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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

最後の阪神×巨人戦

日本プロ野球では阪神×巨人戦が「伝統の一戦」と呼ばれているが、昨日は最後の「阪神×巨人」戦だった。
なにが「最後」なのかというと、今の形の阪神甲子園球場での試合として最後、という意味である。
10月から来年のリニューアルオープンに向けて改修工事に入るから、両チームがクライマックスシリーズに進出しても、阪神主催ゲームは京セラドーム大阪か神戸のスカイマークスタジアムが使用される。


阪神甲子園球場は1924年(大正13年)にオープンした。
ボストン・レッドソックスの本拠地であるフェンウェイ・パークが完成したのが1912年だから、甲子園の方が12歳若いわけだ。
ただし、その頃は日本にはプロ野球が無くて、中等野球(現在の高校野球)のために建てられた。
朝日新聞社主催の全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)が始まったのが1915年(大正4年)だったが、当時使用していた球場は豊中運動場だった。
しかし豊中運動場は観覧席らしいものが無く、また予想以上の中等野球人気で人が溢れかえった。
さらに、観客を輸送していた箕面有馬電鉄(現在の阪急宝塚線)は単線で1両編成、大勢の観客をさばききるのに、夕方に試合が終わっても9時ごろまでかかってしまう有様だった。
そこで主催者は豊中運動場の使用を僅か2年で諦め、阪神電鉄沿線にある鳴尾競馬場に目をつけた。
当時は馬券の発売が禁止されたため鳴尾競馬場は使用されず、また阪神電鉄は鳴尾競馬場に訪れる大勢の観客の扱いにも慣れていた。
そこで広い鳴尾競馬場の中にグラウンドを二面造り、大会を開催したのである。
だが、競馬用の大きなスタンドは使用できず、いつでも競馬場として使用できるように木造で移動式のスタンドを急遽備えたが、高まる中等野球人気にはとても対応できなかった。
おまけにいくら広い競馬場といっても、二面も使ったら野球場としては狭すぎる。


そこで阪神電鉄は鳴尾競馬場の使用を諦め、新球場建設の構想を練った。
タイミングよく、海の向こうのアメリカでは甲子園完成の前年の1923年(大正12年)、ニューヨーク・ヤンキースの本拠地であるヤンキー・スタジアムがオープンした。
収容人員6万7千人の、紛れもない世界一のスタジアムだった。
そこで当時、阪神電鉄の専務だった三崎省三が「ヤンキー・スタジアムに負けない、東洋一の大球場を造ろう」と号令をかけた。
そしてまだ入社二年目の若い野田誠三(後の阪神タイガースのオーナー)に新球場造りを命じた。
球場建設のノウハウなど知らない野田は三崎に、渡米してアメリカの球場を見てみたい、と願い出たが、三崎は許さなかった。
飛行機でアメリカに行かれる現在と違って、船旅で2ヶ月もかかる。
しかも当時のメジャー球団は東海岸に集中していたから、本格的なスタジアムを見学しようとすれば、西海岸からまた陸路の旅である。
三崎はなんとしても大正13年の夏までに新球場を完成させようとしていた。


やむなく野田はヤンキースに、設計図を送って欲しい、と依頼の手紙を出したが、返事はなかった。
しかし、野田の上司である石丸茂夫がニューヨーク・ジャイアンツ(現在のサンフランシスコ・ジャイアンツ)の本拠地であるボロ・グラウンズの設計図を入手していたので、野田はこの設計図を参考に図面を引いた。
阪神電鉄は、洪水の原因であるために廃川になることが決まっていた、枝川と申川(共に武庫川の支流)の跡地を買い取り、ここに新球場建設を決めた。
着工は1924年3月11日。
目標である中等野球大会までは5ヶ月を切っている。
しかしこの突貫工事は思った以上に順調に進んだ。
なにしろ川の跡地だから、コンクリートの材料となる砂や砂利は豊富にある。
そして僅か5ヵ月後、1924年7月31日に、遂に竣工した。


翌8月1日、開場式に立ち会った関係者はこの新球場を見て、みんな息を飲んだ。
内野席はコンクリートで50段、外野は土盛りで木造の20段、5万人収容可能な大スタンドだ。
まさしくヤンキー・スタジアムにも引けを取らない、東洋一の大球場である。
しかし、この途方もないスタンドには危惧の声も上がった。
こんな大スタンドでは、たとえ1万人の観客が入っても閑古鳥が鳴いているような気がするし、分不相応ではないか、と。
しかし三崎は違った。
いずれはこの規模でも狭く感じられるだろう、そのときはグラウンドにせり出してスタンドを造ればよい、と考えていた。
これは今で言う「フィールド・シート」のような発想であり、まるで平成の世、21世紀を見越していたような考え方である。
そしてオープンしたばかりの大会第4日目、今後10年は出ないだろうと思われていた「満員札止め」の字が躍った。
地元の第一神港商や市岡中が出場するとあって、5万人の客が一気に押し寄せたのである。
三崎の考えは正しかった。
このときのために、東洋一の大球場を造ったのだ、と。
その後、この新球場にアルプススタンドが出現し、また外野席もコンクリートになって内野席と同じ50段、6万人収容のスタジアムとなった。
なお、この「アルプススタンド」の名付け親は、かの爆発芸術家である幼少時代の岡本太郎だという説があるが、他説もあるので定かではない。
そして、スタンドの外壁には蔦が植えつけられた。
コンクリートが剥き出しだったら殺風景なので、蔦でも絡みついたら西洋の古城のように雰囲気が出るのではないか、そういう発想だった。
この蔦が、新球場に独特の雰囲気を与えることになる。


