<前回からのつづき>
元号が平成に変わった1989年6月5日。
日本武道館では三冠(インターナショナル、PWF、UN)ヘビー級選手権、チャンピオンのジャンボ鶴田と、挑戦者の天龍源一郎とのタイトル・マッチが行われていた。
鶴田は必殺技のバックドロップやジャンボ・ラリアット、ジャンピング・ニー・パット、ランニング・ネックブリーカー・ドロップなどで、天龍の首を容赦なく攻め立てる。
これには伏線があった。
約1ヵ月前の4月20日、大阪府立体育会館で天龍はやはり鶴田の三冠ベルトに挑戦していた。
「鶴田を本気にさせる」という名目で始まった天龍革命、そしてこの日、天龍が放った逆水平チョップが鶴田の喉元へモロに入り、遂に鶴田がキレてしまったのだ。
鶴田は怒りに任せ、天龍の得意技であるパワーボムで高々と持ち上げ、天龍の後頭部をマットにめり込ませた。
泡を吹いて失神した天龍の惨敗。
本気になった鶴田は恐ろしく強かった。
首を痛めた天龍は1ヵ月以上の欠場を余儀なくされ、ようやく復帰して鶴田に再挑戦したのがこの日の武道館である。
天龍にとって絶対に負けられない背水の陣。
一方の鶴田は、天龍を負傷させたことを気にしていた。
プロレスとは、相手を怪我させることが目的ではない。
むしろ、怪我をさせることはレスラーとして失格だ、と鶴田は考えていた。
だから、鶴田は「相手を怪我させることなく勝つ」ということを信条としており、相手の力量に応じて技の出し方を変えていたのだ。
その判断に自信を持っていた鶴田だったが、天龍の激しい攻撃に対して我を忘れてしまったのである。
鶴田は、かつての盟友である天龍を怪我させて、しかも1ヵ月以上も欠場させてしまったことを申し訳なく思っていた。
それに対し天龍は、開始ゴング早々に放ったジャーマン・スープレックスで応えた。
ジャーマン・スープレックスとは、相手を持ち上げてブリッジするため、相手へのダメージが大きい反面、自分の首への負担も半端ではない。
「俺の首はもう大丈夫だ。リング上で起きたことをいちいち気にするな。前回みたいに全力で来い!」
それが鶴田に対するメッセージだった。
天龍のジャーマンで吹っ切れた鶴田は、前回以上に天龍の首を執拗に攻撃してきたのである。
鶴田の猛攻の前に虫の息となった天龍に残されていたのは、前回の対戦で鶴田にやられた必殺技のパワーボムしかなかった。
渾身の力で鶴田を持ち上げた天龍は、パワーボムを放つが、鶴田は恐るべきスタミナによりカウント2で跳ね返す。
しかし天龍の執念はもう一度鶴田を持ち上げさせ、パワーボム2連発を見舞った。
さしもの鶴田も二度のパワーボムを返す力はなく、3カウントが入る。
天龍革命が始まってからちょうど2年目、遂に天龍はシングル・マッチで初めて鶴田からピン・フォールを奪い、三冠王者となった。
リング下からはライバルのスタン・ハンセンがマットに上がり、倒れ込んだ天龍を抱き抱えて祝福する。
「阿修羅よ、見ていてくれたかい……」
ハンセンに両手を挙げられながら、天龍は心の中でそう叫んでいた。
しかしそこに、阿修羅・原の姿はなかった。
共に死力を尽くして闘ってきた天龍ですら、今の原がどこにいるのか全くわからない。
その年の暮れ、世界最強タッグ決定リーグ戦では、天龍はタッグ・マッチながらジャイアント馬場から日本人として初めてピン・フォールを奪った(馬場の新弟子時代を除く。なお天龍は、後年にシングル・マッチでアントニオ猪木からピン・フォールを奪い、日本人で唯一の馬場と猪木からピン・フォールを奪ったレスラーとなった)。
全日本プロレスでは、後楽園ホールはおろか日本武道館のような大会場でも満員は当たり前になり、地方でもファンが押し寄せるようになった。
天龍革命が始まってから2年半、その目的は達しつつあったのである。
にもかかわらず、天龍は満たされない思いが続いていた。
傍に原がいなかったからである。
さらに、全日本プロレスは人気にアグラをかくようになり、天龍を疎んじるような空気が流れていた。
阿修羅がいなくなった今、もう全日本プロレスに俺の居場所はないのか、天龍はそんな思いにとらわれてしまったのである。
