短命に終わった首都。
詳しい情報はこちらのバスサガスから↓
第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。
6月18日、大阪府枚方市にある大阪国際大学・枚方キャンパスで、ラグビー・リーグのJRLナショナル・カップ2017関西ディビジョン第1ラウンドが行われた。
ラグビー・リーグというのは、五郎丸歩らがプレーしている15人制やオリンピック種目になった7人制のラグビー・ユニオンとは異なる球技である。
ラグビー・リーグとラグビー・ユニオンとの違いはここでも何度か書いたことがあるが、もう一度おさらいすると主な違いは以下の通り。
①リーグにもユニオンと同じくスクラムはあるが、ユニオンと違って押し合うことはほとんどなく、またラインアウトもない。
②リーグには、ユニオンではお馴染みのモールやラックなどの密集プレーがない。つまり①と合わせて、ユニオンにおけるフォワード(FW)のプレーがほとんどない。
③ユニオンと違って攻撃側と守備側に分かれており、タックルが成立するとプレーが止まって新たな攻撃がスタート。6回攻撃して得点を取れなかったら攻撃権が相手側に移るという、アメリカン・フットボール的要素がある。
④得点方法はユニオンと同じだが、トライ4点(ユニオンでは5点)、コンバージョン・ゴール2点(ユニオンも同じ)、ペナルティ・ゴール2点(ユニオンでは3点)、ドロップ・ゴール1点(ユニオンでは3点)などの差異がある。
筆者がラグビー・リーグを観戦するのは今回で4回目。
過去の記事は以下をクリックしてご参照いただきたい。
日本ではラグビーというとユニオンを指すので、リーグの試合を見る機会はなかなかない。
ましてや、関西となるとなおさらだ。
最近でこそリーグ出身のソニー・ビル・ウィリアムズ(SBW)やクレイグ・ウィングらが日本のユニオンでプレーするようになって、日本のラグビー・ファンにもリーグの存在が浸透しつつあるが、一般人にはラグビーが2種類あるなんてほとんど知られていないだろう。
しかし、過去8回のワールドカップ(RWC)で2度の優勝を誇るユニオンの強豪国・オーストラリア(ワラビーズ)ですら、本国での人気はユニオンよりもリーグの方が上なのだ。
さて、今回は関西での公式戦。
関西雷とウェストミックス関西との対戦だ。
9人制で行われ、試合時間は各10分のクォーター制。
リーグはユニオンと違って夏のスポーツとはいえ、デーゲームは選手にとってやはり暑いだろう。
しかし、空梅雨模様の今年も、この日は曇りだったのでコンディション的にはまだ良かった。
13時15分、人工芝にボールが置かれ、いざキック・オフ!(リーグのキック・オフはユニオンと違ってプレース・キック)
キック・オフはプレース・キック(ユニオンはドロップ・キック)
両チームとも日本人と外国人の混成チーム。
そして、ウェストミックスには、日本ラグビー・リーグ協会の会長が御自ら選手として参加していた!
