スコットランドを破ったジャパンだったが、それが最大の目標ではなかった。
宿沢ジャパンのターゲットはアジア・太平洋地区予選であり、これを勝ち抜いてW杯に出場しないと、スコットランドに勝った意味は無くなる。
スコットランド戦の僅か3ヵ月後、宿沢は日本選抜(日本代表に準ずるチームのこと。今でいう日本A代表)の西サモア(現・サモア)及びトンガ遠征を行うことを決めた。
アジア・太平洋地区予選は日本、韓国、トンガ、西サモアの4ヵ国による1回戦総当たりリーグ戦で行われ、W杯出場枠は2ヵ国。
つまり、韓国、トンガ、西サモアから2勝しなければ、W杯には出場できないのだ。
韓国とはアジア大会で何度も戦っており、手の内は知り尽くしているが、現在と違ってパシフィック・ネイションズ・カップなど無かったこの時代、トンガと西サモアは全くの未知なる国だった。
この頃のジャパンの目標はヨーロッパ五ヵ国(イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランス)のみに向けられており、南太平洋に浮かぶ小さな島など眼中に無かった。
しかし、事情は変わった。
韓国に勝つとしても、トンガと西サモア、どちらかから少なくとも1勝をあげないとW杯には出場できないのだ。
勝つためには、両国のラグビーがどんなものか、知る必要がある。
もちろん、これには大きなリスクもある。
相手のことを知ることができる反面、ジャパンの手の内もさらけ出してしまうからだ。
だからこそジャパンではなくBチームを送り込むのだが、それは相手とて同じこと。
当然、正代表とは試合をさせず、Bチームで戦わせる方針だ。
しかし、それでも構わないと宿沢は思った。
W杯があろうと無かろうと、ヨーロッパや南半球(ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ)とは全く違う戦法を持つ相手と試合をすることは、それだけでも有意義ではないのか?
そして、この南太平洋の国のレベルが恐ろしく高いことは、第一回W杯で証明されていた。
南太平洋のラグビー強国はトンガ、西サモアとフィジーがあり、この三国でテストマッチを繰り返して、その実力は三国ともほぼ互角と言われていた。
BKの変幻自在な動きで敵のディフェンスを撹乱する「フィジアン・マジック」ことフィジー。
強力FWを全面に押し立てて、力任せにただただ前へ突進するトンガ。
FWとBKのバランスの良い布陣で「ミニ・オールブラックス」とも言われた西サモア。
第一回W杯では予選は行われず、南太平洋からはフィジーとトンガが選抜出場し、西サモアは選から漏れた。
フィジーはW杯でも大暴れをして、見事にベスト8に残り、世界のラグビーファンにフィジアン・マジックを印象付けた。
第二回W杯では前回8強として、予選なしの優先出場が決まっていた。
つまりフィジーは、今回のアジア・太平洋地区予選には参加しない。
1989年8月、宿沢は日本選抜を率いて西サモア入りした。
筆者は子供の頃「サモア島の歌」という歌が好きで、この常夏の島に想いを馳せていたことを憶えている。
西サモアは東サモア(現・米領サモア)とは元々一体の王国だったが、19世紀末からの米・英・独の領土争いにより東サモアはアメリカ領となり、西サモアはニュージーランドの委任統治地域となった。
西サモアの国技がラグビーで、米領サモアではラグビーが行われていないのも、そういう事情があるからだろう。
現在では西サモアは「サモア独立国」という名称になっている。
西サモアでは1勝1敗だった。
初戦は西サモア選抜と戦い、完敗。
二戦目は地域代表と戦い、完勝。
しかし、宿沢の胸には西サモアの底知れぬ強さがヒシヒシと伝わった。
FWのパワーはIRB8ヵ国に勝るとも劣らず、BKのレベルも世界に通用する実力があった。