翌1990年4月、天龍はメガネスーパーから誘いを受けた。
新プロレス団体SWS(メガネスーパー・ワールド・スポーツ)を設立するので、エースとして入団して欲しい、と。
全日本プロレスではもうやり尽くしたと感じていた天龍は、この誘いに乗って全日本プロレスを退社、SWSへの移籍を決めた。
大企業のプロレス界参入は黒船襲来と言われ、SWSは潤沢な資金により全日本プロレスから大量の選手を引き抜いた。
全日本プロレスは瀕死の状態に追い込まれ、一部マスコミはSWSのことを「金権プロレス」と呼び、天龍自身も「天龍は金で動いた!」「プロは金なのか!?」と大バッシングを受けたのである。
SWSは道場制を取り入れ、天龍は「レボリューション」の道場主となったが、寄せ集めで作ったSWSは3つの道場が一枚岩とはならず、マスコミによるバッシングの影響もあって、なかなか軌道に乗れなかった。
一方、主力選手が大量離脱して、エース級はジャンボ鶴田しかいなくなった全日本プロレスは「SWSに負けるな!」が合言葉になり、危機的状況から不死鳥のように甦ったのだ。
その中心となったのが、二代目タイガーマスクの仮面を脱いだ三沢光晴や、天龍同盟の魂を受け継いだ川田利明らの若手レスラーたちである。
三沢や川田は、鶴田やハンセンのような強敵にもひるまず向かっていき、どんな会場でも全力ファイトする姿がファンの共感を呼び、大ブームを巻き起こした。
これこそまさに、天龍革命が目指していた姿である。
田上明や小橋健太(後の小橋建太)も加わり、彼らのファイト・スタイルは「四天王プロレス」と呼ばれ、天龍が去ったあとに革命が成就したのは皮肉だった。
全日本プロレスの思わぬ逆襲に遭い、苦闘を続けるSWS。
天龍の心も晴れない日が続く。
そんな時、マスコミ各社の天龍番記者が、ある計画を思い付いた。
それは「阿修羅・原を探そう」というキャンペーンである。
プロレス記者たちが会社の枠を超えて協力し、それぞれのネットワーク網を駆使して原を探し出そうというのだ。
記者たちは紳士協定を結び、原を見つけてもスクープ報道はなしである。
解雇されたレスラーに対して、普通マスコミがここまでするだろうか?
見つけたところで、スクープはなしなのだから記者の手柄にはならない。
それでも見つけ出そうとするのは、原の存在がそれだけ大きかったということだろう。
もちろん、原に人間的な魅力があるからこそ、記者たちにこんな行動をとらせたのだ。
そんな時、「週刊ゴング」の記者だった小佐野景浩の元に情報が入った。
阿修羅・原は札幌にいる、と。
原の故郷である長崎とは正反対、北の大地である。
原は札幌にある知人の寿司屋で、住み込みで働いていたのだ。
寿司は握れなくても、ちゃんこ鍋は作れる。
原は寿司屋の二階で、ほとんど外出することもなくひっそりと暮らしていた。
それでも、プロレス記者たちの情報網は凄い。
「天龍に最も近しい記者」と言われた小佐野から、天龍にその情報が伝わるのは二日とかからなかっただろう。
天龍は北海道へ旅立った。
もちろん、原に会うためである。
2年9ヵ月ぶりの再会。
「源ちゃん、お情けだったらやめてくれ」
原はそう言った。
「そう思うか!?」
天龍は答えた。
「色々あったと思うけど、今まで一所懸命にやってきたことを捨て去る必要はない。もう一度、一緒にやろう!」
天龍は俺を必要としている。
その心意気だけで充分だった。
原は、再びリングに上がる決意を固めたのである。
原の借金はSWSが肩代わりしてくれた。
何かと批判が多かったSWSだが、最大の功績は「阿修羅・原をリングに復帰させたこと」と言われる。
龍原砲の再結成に、プロレス・ファンは胸を躍らせた。
1991年11月10日、原と天龍は再び札幌の地に立った。
札幌中島体育センターで、阿修羅・原と天龍源一郎のシングル・マッチが行われたのである。
天龍の容赦ない逆水平チョップが原の胸元を襲う。
それでも天龍はサッカーボール・キックやラリアットで逆襲。
最後は天龍がパワーボムで3カウントを奪う。