しかも、見事なトライまで決めたのである。
外国人選手はやはりデカいが、小さい日本人選手も果敢にタックルを仕掛ける。
今回の試合風景
そして、いつも思うのが、選手たちはどうやって攻撃回数を数えているんだろう、ということ。
前述したとおり、リーグでは6回の攻撃の間に点を奪わなければ相手に攻撃権を渡してしまうので、何回目の攻撃か把握していなければならない。
アメリカン・フットボールだと、攻撃が止まればハドル(作戦会議)を行ったりするので間があるが、リーグはタックルが成立してもどんどんゲームが流れるのである。
少なくとも観戦している時には、何回目の攻撃かわからなかった。
タックルが成立すると、上の動画にもあるように、リーグ独特のプレイ・ザ・ボールからすぐに試合を再開する。
プレイ・ザ・ボールは、ユニオンにはないプレーだ。
プレイ・ザ・ボール
もちろん、リーグも元々はユニオンから派生したスポーツであり、ラグビーには違いないのだから、ユニオンとの共通点も多い。
トライを取るという目的は同じだし、前へのパス(フォワード・パス)は禁止、ボールを前に落としてもダメ(ノックオン)、ボールより前にいる選手がプレーに参加するとオフサイドの反則になるのもユニオンと同じだ。
ボールを持って疾走、相手がタックルに行くのはリーグもユニオンも同じ
結局、試合はウェストミックスが関西雷に40-34(前半18-20)で勝った。
試合後はユニオンと同じく敵味方なしのノーサイド、両チームで記念撮影した。
両チームの選手およびその子供も入って記念撮影
この後はアフター・マッチ・ファンクション、と言いたいところだが、せっかくの関西でのゲームなのにたった1試合だけではもったいない!ということで、やる気満々の選手たちは公式戦後もエキシビション・マッチを行った。
なんと女性も交えての試合となったのである。
エキシビション・マッチでの独走トライが決まる
日本のラグビー・リーグにも代表チームがあり、日本代表の愛称はサムライズという。
もちろん、他国とのテストマッチも行われるし、海外遠征もある。
リーグの悩みは、日本では競技人口が少ないこと。
ユニオンとの掛け持ちの選手も多いようなので、ユニオン経験者はリーグもプレーし、できればサムライズ入りを目指してもらいたい。
そして、試合後に会長にもお願いしたのだが、ぜひとも大阪でテストマッチを行って欲しいものである。
おまけショット:初めて見たゴール・ポストの解体作業。真ん中のバーは取り外せるようになっていたのか
東隣り町の高台から見たPL大平和祈念塔と羽曳野丘陵。遠くに見えるのは大阪湾
●一回戦
P L 000 300 000=3
西日本短大付 000 001 000=1
●二回戦
P L 005 101 010=8
広島商 000 000 000=0
●準々決勝
帝京 000 100 001 00=2
PL 100 010 000 01x=3
●準決勝
P L 000 104 000 000 03=8
東海大甲府 203 000 000 000 00=5
●決勝
関東一 000 100 000=1
P L 200 000 32x=7
1986年、桑田真澄(元:巨人ほか)と清原和博(元:西武ほか)といういわゆる「KKコンビ」が抜けたPL学園(大阪)だったが、春のセンバツに選ばれて6季連続甲子園出場を果たした。
しかし、一回戦の相手は奇しくも2年連続で浜松商(静岡)、前年は11-1と大勝したにもかかわらず、この年は1-8の完敗、初戦敗退でPLの伝統に泥を塗ってしまった。
そして夏の大阪大会では準決勝で泉州(現:近大泉州)に0-1の完封負け、7季ぶりに甲子園出場はならなかったのである。
「KKコンビが抜けてPLは普通のチームになってしまった」
そんな声が聞かれた。
実際にこの年の三年生でプロ入りしたのは霜村英昭(元:ヤクルト)ただ1人、しかもドラフト外入団で一軍出場は無かったという、PLでは珍しいエアポケットの年だったのである。