この新球場は「甲子園」と名づけられた。
球場が完成した1924年は、中国の十干の最初の年である「甲(きのえ)」年であり、また十二支でも最初の「子(ね、つまりねずみ年)」であることから「甲」と「子」の園、つまり「甲子園」となった。
この当時の甲子園は最新の設備を備えていた。
トイレは当時としては珍しい水洗式で、トイレを使用した選手が紐を引っ張ったとき水が流れ出したことに驚き、トイレを故障させたと大慌てになったというエピソードがある。
また、スタンド下に温水プールを造ったこともあった。
食堂は球場オープンと共に開業し、当時のメニューはカレーライスのみ。
このカレーライスはコーヒー付きで30銭、当時としては江戸前寿司と並ぶ贅沢品だった。
現在のカレーライスは庶民的な食べ物になったが、甲子園名物に変わりはない。


しかし、甲子園がいつまでも「近代的建造物」だったわけではなかった。
太平洋戦時中、「日本には鉄が足りない」という理由で、甲子園は名物である大鉄傘(今の大銀傘)が軍部に供出された。
内野の土の部分は芋畑になり、外野の芝生部分は軍用トラックの駐車場となった。
さらにスタンド下は軍需工場及び倉庫となった。
そして1945年(昭和20年)8月6日、広島が原爆地獄に陥っていた頃、甲子園も米軍による焼夷弾の洗礼を浴びていたのである。
甲子園は3日間、燃え続けた。


戦後になり、野球はGHQによる日本国民愚民化計画に利用された。
戦前から続いている職業野球(プロ野球)を発展させようとしたのである。
当時、甲子園は既に大阪タイガース(現・阪神タイガース)の本拠地だったが、客を集めるためにホームランを増やすことが必要と考え、ラッキーゾーンを造った。
この頃はホームランを増やすため、後楽園球場をはじめ、球場の箱庭化が始まったのである。
やがて日本にプロ野球ブームが到来、1951年には大屋根が大銀傘として復活し、そして1956年(昭和31年)にナイター照明設備が完成する。


その後はあまり大きな変化は無かったが、1978年(昭和53年)、甲子園内側の大工事が始まる。
これは当時阪神タイガース選手会長だった江本孟紀が、阪神球団社長に就任したばかりの小津正次郎に「甲子園のロッカールームと風呂は汚すぎるから、なんとかして欲しい」と直訴して、小津は「わかった」と、二つ返事で引き受けたそうである。
ただしこのエピソードは、江本が「プロ野球を10倍楽しく見る方法」シリーズで書かれていたものであり、信憑性のほうはいささか頼りないが。
ただ実際に当時の甲子園を訪れた筆者は、1979年のときの甲子園の内側はビックリするほど綺麗になっていた、という感想を抱いていた。


1982年(昭和57年)、甲子園は再び大きなチャレンジをする。
それまでは枯れていた外野の芝生を常緑にするというのだ。
それまでは、日本の芝生は寒さに弱いので、冬には枯れてしまうというのが常識だった。
だから春のセンバツでも、プロ野球が開幕した当初でも、芝生が枯れているのは当たり前だった。
しかし甲子園では、冬の間に牧草を育て、一年中緑で覆われる芝生の二毛作に成功したのだ。
そのため、翌年の春のセンバツでは緑まぶしい芝生の中で行われることとなった。
この芝生常緑化は野球以外のスポーツでも影響を与え、国立競技場や花園ラグビー場でも常緑の芝生となり、今や主要スタジアムで「枯れた芝生」が見られなくなった。


1984年(昭和59年)は、遂にスコアボードが電光掲示板になった。
いみじくも甲子園にとって還暦の年である。
それまでの甲子園は、「黒板にチョーク」という手書き式のスコアボードに愛着を持つ人が多く、電工化に反対の意見が多かった。
そこで明朝体を残し、チョークのイメージを保つために世界で初めて白色ブラウン管を採用した。
この情緒を残してくれたことに対し、多くの甲子園ファンは満足した。


その後も甲子園はマイナーチェンジを繰り返してきた。
戦後の猛虎打線を育てたラッキーゾーンは「国際的に合わない」と1992年(平成4年)に撤去され、元の「広い甲子園」が復活した。
スコアボードの電光掲示板は「黒板にチョーク」の伝統を残しつつ、カラーボードによるオーロラビジョンで観客を盛り上げる。
「狭い」と悪評だった観覧席も、少しずつ広くなってきた。


そして今秋から、大々的な甲子園リニューアル工事が始まる。
座席を広くして見やすくする、大銀傘を内野席全席まで覆って柱もなくす、いわゆるフィールド・シートの設立もある、と従来の甲子園とはかなり違う趣向も見られるようである。


もう今の甲子園を見られなくなるという寂しさも持つ一方、新しく生まれ変わる甲子園がどんなものなのか早く見てみたい気もするという、複雑な気分である。