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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

高校野球最強伝説〜その2

早稲田実業(東京、1980年夏・準優勝、'81年春・初戦敗退、夏・三回戦進出、'82年春・8強進出、夏・8強進出)


1980年〜82年にかけて、早稲田実業は一度も甲子園制覇を果たしていない。
それなのに「最強伝説」で取り上げるのはおかしいと思われるかも知れないが、それでもこの時代の高校野球は間違いなく早実中心で動いていた。
年度別では早実は「最強」ではなかったのだが、この3年間における年代としては「最強」と呼ぶにふさわしいチームだったと思う。


1980年の夏の甲子園は、箕島(和歌山)が春夏連覇を果たした前年から打って変わり、東高西低の大会となった。
だが、大会前の下馬評はやはり西高東低。
春のセンバツを制した「球道くん」ことエース中西清起(阪神)を擁した高知商(高知)と、強打を誇る北陽(大阪、現・関大北陽)が優勝候補に挙げられていた。
特に北陽は大阪大会でも絶好調で、実力ではセンバツの覇者・高知商を上回るとさえ言われた。
その北陽に、名門の早実(東東京)がぶつかった。
しかし、大方の予想では北陽が圧倒的有利、だった。


北陽戦から遡ること1ヶ月前、東東京大会開幕前に早実は絶体絶命のピンチを迎えていた。
エースだった二年生の芳賀誠が負傷して、東東京大会での登板が絶望になってしまったのである。
さらに、控えだった三年生投手も盲腸手術で戦線離脱。
そこで白羽の矢が立ったのが、リトルリーグ世界選手権優勝投手という肩書きを持つ一年生、荒木大輔(ヤクルト他)だった。


荒木をエースに据えた早実は東東京大会をあれよ、あれよと勝ち上がり、特に準決勝ではセンバツ準優勝の帝京を4−0で完封勝ちした。
高知商の中西と決勝で投げ合い、延長10回の末惜しくもサヨナラ負けした二年生エースの伊東昭光(ヤクルト)に対して、荒木は堂々たる投げっぷりだった。


東東京大会を制し、甲子園のマウンドに登った荒木は、北陽の各打者を見て驚いた。
全員が日に真っ黒に焼け、その腕は太い。
これはメッタ打ちに遭うのではないかと覚悟したが、その反面、俺は一年生なのだから打たれても仕方ないだろうという開き直りの気持ちもあった。
荒木は北陽の強打者連中に対しひょうひょうと外角低めに投げ、面白いようにセカンドにゴロが飛んだ。
そのセカンドゴロを、同じ一年生の小沢章一が軽快にさばく。
小沢の守備は一年生ながら、その美しさは芸術の域に達していた。
ちなみに、小沢が甲子園五季連続出場する中で、初めてエラーをしたのは三年の春のことである。


終わってみれば荒木は強打の北陽を1安打完封、打線も爆発して6−0と圧倒した。
大阪の北陽は強打のチームを作り上げ、優勝候補と呼ばれて甲子園に登場したときほど、無残な完封負けを喫することが多い。
実はこの年の春、初戦で帝京とぶつかり、二年生の伊東に0−2と完封負けを喫している。
北陽と帝京といえばかつては高校サッカーでのライバル同士だったが、このときから野球でもライバルとなった。
'73年センバツではやはり北陽は強打で優勝候補と言われていたが、初戦で江川卓(巨人)の作新学院と当たり、19奪三振と江川に手も足も出なかった。
江川、伊東、荒木という投手に対し多大なる自信を与えた北陽打線はまさしく「好投手製造マシーン」と言えるだろう。


荒木は甲子園で無失点の好投を続け、早実は決勝戦に進出した。
一年生エースとしては、'77年の「バンビ」と言われた東邦(愛知)の坂本圭一以来の決勝進出だった。
決勝の相手は、同じ首都圏の横浜(神奈川)。
夏の甲子園決勝戦では、関東勢同士の対戦は初めてである。
そして横浜のエースはサウスポーの愛甲猛(ロッテ他)。
愛甲も一年夏に甲子園の土を踏んでおり「バンビ二世」と言われていた。
「バンビ二世」と「バンビ以来の一年生エース決勝進出」との首都圏決戦。
盛り上がらないわけがない。


1回表、早実が早くも1点先制するが、その裏に早くも横浜打線が荒木に襲いかかる。
1回裏、荒木は一死を取ったが、その後三連打であっという間に同点に追いついた。
これが荒木にとって甲子園に来てからの初失点であり、実はこの回にはある大記録がかかっていた。
荒木は準決勝までずっと無失点を続けていたが、そのイニング数は44回1/3。
この決勝戦で1アウトを取った時点で無失点記録は44回2/3に延びており、あと一死を取っていれば戦前の'39年の海草中(現・向陽)の嶋清一や戦後間もない'48年の小倉の福島一雄に並ぶ、45イニングス連続無失点という大記録に弱冠16歳の一年生が達成していたのだ。
しかし、横浜打線は大記録達成を許さなかった。
さらにこの後、動揺した荒木はボークでさらに失点を許している。
勝負に「タラ、レバ」は禁物だが、もし二回戦の東宇治(京都)戦で九回に荒木を温存し、二年生エースの芳賀を起用せずに(ちなみに、芳賀はホームランを打たれ1失点)、その回を荒木が無失点で凌いでいたら先人の大記録を破っていたかも知れない。


