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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

10年の密度

先日、週刊ベースボールを買うために近所の本屋さんに行くと「『南河内今昔写真帖』発売中」というポスターが出ていた。
店に入ってその写真集を見てみると、非常に分厚い本でいかにも高そうだ。
値段を見ると1万円近くもする。
オールヌードの写真集だって1万円も出して買う気はしない。
当然のことながらビニールに覆われていて立ち読みもできないので、どんな写真集かわからない本に1万円も出せないと、購入を断念した。


しかしその日の晩から、夢に唸らされるようになってしまった。
あの写真集を見てみたい、と。
そして今日、1万円札を握りしめて、清水の舞台から飛び降りるつもりで本屋に行った。
海の物とも山の物ともわからない代物に、1万円もの大枚をはたいていいものか、と。
しかし今日買わなければ、また夢に唸らされるだけだ。
勇気を持って、写真集をレジに持って行き、自分の手から離れようとしない諭吉さんを店員に強奪されてしまった。
本当に1万円もの価値があるのだろうか。
まあ、僕にとってはつまらないものでも、両親が喜ぶかも知れないので、まあいっか、と自分を慰めた。


南河内」という地名を少々説明しておこう。
南河内とは、大阪府南東部に位置し、東は奈良県、南は和歌山県に接する。
この写真集に収録されている市町村は、富田林市、河内長野市大阪狭山市、太子町、河南町千早赤阪村だ。
この中に大阪府下唯一の村である千早赤阪村が含まれていることでもわかるように、大阪府内でも屈指の田舎である。
大阪市内に出るためには電車で30分ほどかかり、さらに電車の通っていない山間部では1時間に1本程度のバスを待って富田林駅や河内長野駅に行かなければならないという、極めて交通不便な地である。
それでも高度成長期以降は大阪市のベッドタウンとして急速に発展し、金剛団地や狭山ニュータウンなどの新興住宅地が造成されて、人口が急激に増えていった。
また、古代の歴史遺産の宝庫としても知られ、大和時代には有力な豪族の根拠地として発展し、飛鳥時代には蘇我氏聖徳太子の根拠地にもなっていた。
奈良や京都のように観光地化されていないので地味な印象があるが、コアな歴史ファンはそこがかえって魅力だと、南河内を好む人も多い。
言うまでもなく、南河内は僕が生まれ育った場所である。


家に帰って写真集を開いてみると、思っていた以上の内容だった。
昔の写真は昭和30年代がほとんどで、その下に平成20年、つまり今年に撮った同じ場所の写真が掲載されていて、その対比が面白い。
昭和30年代の写真は当然のことながらモノクロだが、現在の写真もモノクロになっており、同じ条件で見比べてもらおうという編集者の意図が感じられる。
そしてその目論見は見事に当たった。
現在の写真をカラーにすると「違って当然」という気持ちになるが、同じモノクロだからこそ「昔と今とではこんなに違うのか!」という印象を持った。


昭和30年代の写真では、「戦後」の雰囲気がまだまだ残っている。
その街並みや風景は、戦前の写真だと聞かされても納得してしまうだろう。
そして意外なことに、富田林や河内長野の街中では、今よりも人口が少ないはずなのに活気があって、ずっと賑やかだ。
現在の写真を見ると、当時に比べて寂れている雰囲気すらある。


富田林には「寺内町」という、重要伝統的建造物群保護地区がある。
ここは鎌倉時代を思わせるような旧家が立ち並び、人通りがほとんどない街並みで、橋下徹大阪府知事も絶賛していた地区だ。
ところがこの写真集を見ると、昭和30年代の寺内町は商店が立ち並び、旧家の面影もなく、「コクヨ帳簿」だの「三菱鉛筆」だのの看板が目立ち、人通りも多く実に賑やかだ。
当時の人は、ここが寺内町という意識もなく、栄えた商店街という認識だったのだろう。
人通りがほとんどない現在の寺内町に比べて、昭和30年代のほうがよっぽど「都会」だ。


この寺内町には現在も「中内眼科」という目医者がある。
この目医者はいささか奇妙で、鎌倉時代のような旧家が立ち並ぶ中で、中内眼科だけが明治初期を思わせる洋風建築なのだ。
なぜ中内眼科だけ明治時代、しかも病院とは似ても似つかぬ建物なのか、ずっと不思議に思っていた。
それが、この写真集を見てようやくその謎が解けた。
中内眼科は元々、三和銀行だったのだ。
当時の銀行は古い洋式建築が主流であり、三和銀行もその流れを汲んでいた。
昭和30年代の寺内町は商店街だったため、銀行としても商売になったのだろう。
しかし交通網が発達して車社会になり、狭い路地の寺内町には人が集まらなくなり、銀行も駅前へ移転を余儀なくされた。
そして隆盛を誇った商店街も寂れてしまい、重要文化財として生き残る道を選んだ。
そんな中、地元で開業していた中内眼科が三和銀行の土地と建物を買い取り、そのまま眼科として開業したとしても想像に難くない。


昭和30年代といえば、当然のことながら車の台数も少なく、ニュータウンもなくて田園風景が拡がっていたので今よりも田舎臭いイメージがあるが、その一方で気軽に大阪市内には行けなかったため、地元住民は近所の繁華街に繰り出していたために、現在よりもずっと繁栄していたと思われる写真も多数ある。
その象徴が河内長野にあった映画館である。
当時最大の娯楽といえば映画で、その時の写真を見ると河内長野の映画館に客が殺到している。
シネコンならともかく、現在の河内長野で単独映画館を営業するなど考えられないだろう。


この写真集では昔の写真は昭和30年代がほとんどだが、中には40年代、50年代のものも含まれている。
そして昭和4,50年代の写真では、さほど違和感を感じないのだ。
これは僕が昭和30年代のことは生まれる前なので全く知らないが、昭和4,50年代なら見てきた風景なので今見ても驚かない、という理由もあるのだろうが、そうではないと僕は感じている。


戦後の復興期を終えて、高度成長期を突っ走ったのが昭和40年代。
昭和39年に東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されて、日本はようやく国際舞台に立つことができたのだ。
戦争の傷跡がなかなか癒えぬまま昭和30年代まで来ていたのが、いきなり先進国の仲間入りしてしまったのである。
昭和20年に終戦、昭和20年代は占領下にあり動乱の時期、ようやく落ち着いてきた昭和30年代から40年にかけて日本は激動の時期に入るのである。


たとえば、平成10年と今年の平成20年ではさほど違いは感じられないが、この写真集で見る昭和30年代と昭和40年代では同じ国とは思えないくらいに全く違うのだ。
つまり、昭和30年代と平成10年代とでは、同じ10年間でも「密度」が全く違う。
それぐらい昭和30年代の10年間には様々なドラマがあったと言えるのかも知れない。
それが今回、この写真集を見た率直な感想である。


ただ、この意見は昭和30年代を全く知らない僕が感じたことであって、実際にその時代を生きた人にその感想を聞いてみたい気がする。