<前回からのつづき>
全日本プロレスから長州力らジャパン・プロレスの主力選手ほとんどが離脱し、全日本プロレスは外敵を失った状態になった。
このままでは緊迫感のないマットになってしまう、と危惧した阿修羅・原(本名:原進)と天龍源一郎がタッグを組み、プロレス界に革命を起こそうとしたのだ。
長州も新日本プロレスで「維新軍」として革命を起こしたが、それとは異質のものだった。
長州の場合は、当時は珍しかった日本人同士の抗争がテーマだったが、原と天龍はプロレスの内容そのものを変えようとしたのである。
ジャパン・プロレス勢が去って、観客動員の点でも全日本プロレスは明らかにダウンしていた。
そこで原と天龍は、まず常打ち会場の後楽園ホールを満員にしようと企てたのである。
全日本プロレスほどの大きな団体だと、日本武道館や大阪城ホールなどの大会場を目標とするが、それよりもまずキャパシティが2千人そこそこの後楽園ホールに目を向けたのだ。
いつも使う後楽園ホールでこそ一所懸命にファイトすると、必ず客は付いて来てくれる。
そしてもう一つは、名もない地方での会場でこそ激しい試合をしようと誓い合った。
これはかつて、大分の小さな町で原と天龍が戦い、無我夢中になった経験が根底にあったのだ。
「テレビは予告編。テレビで見て、面白いと思ったら生で俺たちのプロレスを見てくれ。会場でも面白いと思ったら、次は友達を連れて見に来てくれ」
それが原と天龍の思いだった。
普通はその逆である。
テレビ中継のない地方での小会場など、見る人も少ないのでリキを入れてやる必要もなかろうと手を抜くのが常だった。
いわば、俺たちがプロレスを見せてやっている、という上から目線だ。
しかし、そんな会場でこそ原と天龍は激しいファイトをしてみせた。
通常なら5分ちょっとで終わらせるものだが、原と天龍は20分以上も試合を続かせたのである。
試合時間が長ければいいというものではないが、内容が濃いと客は時間を忘れるし、楽しむこともできる。
当然、他のレスラーからは嫌がれたが、原と天龍はポリシーを曲げるつもりなどこれっぽっちもなかったのだ。
プロレス用語に「ハネ立ち」というものがある。
「ハネ立ち」とは、試合が終わるとホテルでは泊まらずに、そのまま次の試合会場へ向かうことだ。
当然「ハネ立ち」の日はサッサと試合を終わらせたいところだが、原と天龍はそんな日にこそイヤミのように試合を長引かせた。
「こうでもしなければプロレス界は変わらないし、今までのような殿様商売だとファンからソッポを向かれる」
そんな激しいファイトを続ける二人は「龍原砲」と呼ばれるようになった。
龍原砲のターゲットはレスラー個人にも向けられた。
まずは「眠れる天才」ジャンボ鶴田である。
ジャイアント馬場がタイトル戦線から離脱し、鶴田が事実上のエースに君臨していた。
しかし、鶴田のファイトは緊張感のないもので、試合中に突然「オー!」なんて言ってファンの失笑を買っていたのである(後年、鶴田の「オー!」はファンに受け入れられるようになる)。
長州力との抗争でも、長州が「もう馬場、猪木の時代ではない。鶴田、天龍よ、立ち上がれ!」と叫び、天龍は長州の呼びかけに応えたが、鶴田は全く呼応せずにマイペースのファイトを貫いていた。
鶴田×長州という、ファンが待ち望んだ夢のカードでも、鶴田は余裕ある戦いぶりで長州を内容で圧倒、60分時間切れドローになっても鶴田は全く疲れを見せなかったのである。
一方の長州は試合終了後、控え室で大の字にノビてしまったという。
試合後も平然としていた鶴田は、これ以上は長州と戦う意味はないとばかりに、もうこのシングル・マッチは組まれなくなったのである。
そんな鶴田を本気にさせるのが、原と天龍の目的だった。
龍原砲として鶴田とタッグ・マッチを戦った時は、徹底して鶴田を二人がかりで叩きのめす。
鶴田を本気にさせなければ、全日本プロレスは変わらない、そんな思いだった。
龍原砲の執拗な攻撃に、遂に鶴田は怒りをあらわにする様になる。
逆襲に転じた鶴田は恐ろしく強かったが、それでも原と天龍は内心ほくそ笑んでいた。
龍原砲にとって、もう一人のターゲットは輪島大士だった。
