最近、世間を騒がせたものと言えば、プロ野球・読売巨人軍の球団代表兼ゼネラルマネージャー(GM)である清武英利が、同球団の会長である通称ナベツネこと渡邊恒雄に対し反旗を翻したことであろう。
渡邊は清武に対し大反論し、清武もまたやり返すという、泥仕合の様相を呈してきた。
日本シリーズが開催される前日だっただけに、なぜこの時期に清武がこんな発言をしたのかはわからないし、どちらが悪いかは軽々には言えないが、独裁者とも思える渡邊に反抗したというだけでも、相当な覚悟と勇気がいったことだろう。
何しろ渡邊は、単に巨人軍の会長というだけでなく、読売グループ全体の会長なのだから。
ただし、渡邊にタテついたのは清武が初めてではない。
1987年、読売新聞大阪本社の社会部長だった黒田清が渡邊と対立、退社を余儀なくされた。
黒田が所属していた読売新聞大阪社会部と言えば「日本最強の社会部」と言われ、黒田軍団と恐れられたグループを形成し、その記者の中には現在もジャーナリストとして活躍している大谷昭宏もいた。
しかし東京政治部の渡邊とは意見が合わず、黒田や大谷らは読売新聞を去り、黒田軍団は消滅した。
もっとも、これは巨人とは何の関係もなく、また渡邊も社長でもなんでもなかったのだから今回の件とはだいぶ違うが、それでも日本最強の黒田軍団を解体してしまったのだから、既に権力は持っていたのだろう。
ちなみに黒田は読売新聞にいながら大のアンチ巨人で、阪急ブレーブス(現、オリックス・バファローズ)のファンだったという(大谷は巨人ファン)。
それより前のこと。
1980年秋、巨人は長嶋茂雄監督の解任問題で大揺れに揺れていた。
Aクラスなら留任、Bクラスなら解任と囁かれていたが、長嶋巨人は最終戦に勝って3位に滑り込み、Aクラスを確保したため留任するだろうと言われていた。
ところが……。
当時のオーナーである正力亨と、代表の長谷川実雄の間でも、長嶋留任を決めていた。
そして二人は、読売新聞社名誉社長だった務台光雄にシーズン終了の報告に行った。
別に報告なんてしなくても、シーズンの成績なんて務台にもわかっていると思うのだが、そういうしきたりなのだろう。
長谷川がシーズン報告すると、務台が言った。
「来年も長嶋でいいのか?」
務台にそう言われると、正力亨も長谷川も急速に自信を失っていった。
ひょっとして名誉社長は、長嶋続投を望んでいないのではないか?
二人ともヘビに睨まれたカエルの如く視線を落とし、口をつぐんだままだった。
業を煮やした務台は言い放った。
「わかった、長嶋ではダメなんだな。後任監督は私が決める」
務台の鶴の一声で長嶋解任が決まってしまった。
務台と言えば、かつてのカリスマ社長であった正力松太郎の片腕として、弱小だった読売新聞社を日本一の新聞社に育て上げた功労者だ。
当時の読売新聞社内に、務台に対して意見を言える人は一人もいなかったのだ。
正力松太郎の実子であり、栄光の巨人軍オーナーだった正力亨ですら、務台の前では何も言えなかった。
正力亨が自信を持って「来年も長嶋でいきます」と言えば、務台も反対しなかっただろうと言われる。
カリスマ社長の御曹司でありながら、そのたった一言すら言えなかったのだ。
それに比べれば、一介の球団GMに過ぎない清武の度胸は称賛に値するだろう。
この件を見ると、当時の務台は現在の渡邊以上の権力があったと思われる。
いずれにせよ、読売グループらしいエピソードではある。