NWA世界ヘビー級選手権(National Wrestling Alliance)
現在のプロレス界には「世界王座」と胸を張って呼べるタイトルは皆無と言っていいが、かつてはそうではなかった。
特に戦後の1940年代後半から80年代にかけて「世界で最も権威のある王座」の名を欲しいままにしていたのが「NWA世界ヘビー級王座」である。
当時のプロレス界ではNWAだけが「世界王座」を独占していたわけではなかったが、その権威はボクシングのWBAやWBC王座に匹敵する力をプロレス界に誇っていた。
NWAは現在のプロレス団体のような営利団体ではなく、本部をセントルイスに置いて全米各地区のプロモーターを加盟させて運営するという、連盟や協会に近い組織だった。
この団体形態が全米各地のサーキットを可能とし、それがますます世界王座としての権威を高める原因になったと言えよう。
初期のNWAの看板レスラーといえば、なんと言っても「20世紀最強の鉄人」ルー・テーズだった。
必殺技バック・ドロップを引っ提げ、レスリングの基礎ができていたテーズは、見栄えのいい技と地味なテクニックを併せ持つ、まさしくチャンピオンの鏡のようなレスラーだった。
そんなNWA王座にも時代の流れからか、ショーマン派のチャンピオンも増えていった。
その代表格が「美獣」ハーリー・レイスであろう。
ショーマン派と言っても現在のように派手なパフォーマンスをするわけではなく、ヒール(悪役)でありながらチャンピオンベルトを巻き続けるというものだった。
いや、NWA世界チャンピオンの本質はヒールなのだ。
チャンピオンは各州を行脚し、その州のチャンピオンの挑戦を受ける。
ファンはみんな地元のレスラーを応援するのは当然だ。
つまり、NWA世界チャンピオンは地元のファンから見るとレッキとしたヒールである。
ヒールであるがゆえに、ベビーフェイス(善玉)の地元チャンピオンをただ叩き潰すだけではダメで、ちゃんと相手の良さを引き出した上で最終的にはタイトルを防衛しなくてはならない。
それには地元のファンを納得させるだけの強さとテクニック、60分フルタイムを戦い抜くだけのスタミナが要求された。
ヒールとは言っても、ただ憎まれるだけでは失格で、憎まれつつも、世界チャンピオンはやっぱり強いな、と地元ファンを感心させるだけの実力が必要だったのだ。
そのためには基本的なレスリングができるレスラーでないととてもNWA世界チャンピンは務まらず、また目には見えない優れたテクニックを持ったレスラーが常にNWA世界チャンピオンに君臨していたので、NWAの権威が保たれていたとも言える。
この系譜は80年代のリック・フレアーまで引き継がれたが、その後はレスリングができなくてもテレビ映えするマッチョマンや派手なパフォーマンスをするレスラーが主流となり、通を唸らせるレスリングはできても地味なレスラーは時代遅れとなったため、NWA的価値は通用しなくなり、NWAは次第に衰退していった。
○日本とNWAとの関わり
日本マット界とNWAの関わりは古く、1957年に日本プロレスのリング上で当時チャンピオンのルー・テーズが力道山の挑戦を受けている。
10月7日の初防衛戦は東京・後楽園球場で61分3本勝負で行われ、双方ノーフォールの引き分けでテーズが防衛している。
10月13日には場所を大阪・扇町プールに移して行われ、後楽園と同じ形式で、1本目=テーズ(体固め)、2本目=力道山(体固め)、3本目=両者リングアウト、でテーズが再び引き分け防衛。
世界最高峰のベルトを巻くことはできなかったが、力道山にとってはテーズを日本に招聘してNWAタイトルマッチを行えただけでも満足ではなかったか。
そのためには莫大な費用がかかったが、日本でもプロレスが盛んであるとNWAにアピールできたし、何よりもテーズは力道山が憧れるストロング・スタイルの第一人者だった。
まさしく力道山にとっては「NWA王座に挑戦することに意義がある」という心境だったと思われる。
力道山の死後、日本プロレスはジャイアント馬場、アントニオ猪木の二大エースの時代に入っていた。