その年の秋、三年生が引退して新チームが結成された。
キャプテンは前年度からレギュラーの名遊撃手・立浪和義(元:中日)。
投手陣は左腕の野村弘(現:弘樹。元:大洋・横浜)、右腕速球派の橋本清(元:巨人ほか)、右腕技巧派の岩崎充宏という3人体制となった。
この年のセンバツではリリーフとして甲子園のマウンドに上がった深瀬猛は内野手に専念、四番打者の座に座る。
他に話題性がある選手として、桑田真澄の弟で現在はゴルフのレッスン・プロとして活躍している桑田泉が外野手の控えだった。
KKコンビのような突出した選手はいないが、粒揃いで甲子園制覇も狙えるチームと目されていたのである。
ところが秋季大阪大会の準決勝、この試合に勝てば近畿大会出場が決まるという大事な試合で、PLは大商大堺に0-2の完封負けを喫する。
3位決定戦では、東海大仰星に苦戦するも4-1で振り切り、なんとか近畿大会に進出した。
近畿大会の初戦を突破して、準々決勝の相手は大阪大会で敗れた大阪2位校の大商大堺。
勝てば翌春のセンバツ出場はほぼ確定だが、敗れれば大阪1位校の市岡も準々決勝に進出しているだけに、3位校であるPLのセンバツは絶望的だ。
大商大堺はPLに勝った自信からか、序盤から溌溂としたプレーを見せ、野村と橋本を打ち込んで5回表を終わった時点で5-1と一方的リード。
勢いから言って、大商大堺のコールド勝ちも充分に有り得た。
昨年夏までは無敵を誇ったPLが、まさかのコールド負け……。
立浪や橋本は大商大堺に進学するはずだったが、やはりKKコンビに憧れてPLへ。
「センバツはもう無理か……。もし俺が大商大堺に進学しとったら甲子園へ行けたかも……」
と、立浪が諦めかけてベンチに帰ってきた5回裏の攻撃前、中村順司監督のカミナリが落ちた。
「お前ら、今日が何の日か忘れたんか?今日は南の月命日やぞ。こんな試合しとって、南に申し訳ないと思わんのか!」
南とは、立浪らと同学年だった南雄介のことである。
南は、新チームではクリーンアップ間違いなしと言われていたほどの選手だったが、この年の夏に不幸にも水難事故に遭ってしまい、若い命を落としたのだった。
南のことを思い出したPLナインは発奮、大阪大会で完封を喫した大商大堺のエース前田克也を捉えて5回に2点、6回に3点を奪って一気に逆転、その後もさらに加点して8-5で雪辱を果たしたのである。
準決勝でPLは明石(兵庫)に2-4で敗れたものの、翌春のセンバツ出場を果たした。
勝負の世界でタラレバは禁句だが、もし近畿大会で大商大堺に敗れていればセンバツ出場はなく、この年度のPLは伝説のチームとはならなかっただろう。
あるいは、この時のPLと大商大堺は1勝1敗で、もし勝ち負けの順序が逆だったら大商大堺が近畿大会準決勝に進出し、センバツ出場を果たしていたことになる。
あるいは、PLが負けたのが夏の大阪大会だったら、その時点で甲子園出場は夢と消えていた。
逆に大商大堺は全てのタイミングが悪く、甲子園出場を逃してしまった。
ちなみに大商大堺はその後も、何度も秋季近畿大会や夏の大阪大会決勝に進出するもあと一歩でいつも敗れ、2017年春の段階で未だに甲子園出場はなく、「全国一の悲運校」と呼ばれている。
センバツでの優勝候補は、PLから主役の座を奪い返した前年度優勝校の池田(徳島)。
PLも一応は有力校の一つに挙げられていたが、大阪3位、近畿大会準決勝敗退では、さほど前評判は高くなかった。
初戦の相手は、大会№1サウスポーの呼び声高い石貫宏臣(元:広島ほか)を擁する西日本短大付(福岡)。
一方、PLの左腕・野村は腰を痛めていて、苦戦が予想されていた。
だが、朝8時の試合が奏功したのか、石貫の体がまだ眠っている4回表にPLが速攻を仕掛け一挙3点を先取。
野村は4回裏に連続四球を与えた場面で早々とマウンドを降り、橋本にスイッチ。