大相撲では14回の幕内優勝を誇る大横綱である。
最高位が前頭筆頭だった天龍にとって、二つ歳上の輪島は雲の上の存在だった。
輪島は大相撲引退後に花籠親方となったものの、借金で身を持ち崩し、相撲界にはいられなくなって、38歳という高齢でプロレスラーに転じていた。
レスラー転向直後はよく稽古をし、鶴田と並ぶエース候補として期待されたものの、やはりプロレスをナメていたのかその後は低迷していた。
そんな輪島の顔面を、天龍は容赦なく蹴り上げたのである。
もちろん原も加勢し、輪島を思う存分いたぶった。
それは天龍の、
「横綱は、本当は強いんだよ」
という思いを込めた熱いメッセージだった。
相撲界では格下の天龍に蹴られ続けた輪島だったが、それでも泣き言一つ言わずに立ち上がってきたのである。
龍原砲には、まだ戦うべき相手があった。
それが、前田日明を中心としたUWFである。
UWFは新日本プロレスから派生した団体だったが、いつの間にか独り歩きを始め、従来のショー的プロレスとは一線を画す「格闘プロレス」を唱え、キックと関節技を中心としたプロレスを展開していた。
「俺たちは真剣勝負」と謳ったUWFは一部に熱狂的なファンを生み、月に数回しか試合をしないことによって、その真剣性が評価されるようになった。
しかしUWFだろうが全日本プロレスだろうが、スタイルが違うだけでプロレスはプロレスである。
そこで原と天龍は、
「だったら俺たちは、毎日のように激しい試合をして、プロレスの凄さをアピールしようじゃないか」
と考えたのだ。
この頃は既にUWFは資金難によって新日本プロレスにUターンしていたが、「過激なプロレス」を標榜する新日本プロレスの中で、前田ら旧UWF勢はさらに過激なプロレスを焚き付けた。
新日本プロレスを真剣勝負の場にしてやる、という信念を持って。
しかし、その真剣さが新日本プロレスとの軋轢を産んで、前田はだんだん孤立するようになる。
そんな時、前田はたまたまテレビで全日本プロレス中継を見た。
ブラウン管から見た龍原砲の試合に、前田は驚いてしまったのである。
「ぬるま湯体質」と呼ばれた全日本プロレスで、こんな激しいファイトをしている。
横綱・輪島の顔面を龍原砲は容赦なく蹴り上げる。
前田は思わず、テレビ画面から目を逸らした。
あの格闘王・前田日明がゾッとしたのである。
天龍さんと原さんは、なんて恐ろしいプロレスをしているんだ、と。
新日本プロレスがいくら過激なプロレスを標榜しても、龍原砲のプロレスには敵わない、と前田は悟ったのだ。
そして、龍原砲に触発されるかのように、新日本プロレスのリング上で前田は長州力の顔面を蹴った。
そのため、長州は大怪我を負い、前田は「プロレス道にもとる行為」とアントニオ猪木に断罪され、新日本プロレスをクビになったのである。
かつては「過激なプロレス」を唱えていた猪木による、あまりにも理不尽な解雇。
だが、行き場を失った前田は、かつての盟友を引き連れて第二次UWFを発足、大ブームを巻き起こし、新日本プロレスを窮地に追いやった。
第二次UWF誕生のきっかけとなったのが、新日本プロレスのライバル団体である全日本プロレスで生まれた龍原砲だったとは、歴史の皮肉と言えよう。
ある意味、龍原砲による革命は、新日本プロレスとUWFにまで飛び火したのである。
龍原砲は全国各地への移動にも気を遣った。
普通なら選手全員でバス移動するものだが、全日本プロレスのレスラーと顔を合わさないように、選手用の快適な大型バスには決して乗らなかったのである。
時刻表を調べて列車に乗り、時にはフェリーも利用した。
公共交通機関では行けない場所の時は、リング屋のトラックに乗せてもらったり、マスコミの車に同乗することもあった。
宿舎も当然、全日本プロレスの連中とは別々で、極力顔を合わせないようにしたのである。
プロレスなんて所詮アングルなんだから、リング上以外では一緒に行動すればいいじゃないか、と思われるかも知れないが、プロレスとはそんなものではない。
普段からあまりベタベタしていると、リング上での攻撃に思わず手心を加えたり、あるいは辛そうな顔をしているレスラーには手加減してしまうかも知れず、そうなれば激しいファイトなんてできないのだ。