荒木はその後も横浜打線に捕まり、僅か3回5失点でKO。
早くも芳賀のリリーフを仰いだ。
5−1と横浜が一方的リードながらも愛甲がピリッとせず、5−4と詰め寄られ、同じ三年生の川戸浩にマウンドを譲った。
この大会の人気と実力を二分した左右の両投手があっけなくKO。
全国制覇の行方は両チームの日陰者に託された。
しかし、野球はわからない。
両チームとも控え投手に代わった途端、点が入らなくなったのだから。


一年生の荒木にエースの座を奪われた二年生の芳賀、一年生から活躍していた愛甲の影にずっと隠れていた三年生の川戸。
この日陰者対決は三年生の川戸に軍配が上がった。
6−4で早実を破った瞬間、川戸は両手を天に突き上げ、川戸にマウンドを譲ってファーストを守っていた愛甲はマウンドに駆け寄り、川戸と抱き合った。


その年の秋、秋季東京大会で優勝した早実は、当然のことながら翌'81年春のセンバツに選ばれた。
この時の荒木は前年夏の背番号「11」から、先輩の芳賀から奪い取ったエースナンバー「1」をひっさげて。
このセンバツでの早実の評価は優勝候補ナンバー1だった。
前年夏の挑戦者から、今度はチャンピオンとなったのである。
しかし、受けて立ったときのチャンピオンほど難しい立場はない。
早実は初戦の東山(京都)戦で序盤にリードを奪うものの、後半に荒木が東山打線に捕まり、2−6でアッサリと初戦敗退してしまうのである。


しかし、夏にはチームを立て直し、夏の甲子園に三季連続出場した早実は、荒木が一、二回戦を連続完封勝ち。
荒木、小沢にとっての三度目の甲子園は順調に見えた。
だが、三回戦で関西の強豪が待ち受けていた。
エースで四番の金村義明を擁する関西の強豪・報徳学園(兵庫)。
悲願の夏の甲子園初制覇を目指す早実にとって、報徳はあまりにも高い壁だった。


荒木―金村の緊迫した投げ合いが続き、均衡を破ったのが8回表の早実。
金村を一気に攻略して3点を奪い、試合を有利に導く。
その後、1点ずつを取り合って4−1と早実3点リードのまま迎えた9回裏の報徳の攻撃。
ここから金村の内野安打を皮切りに一気に荒木に襲い掛かり、あっという間に同点に追いついた。
強打・報徳の真骨頂である。
さらに延長10回裏に1点をもぎ取り、見事な逆転勝ちを収めた。
'61年夏の倉敷工(岡山)戦で6点差をひっくり返した「逆転の報徳」の伝統は生きていた。


翌年、最上級生となった荒木は春のセンバツに出場したが、早実は一、二回戦を順調に勝ち上がったものの、準々決勝での横浜商戦では1−3と完全に力負けした。
この時の横浜商のエースは二年生の三浦将明(中日)であり、荒木にとって初めて下級生の投手に敗れた試合だった。
この頃の荒木は、「ダイスケ・フィーバー」による取材攻勢や女性ファンからの異常な対応に追われ、投げ込みや走り込みの時間がなかなか取れない状況だった。
そのため、荒木は伸び悩んでいるのでは?との疑念も持たれるようになっていた。


それでも、高校三年の最後の夏、荒木はエースとして早実を甲子園まで引っ張ってきた。
荒木、小沢にとって、五度目の、そして最後の夏である。
早実は順調に勝ち上がり、準々決勝で池田(徳島)と対決した。
早実と並ぶ、優勝候補の呼び声が高い池田である。


池田の蔦文也監督は、宿舎を出るとき池田ナインに対し、帰り支度は整えておけよ、と指示していた。
お前たちには早実は倒せん、という意味である。
しかし、池田との対戦クジを引いた早実主将の小沢は不安を抱いていた。
「池田か、やるしかないな」と。
池田の猛打振りは実際に見ていた。
当時としては珍しいウェートトレーニングに励み、肉料理を中心にした食生活。
「打者が塁に出れば送りバント」という高校野球の常識を覆し、九番打者でもホームランを連発する池田のパワー野球は、早実ナインにとっても脅威であった。


そして、早実ナインの不安は現実のものとなった。
初回に池田の三番、二年生の江上光治が荒木から先制2ランを放つと、2回には荒木は3失点。
5−2と池田リードで進んだ6回裏、池田は荒木に引導を渡す。
一塁ランナーを置いて打者は二年生の五番・水野雄仁(巨人)。
荒木の速球を叩いた水野の打球はバックスクリーン左へ135mの大ホームラン。
池田のパワーに完膚なきまでに叩きのめされた荒木は控えの石井丈裕(西武他)にマウンドを譲る。
池田打線は石井にも容赦なく襲い掛かり、水野の二本目となるホームランが満塁ホーマーとなり、14−2で早実を圧倒した。
後にプロで活躍する投手二人に対し、14得点。
当時の池田打線の凄まじさがわかるだろう。


結局、荒木と小沢が在籍中の早実は全国制覇を成し遂げることはできなかった。
しかし、だからと言ってこの年代の早実に対する評価が下がるものではない。
一年生エースとして注目を浴びた東邦の「バンビ」坂本は一年生時の一度しか甲子園の土を踏めなかったが、荒木は現制度で最大の五度の甲子園出場を果たしたのだ。
これはよほどの実力がなければ成し遂げられるものではない。
さらに、この時代の早実は高校野球ファンのみならず日本中の注目を集め、さらに全国の高校球児の目標にされていたのだ。
全国の目標にされる高校―これこそが「高校野球最強伝説」にふさわしいチームである。


名門・早実の悲願の夏の甲子園制覇は、荒木が三年の年から24年後の2006年に、斎藤佑樹らの手によって成し遂げられた。