橋本は6回裏に1点を失うも6イニングで8奪三振の好投を見せ、PLが3-1で初戦を突破した。
試合後、立浪は「今日の勝利は(昨年、初戦敗退した)先輩たちに捧げる1勝」と語った。
二回戦の相手は名門の広島商(広島)。
3回表、PLは集中打を浴びせて一挙5点、その後も着々と加点した。
すっかり楽になった先発の野村は、7回無失点の好投でマウンドを降りた。
8回から登板した岩崎は、無失点に抑えるものの2イニングで4安打を浴び、やや不安を残す。
結局、PLは8-0で広島商を一蹴、ベスト8へ駒を進めた。
試合後の立浪は「今日の勝利は僕たちの1勝」と胸を張った。
準々決勝は強敵・帝京(東京)との対戦。
1回裏、PLは二番の尾崎晃久が帝京のエース芝草宇宙(元:日本ハムほか)からソロ・ホームランを放ち1点先制。
しかし帝京も4回表、PL先発の野村を攻めて1点を返し同点に追い付く。
だがPLは5回裏に一番・蔵本新太郎の左前打で1点を加え、2-1と勝ち越した。
PLは7回途中から橋本にスイッチ、逃げ切りを図る。
9回表、粘る帝京は大井剛が中前適時打を放ち、同点に追い付いた。
延長戦に入り10回表、帝京は四球を選び無死一塁。
ここでPLベンチが動く。
ピッチャーを橋本に代えて、前の試合では不安定だった岩崎をリリーフに送った。
もう後ろのピッチャーがいなくなったPL。
帝京は送りバントをせずに強攻策、これが当たってセンター前ヒット、無死一、三塁と絶好のチャンス。
三番手投手の岩崎、ここは落ち着いて次打者を三振に打ち取る。
一死一、三塁、途中出場の池野繁の打席で帝京はスクイズを敢行。
しかし、岩崎はキレの鋭いカーブで空振りに仕留め、飛び出した三塁走者は憤死、PLは絶体絶命の大ピンチをしのいだ。
延長11回裏、PLは二死一、三塁のチャンスで打席は六番の長谷川将樹。
芝草の速球を捉えた長谷川の打球はライト前へ。
PLのお家芸・サヨナラ勝ちで準決勝に進出した。
勝利を呼び込んだのは「第三の投手」岩崎の好投であり、「勝負弱い」と言われていた長谷川の一打という、いずれも脇役の選手だったのである。
それは、KK時代とは違うこの年のPLを象徴していた。
準決勝の相手は、センバツ初出場ながら夏は甲子園ベスト4の実績を持つ東海大甲府(山梨)。
エースの山本信幸は二回戦、準々決勝と2試合連続完封で調子を上げていた。
打線も一番打者の久慈照嘉(元:阪神ほか)を中心に得点力があり、下馬評では好勝負の予想。
東海大甲府は初回、PL先発・野村の立ち上がりを攻めていきなり2点先制した。
3回裏にも野村を攻め立てて早くもKO、さらにリリーフの橋本も捉えて3点を奪い、試合を有利に進める。
しかもPLは、帝京戦で芝草からホームランを放ったセカンドの尾崎がイレギュラー・バウンドを顔面に受けて負傷退場、代わって準々決勝までレフトで先発出場していた西本篤史がセカンドに入るという非常事態。
一方、攻撃陣は3回まで山本にパーフェクトで抑えられ、しかも0-5と一方的リードを許したPLだったが、選手たちが慌てることはなかった。
「昨秋の近畿大会でも、大商大堺に1-5から逆転勝ちしたんや。今日だって負けるわけはない」
そう信じたPLナインは4回表に1点を返し、さらに6回表にはまさしく神風が吹いた。
尾崎に代わって二番に入った西本の当たりは平凡なレフト・フライ、と思いきや強風のためレフトが目測を誤り2ベース。
さらに四番・深瀬のレフトへの高いフライも、またもやレフトが強風で捕れずに二塁打となった。
そして野村に代わって五番に入った橋本が左前打、六番の長谷川がレフト・オーバーの2ベース、仕上げは七番の片岡篤史(元:日本ハムほか)のレフト線への二塁打と、この回だけでレフトへの二塁打を4本集中させて同点に追い付いた。
だが、ここから山本が踏ん張り試合は膠着状態に入る。
9回を終えて5-5の同点、試合は延長戦に突入した。
PLは橋本から岩崎にスイッチ、もう後ろにリリーフはいない。