力道山以来、日本でNWA王座に挑戦したのは意外にも馬場ではなく、二番手の猪木だった。
と言っても猪木が挑戦した翌日に馬場もNWA王座に挑戦したのだが。
テーズ時代が終わり、当時のNWA世界ヘビー級チャンピオンはドリー・ファンク・Jr.。
1969年12月2日に大阪府立体育館で猪木が、翌3日には東京体育館で馬場が、それぞれドリーの持つNWA王座に挑戦すると発表された。
だがちょっと待て。
もし2日に猪木がドリーを破ってNWA王座に就けば、翌3日は当時は絶対に実現不可能と言われた馬場×猪木戦が、チャンピオン・猪木、チャレンジャー・馬場という立場で実現していたのだろうか。
筋から行けばそうなるだろう。
3日の東京体育館では、馬場がNWA世界チャンピオンに挑戦する予定だったのだから。
しかし、そんなことを考える人は皆無に等しかった。
当時のプロレスマスコミは「翌日の馬場のために、ドリーの手の内をさらけ出させ、スタミナを奪うのが猪木の役目」と書き立てた。
それならば、猪木は何のために挑戦するのか。
それどころか、猪木が勝つことなどつゆほども思っていない。
勝負は最後までわからないというのが鉄則なのに。
プロレス界の持つ大きなパラドックスである。
しかし、プロレスマスコミの眼力は正しく(?)、大阪で猪木は60分3本勝負で両者ノーフォールのまま時間切れ引き分け、ドリーの防衛で異常事態(??)は避けられた。
予定通り(???)翌日の東京では馬場がドリーに挑戦、やはり60分3本勝負で1−1の後、時間切れ引き分けでやはりドリーが防衛。
ドリーは無事にNWAベルトをアメリカに持ち帰ることができた。
後に日本プロレスは崩壊、猪木は新日本プロレス、馬場は全日本プロレスを興したが、日本プロレス時代のNWAルートを引き継いだのは全日本プロレスで、馬場はNWA加盟が認められ、NWA王座に挑戦できる権利を得た。
時に1974年12月2日、鹿児島県立体育館。
遂に「その時」がやってきた。
当時のNWA世界ヘビー級チャンピオンのジャック・ブリスコに馬場が挑戦。
60分3本勝負の1本目を16文キックからの体固めで1本先取。
2本目はブリスコ得意の4の字固めでタイに持ち込まれるが、3本目は馬場の秘密兵器、ランニングネックブリーカードロップを炸裂させて見事にピンフォール。
力道山以来、日本人レスラーにとって悲願だった世界最高峰、NWA世界ヘビー級チャンピオンに遂にジャイアント馬場が初めて登りつめた。
勝ち名乗りを受けた馬場は、受け取ったベルトを大きくかざしながら万歳をして、喜びを爆発させた。
まさしくこのときのためにプロレスをやってきたと言っても過言ではないだろう。
当時、日本人がNWA王座に就くというのは、それこそ一般紙でも報じられたほどの大偉業だったのだ。
しかし、リターンマッチで一度はブリスコを退けるも、2度目のリターンマッチではブリスコに敗れ、7日天下に終わった。
その後、馬場はハーリー・レイスから2度にわたってNWA王座を奪取するも、いずれもリターンマッチで敗れ短命王者に終わってしまい、NWA世界チャンピオンとして全米サーキットするまでには至っていない。
しかし、それでも世界最高峰のNWA王座に3度も君臨したことは、日本人レスラーとして大いに誇れる偉大なる勲章だ。
その後、NWA王座に就いたリック・フレアーに対し、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、長州力らが挑戦したが、いずれもタイトル奪取には至っていない。
また、アメリカではパワーとキャラクターが主流のWWFが全米を席巻し、NWAは縮小を余儀なくされ、やがてNWAベルトはWWFの対抗勢力であるWCWの管理下に置かれ、その価値はかつてとは比較にならないほど暴落した。
この頃に日本人として藤波辰爾、蝶野正洋、グレート・ムタらがNWAベルトを巻いたが、馬場が保持していた頃とはその権威は比べようもない。
WCW崩壊後、その価値はさらに下がり、かつては世界一の権威を誇ったNWA世界ヘビー級王座も、今では見る影もない。