龍原砲はプロレスの試合内容を高めるために、移動や宿舎でいらない苦労をしていたのである。
龍原砲の相手は、もちろん日本人だけではない。
外国人レスラー相手にも容赦なく攻撃した。
特に、かつてはウエスタン・ラリアットで何度もKOされたスタン・ハンセンとの激しい攻防は有名である。
スタン・ハンセン&テリー・ゴディとのタッグ・マッチで、龍原砲はハンセンを徹底して狙い、二人がかりのサンドイッチ・ラリアットやサンドイッチ延髄斬りで、なんとあの屈強なハンセンを30秒間失神させてしまったのだ。
誰もが我が目を疑う光景だった。
そして、失神から目が覚めた後の、ハンセンの暴れっぷりも伝説となっている。
ハンセンは恥をかかされたとばかり原と天龍をアングルなしでボコボコにし、遂にはなんの関係もない解説者の山田隆にまで手を出してしまった。
よほど頭に来たのだろう。
別の試合では、原が場外で背後からハンセンのタックルを受け、そのまま顔面が鉄柱に激突。
運悪く、ロープを支える金具に目の上あたりをぶつけたため、流血の大惨事となってしまった。
幸い、目には当たらなかったのだが、もし当たっていれば失明していたかも知れない。
とはいえ、13針も縫う大怪我となった。
ある試合では、原が石川敬士の椅子攻撃を脳天に受け、頭蓋骨が見えるほどの大怪我を負ったことがある。
悪役でもない日本人レスラーが手加減なしで凶器攻撃を見舞うあたり、レスラー全員が熱くなっている証拠だが、原の状態を見てさすがの天龍も青くなった。
「明日はもう無理だ。タッグ王座は諦めよう」
天龍は原にそう言った。
この翌日、スタン・ハンセン&テッド・デビアスが保持するPWF世界タッグ王座に挑戦する予定だったのだ。
しかし原は、
「いや、源ちゃんと走り始めた今が一番大事な時期。龍原砲にとって初めてのタイトル・マッチなんだから、今ここで歩みを止めるわけには行かないよ。俺たちは体がボロボロになっても突っ走ろうと誓い合ったじゃないか」
そう言って原は翌日、強行出場した。
結局、タイトルは獲れなかったが、それ以上に天龍は原の心意気が嬉しかったのである。
リング上は誰もが熱くなっていた。
ジャンボ鶴田、輪島大士、ザ・グレート・カブキ、二代目タイガーマスク(三沢光晴)、ジャパン・プロレスからの生き残りである谷津嘉章、そしてメインから隠居したはずのジャイアント馬場まで、龍原砲を相手に血相を変えている。
かつては緊張感がないと言われた全日本プロレスとは別世界の風景だった。
龍原砲が起こした革命が、実を結びつつある。
その後、龍原砲に異変が起こった。
龍原砲×ジャンボ鶴田&ザ・グレート・カブキの試合前、当時は一介の若手レスラーに過ぎなかった川田利明が突如乱入、鶴田に襲いかかったのである。
すると今度は、やはり若手だったサムソン冬木(冬木弘道)が鶴田&カブキに加勢、その後はジャイアント馬場の断によって新たに天龍&原&川田×鶴田&カブキ&冬木のシックスメン・タッグ・マッチに変更された。
大混乱の中、始まったタッグ・マッチだったが激しいファイトを展開、テレビ中継のゲストで辛口解説として知られる馬場は、
「6人とも素晴らしい気迫だ」
と珍しく手放しで選手たちを称賛した。
こうして川田は押し掛け弟子のように天龍と原の陣営に組み込まれ、龍原砲は二人だけのチームから天龍同盟として再出発する。
さらに、最初は川田と敵対していた冬木もやがて握手、天龍同盟に入った。
天龍同盟の別名はレボリューション、即ち革命である。
オフには全日本プロレスから離れて、天龍同盟だけの合宿も張った。
鬼怒川温泉に行って猛特訓……、したのかどうかは定かではない。
夜になると、取材に来ていた記者連中も引き入れて大宴会。
コンパニオンを大量に呼んで、呑めや歌えのドンチャン騒ぎとなった。
一晩で70万円近い札束が飛んでいくハメになったのである。
合宿と称しながら全員が宿酔で、体を鍛えに行ったのか壊しに行ったのかわからない。
天龍は「酒を呑まないヤツは信用しない」という信念を持っていた。
酒を呑んでこそ本音が出る、という考え方である。
もちろん原も、そんな天龍に同調した。