一方の東海大甲府は山本がマウンドを守り続ける。
岩崎は二回戦の広島商戦での不安定な投球がウソのように、東海大甲府打線を完璧に抑えた。
そして延長14回表、PLは二死満塁のチャンスを掴み、打者は準々決勝のヒーロー長谷川。
「四球の後の初球」を叩いた長谷川の打球はレフト頭上を遥かに越える、走者一掃の2ベースとなった。
「勝負弱い男」長谷川の、2試合続けての殊勲打により東海大甲府を8-5で振り切り、PLは決勝進出。
まさしく「逆転のPL」の真骨頂だが、甲子園で5点ビハインドをひっくり返したのは、後にも先にもこの試合だけである。
決勝に進出してきたのは、準決勝でディフェンディング・チャンピオンの池田を破った関東一(東京)。
東京vs大阪といういわゆる二都決戦で、甲子園は5万5千人の超満員札止めになった。
PLにとって、甲子園の決勝で東京勢と当たるのはこれで4度目。
これまでの戦績は1勝2敗、大阪の意地でなんとしてもタイに持ち込みたいところだ。
関東一はアンダースローのエース平子浩之と、強打の四番・三輪隆(元:オリックス)のバッテリーを中心とした好チーム。
特に池田を破ったことにより勢いに乗っていた。
PLの先発は野村、そして捕手は打撃不振の伊藤敬司に代わって松下仁彦が甲子園初の先発マスクを被る。
セカンドには、準決勝で顔面に打球を受けて口内出血、お粥しか食べられなくなった尾崎が二番打者として戻ってきた。
PLは初回、二死一塁で打者は当たりの出ていない四番・深瀬。
ここでまたPLに神風が吹く。
深瀬の打球はピッチャーとキャッチャーの間に上がるポップ・フライ。
しかし、平子と三輪がお見合いしてしまい、ファウルとなった。
生き返った深瀬の鋭い打球は左中間を破り、二塁打となって1点先制。
さらに続く五番の野村も左中間へ2ベース、PLは幸先よく2点を先制した。
4回表に関東一も1点を返し、2-1と1点差に詰め寄られたPLの、7回裏の攻撃。
無死一、三塁という絶好のチャンスを迎え、打席に立つのはこれまで先制打を含む二塁打2本、完全に調子を取り戻したプロ注目の四番・深瀬。
カウント1-1から一塁走者の立浪が盗塁、深瀬は援護の空振りをして、無死二、三塁とチャンスは広がったもののカウント1-2と追い込まれた。
この時、中村監督はピンと来たという。
「コイツ、サインを待ってるな」
と。
平子が投げた瞬間、深瀬のバットが下がった。
全く無警戒だった関東一バッテリーの虚を突いて、四番打者がまさかのスリーバント・スクイズ!
これが見事に決まって、PLは待望の3点目をむしり取った。
さらに、野村の代わりに五番に入った橋本もスクイズ、4点目を奪う。
強打PLが、まさかの四番と五番(は代役だが)の連続スクイズだ。
この回、PLは長谷川、片岡の連続二塁打で1点を追加、5-1として関東一を突き放した。
そして8回裏には、またもや深瀬がこの試合3安打、4打点目となる右前打を放ち2点を加え、PLの勝利は盤石のものとなる。
守っては6回から登板した橋本が剛速球を武器に強打の関東一打線をねじ伏せ、7-1で関東一を破り、3度目のセンバツ制覇を果たした。
この大会でのPLは、KK時代とは明らかに異なる戦いぶりだった。
桑田1人に頼っていた投手陣が、この大会では3投手による継投で、史上初の「完投投手なしによる優勝」となった。
しかも柱になる投手がいなかったわけではなく、先発は左腕の野村、中継ぎに剛球の橋本、抑えは変化球の岩崎という、異なるタイプのエース級ピッチャーを次々に継ぎ込む、これまでの高校野球には見られなかった戦法。
まるでプロのように、投手分業制を敷いて優勝した初めての高校だった。
そして打線でも、「清原二世」と呼ばれた深瀬ですらスリーバント・スクイズをさせるなど、全員で1点をもぎ取る執拗な攻撃。
清原が中心だった頃と違い、ホームランは尾崎の1本だけ。