しかし、二人の戦いに勝敗など関係なかった。
「痛みが伝わるプロレス」
これこそ、龍原砲が目指したファイトである。
原の、どす黒く変色した胸が、それを物語っていた。
しかし、龍原砲の熱い戦いとは裏腹に、SWSの内部では醜い泥仕合が展開されていた。
各道場のエゴがぶつかり合い、SWSは僅か2年で崩壊。
龍原砲を中心としたレボリューションは、新団体のWAR(レッスル・アンド・ロマンス)を設立した。
だが、今度はメガネスーパーのような大資本もなく、まさしく手弁当での旗揚げである。
資金力もなく、選手も少なくなったWARは、新日本プロレスに闘いの場を求めた。
1987年、龍原砲が結成されたとき「最終目的は、二人で新日本プロレスのリングに上がることだ!」と宣言して以来、5年後にようやく実現したのだ。
しかし、原の体はもはやボロボロだった。
新日本プロレスでは満足なファイトができないまま、いよいよレスラーとしての終焉を迎えようとしている。
1994年8月11日、阿修羅・原は引退を表明。
同年10月3日には、故郷の長崎県立総合体育館で龍原砲として最後の一騎打ち。
原は天龍のチョップ29発、ラリアット11発を逃げずに受け続けた。
そして10月29日の後楽園ホール、引退試合後に行われたバトルロイヤルの最後に天龍と対決した原は、天龍のパワーボムでマットに沈み、リングから静かに去った。
最後まで「痛みが伝わるプロレス」を貫いたのである。
プロレス界を引退した原は、故郷の長崎に戻った。
年老いた両親を介護するためである。
父親は原爆症を患っていた。
長崎市に落とされた原子爆弾で被曝したわけではなく、瓦礫の撤去作業をしているうちに放射能に侵されたのである。
原には妻子がいたが、離婚こそしなかったものの別居中で、両親と三人暮らしとなった。
原は母校の諫早農高でラグビー部のトレーニング・コーチに就任した。
原がラグビー部員たちに口を酸っぱくして説いたのは、
「スポーツは、何事もバランスがいちばん大切だ」
ということ。
阿修羅・原といえば、猪突猛進型で精神論信望者と思われがちだが、実は科学的なトレーニングこそ最も必要である、という信念を持っていた。
人間の体というものは、100%の力は出せないようになっている。
その潜在能力をいかに引き出すかが重要だ、ということだ。
闇雲なトレーニングなど意味はない、と原は考えていた。
そして2002年度、諫早農は待望の花園出場を果たした。
原自身が高校時代に経験しなかった花園の大舞台である。
しかし原は、ラグビー部から身を引いた。
正規の監督が戻ってきたからである。
「阿修羅・原がチームにいては、監督はやりづらいだろう」
という配慮からだった。
2004年には母親が他界、後を追うように父親も天に召されている。
そして原自身も肺炎に侵され、闘病生活を送るようになった。
物忘れも激しくなり、入院中は壁に自らの頭を打ち付けるようなこともあったという。
やがては心筋梗塞も併発し、2015年4月28日に長崎県雲仙市内の病院で永眠。
享年68歳だった。
原のファイトは「遺恨を残さなくても激しい試合ができる」というのが信条だった。
いくら怪我をしても決して遺恨は残さず、しかも激しいファイトを続ける。
それは、ラグビー時代に日本代表監督だった大西鐵之祐から叩き込まれた「ノーサイドの精神」をプロレスで実践したのかも知れない。
原進から阿修羅・原に変身し、ラグビー界とプロレス界に偉大な足跡を残した。
<完>
■文中敬称略
【参考文献】
ラガーメン列伝(末富鞆音:編、文春文庫)
日本ラグビー100年の記憶(ベースボール・マガジン社)
花園90年(ベースボール・マガジン社)
Number 1992年10月5日号(文藝春秋社)
別冊宝島 プロレス「悪夢の10年」を問う(宝島社)
週刊プロレス 2015年6月10日号(ベースボール・マガジン社)
Gスピリッツ vol.36(辰巳出版)
※追記
ラグビーマガジン2015年8月号(ベースボール・マガジン社)の99ページに、原進(阿修羅・原)さんに関する拙文が掲載されています。
ぜひご覧ください。