。
動物園前駅が開業したのは戦前の1938年(昭和13年)とかなり古い。
駅名にある動物園とは、天王寺動物園のことである。
一方、国鉄の新今宮駅が開業したのは、時代はグーンと下って1964年(昭和39年)のこと。
駅が誕生した理由は、大阪環状線と南海電気鉄道との乗換駅を設置するためだ。
2年後の1966年(昭和41年)には南海にも新今宮駅が完成し、利便性が格段に良くなった。
ただ、位置関係で見ると、国鉄の新今宮駅を挟んで、西に南海の新今宮駅、東に地下鉄の動物園前駅となっており、南海の新今宮駅と地下鉄の動物園前駅はかなり離れているので、乗り換えには適さない。
従って、駅名が違った方がかえって良かったのである。
なお、このエリアには他にも阪堺電気軌道の南霞町駅という電停の乗換駅がある。
こちらは同じ駅名ながら、全然離れた場所にあるという、非常に迷惑なケース。
「JRで平野駅に行って、そこから地下鉄の平野駅で乗り換えて……」なんて考えていると酷い目に遭う。
何しろJR西日本の平野駅と大阪市営地下鉄の平野駅では、1.2kmも離れているのだから。
先に出来たのはJRの平野駅で、開業は1889年(明治22年)と非常に古い。
一方の地下鉄の平野駅が開業したのは1980年(昭和55年)と、実に1世紀近い歴史の差がある。
これはどう考えても悪いのは地下鉄の平野駅の方で、混乱を避けるためにも大阪市交通局は違う駅名にすべきだった。
ところが、事情はそう単純ではなかった。
地下鉄の平野駅は、谷町線の八尾南駅への延伸の時に出来た駅で、それまではこの近辺には南海平野線が走っていた。
谷町線延伸のために南海平野線は廃線になったのである。
南海平野線にも平野駅があり、地下鉄の平野駅はその代替駅なのだ。
つまり、新しく出来たからといっても、地下鉄の方にも平野駅という駅名ににする理由がちゃんとあったのである。
じゃあ、南海平野線が、国鉄とかぶる「平野駅」という名称を使わなければよかった、と思われるだろう。
だが、「平野線」と名乗る以上は終着駅も「平野駅」としたいのは当然である。
それに「南海平野線」と聞くと、いかにも大手私鉄の 立派な路線と思われるかも知れないが、実は路面電車だったのだ。
つまり南海平野線の平野駅は電停だったわけで、国鉄の平野駅と間違える人は少なかったと思われる。
ちなみに、大阪に現存する唯一の路面電車である阪堺電気軌道は、南海平野線のように南海電気鉄道の一部だった時期がある。
南海には路面電車が結構多かったのだ。
そんな経緯で誕生した地下鉄の平野駅、JR西日本にとっては面白くないだろうが、やむを得ない点も多いのだ。
なお、平野区の中心駅はJRではなく地下鉄の平野駅となっており、平野区役所も地下鉄の平野駅が最寄駅である。