アイスペールにウィスキーをボトル1本分丸々入れて一気呑み、なんてこともやってのけた(良い子のみなさんはマネをしないでください)。
しかし実は、原は元々酒はそんなに呑めなかったのである。
それでも原は、天龍にトコトン付き合った。
酒を呑むのも練習も徹底的にやる、それが龍原砲のポリシーだったのである。
そこに、原の「宵越しの金は持たない」性格が加わった。
試合が終わると、若手レスラーやプロレス記者はもちろん、当時ブームとなっていた女子プロレスの選手も引き連れて、毎晩のように呑み歩いたのである。
もちろん支払いは、天龍がいない時は原が一人で負った。
龍原砲の人気はウナギ登りで、ギャラが上がったと言っても、湯水のごとく使う呑み代が追い付くはずもなかった。
天龍同盟の仲間も増えて、龍原砲はますます勢いを増して行った。
鬼怒川合宿を行う前の1987年9月3日、愛知県体育館でスタン・ハンセン&オースチン・アイドルを破り、龍原砲としては初載冠となるPWF世界タッグ王座を奪取した。
その年の暮れに行われた世界最強タッグ決定リーグ戦では、惜しくも2位で優勝を逃したものの、かつて1981年に初めて二人で同リーグ戦に挑んだ時の1勝7敗とは雲泥の差だった。
さらに東京スポーツ主催のプロレス大賞で龍原砲は、1987年度の最優秀タッグ賞にも選ばれたのである。
龍原砲を結成してほぼ1周年となる1988年6月4日、札幌中島体育センターでジャンボ鶴田&谷津嘉章の挑戦を受けた龍原砲は、原が谷津のジャーマン・スープレックス・ホールドによりピンフォールを奪われ、PWF世界タッグ王座を失った。
実はこの時の原は、左腹部肋膜軟骨亀裂骨折という重傷を負っていたのである。
龍原砲結成1周年での敗戦だったが、原と天龍に暗さは微塵もなかった。
「今日の負けは、何ら恥じることはない!」
そう言って控え室では、天龍同盟のメンバーらと共に笑顔で記念撮影を行った。
プロレスで、負けた直後に笑顔で記念撮影というのは珍しい。
その日の夜は龍原砲1周年記念と称して、朝まで呑み明かした。
しかし、原の体は次第に動かなくなっていった。
毎日のように激しい試合を行う上、ラグビー時代に痛めた膝がガタガタになっていったのである。
腰も伸びなくなり曲がったまま、控え室ではおじいさんのように手を腰に当てながらゆっくりと歩いていた。
それでも、試合が近付くと自然に腰が伸びるようになり、
「さてと、そろそろ行くかね源ちゃん。今日も一発、ブチかまそうぜ!」
と、さっきまでの「おじいさん歩き」が嘘のように、マットでは暴れまわったのである。
プロレスラーの体は、リングに上がると勝手に重傷すら治ってしまうらしい。
だが、リング上でのダメージは確実に蓄積され、原の肉体を蝕んでいった。
1988年も、例年と同じように暮れの祭典・世界最強タッグ決定リーグ戦の季節がやってきた。
もちろん、龍原砲は優勝候補の一角である。
しかし開幕直前、龍原砲は突如として空中分解した。
仲間割れではない。
開幕当日の11月19日、ジャイアント馬場が阿修羅・原の解雇を発表したのだ。
理由は原の「私生活の乱れ」である。
毎晩のように呑み歩く原の借金は膨らむ一方だった。
自分のために使っている金ではなく、若手レスラーや女子レスラーの面倒を見るため、無理して借金を重ねる。
遂には試合会場にまで借金取りが現れるようになったのだ。
馬場に呼び出された原だったが、もう馬場に合わせる顔もなく、高輪プリンスホテルから逃げるように姿を消した。
秩序を重んじる馬場にとって、いくら人気レスラーといっても原を解雇せざるを得なかったのである。
天龍は記者団から原の解雇について訊かれ、
「それを俺に訊くの?じゃあ、テメェの女房が浮気しているからって、どう答えたらいいの?それと一緒だよ。だろ?そんな質問してくれるなよ。俺に答えることなんてできないよ」
と苦しい胸の内を語った。
「俺に何も言わずに消えるなんて阿修羅、冷たいよ……」
天龍はそう叫びたかった。
しかしもう、阿修羅・原の姿はどこにもない。
結成してから僅か1年半、太く短く、龍原砲は革命半ばにして全日本プロレスから消滅してしまったのである。
<つづく>
■文中敬称略