なぜこの国が第一回W杯の選から漏れたのだろう。
試合中は激しく戦っていても終わってしまえばノーサイド、南国の地でレセプションが行われた。
南太平洋の小国にとって、日本のラグビーチームが来るということは大変なことで、まさに国を挙げての歓迎ぶりであった。
宿沢は西サモア代表の団長と話をしたが、西サモアのW杯に対する想いは強烈だった。
「日本も西サモアと共にW杯に出よう。そしてヨーロッパのビッグチームを倒そう」
宿沢の手を強く握って、熱く語りかけた。
西サモアのラグビー選手は、ニュージーランドやオーストラリアに出稼ぎに行っているが、アジア・太平洋予選には彼らを呼び戻し、ベストメンバーを組むという。
第一戦で戦った西サモア選抜に、海外で活躍する選手を加えたらどんなチームになるのだろう、宿沢は背筋が凍る思いがした。
余談だが、第一戦の試合中にハプニングが起きた。
リザーブだったSHの村田亙(専大)がベンチで突然七転八倒で苦しみだし、救急車で運ばれた。
どうやら、前日のレセプションで生焼けの鶏肉を食べたために、食あたりを起こしたらしい。
リザーブの選手が救急車で運ばれるなんて前代未聞。
観客はわけもわからず村田に拍手を贈った。
日本選抜のSHは村田と渡辺晴弘(本田技研鈴鹿)だけ。
もし渡辺が怪我をしたら、チームで唯一SH経験がある自分が試合に出なければならないのか?と宿沢は覚悟したという。
西サモアを後にした日本選抜は、一路トンガに向かった。
トンガとはこれまでテストマッチをしたことが無かったとはいえ、西サモアほどの「未知の国」ではなかった。
日本ではノフォムリ、ラトゥ、ナモアといったトンガ出身の選手が活躍していたのだ。
また、トンガのツポウ国王は親日家で、日本相撲協会に有望な大男を送り込んでいた。
しかし、異国では考えられない事態も起きる。
西サモア人もそうだが、トンガ人はそれ以上のキリスト教信者で、試合も安息日の日曜日を避け、月曜日に行われた。
それ自体はいいのだが、試合前日の日曜日にブラブラしているわけにもいかず、練習をさせてくれと頼んだが、安息日に運動をしてはいけないという。
どうしても練習をしたいのなら無人島に行ってやってくれと言われたが、さすがにそこまではできず、結局ホテルの庭でグリッド程度の軽い練習に留まった。
試合は、トンガ・プレジデントXV(フィフティーン)が完勝し、トンガパワーが目立った試合だった。
ただ、西サモアと違う点は、トンガは他国で活躍する選手を呼び戻すことはなく、自国でプレーする選手のロイヤリティを尊重するという。
少なくとも、ラトゥやノフォムリを獲られる心配はない。
そして、このプレジデントXVをトンガ代表と想定できるなら、ジャパンはもっといい試合ができるだろう。
ツポウ国王は熱心に試合観戦し、トンガ協会の役員とあれこれ話をしていた。
初めて見る日本の素早いオープン攻撃に感嘆し、その対策を練っていたのだろう。
帰国後、ツポウ国王が日本代表のビデオを送ってくれ、と日本貿易振興会に頼んできたという。
そのことを伝え聞いた宿沢は、もちろんその申し出を断った。
いくら国王の願いでも、ダメなものはダメだ。
遠征を終えて、西サモアとトンガ、どちらに照準を合わせようかと迷った。
韓国に勝つとして、どちらかに勝たなければならない。
両方に勝つのが理想だが、安全策をとるためにはターゲットを絞ったほうが確率が高くなる。
宿沢は、トンガを第一目標に定めた。
両国の実力は互角だが、いちばん違ったのはW杯に対する熱意だった。
もちろん、トンガもW杯に出場したい想いは大きいのだが、それは西サモアの比ではない。
西サモアは第一回W杯に出場できなかった分、完璧に準備してくるだろうと思われた。
宿沢ジャパン平尾組は、トンガを狙うスナイパーとして、東京で待ち伏せしていた。
(つづく)