それでも長打力が無かったわけではなく、ここぞというところで集中打をたたみ掛け、誰かが不振でも誰かが穴を埋めるという全員野球。
二回戦の広島商戦以外は苦戦の連続だったが、驚異の粘りで「逆転のPL」の復活を印象付ける大会でもあった。
大阪3位、近畿大会準決勝敗退という「弱いPL」が春の頂点に立つことにより、自信を付けた選手たちは、恐るべき強力チームとなって夏を迎えるのである。
【つづく】
①野村 弘 三年
②伊藤敬司 三年
③片岡篤史 三年
④尾崎晃久 三年
⑤深瀬 猛 三年
⑥立浪和義 三年 主将
⑦岩崎充宏 三年
⑧蔵本新太郎 三年
⑨長谷川将樹 三年
⑩橋本 清 三年
⑪松下仁彦 三年
⑫桑田 泉 三年
⑬西本篤史 三年
⑭成松紀彦 三年
⑮吉本 守 三年
1987年春
大阪府富田林市にあるPL球場
●二回戦
東海大山形 001 000 015=7
P L 254 362 52x=29
●三回戦
津久見 000 000 000=0
P L 000 201 00X=3
●準々決勝
高知商 020 000 100=3
P L 004 020 00X=6
●準決勝
甲西 000 002 000=2
PL 223 420 20X=15
●決勝
宇部商 010 002 000=3
P L 000 111 001x=4
2年前の夏、スーパー一年生として名門・PL学園(大阪)を甲子園制覇に導いたエースの桑田真澄(元:巨人ほか)と四番打者の清原和博(元:西武ほか)。
人はいつしか彼らをKKコンビと呼ぶようになった。
KKコンビの二年時は春夏連続甲子園準優勝。
二年生が中心のチームで、普通の感覚では凄い成績なのだが、彼らも周囲も納得しなかった。
KKコンビが中心のPLは、常に甲子園でも優勝を義務付けられていたのである。
春は甲子園初出場の岩倉(東京)に決勝で敗れて中村順司監督の甲子園連勝記録は20でストップ、夏は県立校の取手二(茨城)に決勝で延長戦の末に敗れた。
岩倉と取手二、共通していたのは「ノビノビ野球」と呼ばれる自由奔放なプレーだった。
それに対し、PLは「管理野球」と呼ばれていたのである。
「ノビノビ野球が管理野球のPLを打ち破った!」とマスコミはこぞって書き立てた。
KKコンビの二年秋、PLは東洋大姫路(兵庫)に敗れたとはいえ近畿大会準優勝、翌春のセンバツには文句なく選ばれた。
最上級生になったKKコンビには中心選手としての自覚が芽生え、さらに他のメンバーも充実、センバツでPLはダントツの優勝候補と言われていた。
それどころか「戦後最強軍団」とさえ謳われたのである。
「サンデー毎日」のセンバツ・ガイドブックでは、PLは投攻守全ての部門で95点評価、総合点でも32校中ただ1校のみの95点評価だった。
しかし、前評判通り順調に勝ち進んだPLだったが、準決勝では甲子園初出場で県立校の伊野商(高知)に1-3で敗れ、まさかの決勝進出前での敗退となってしまった(伊野商は決勝でも勝って優勝)。
KKコンビが甲子園で決勝に進出できなかったのは、後にも先にもこの大会だけだ。
特に清原は、伊野商のエース渡辺智男(元:西武ほか)に3三振を食らうという完敗を喫したのである。
清原は、渡辺の146km/hの快速球に、手も足も出なかった。
「なんだ?この練習は??」
PLの練習を見に訪れた記者は一様に驚く。
「ウェーイ、ウェーイ」という野球部にありがちな、意味不明の掛け声は聞こえて来ない。
代わって聴こえてくるのは、当時流行っていた中森明菜の「1/2の神話」などのヒット曲である。
選手を怒鳴るべき中村監督は、芝刈り機を運転して外野の芝生を呑気に整備していた。
選手がエラーしても、「いいかげんにしろ!」という中村監督の怒声の代わりに、「いいかげんにしてぇ~♪」と中森明菜の歌声がPL球場に鳴り響く。
現在でこそ練習中に音楽を流すのは珍しくもないが、当時の野球部、特に名門校と呼ばれる高校では異例のことである。
「曲は選手が選んで、1本のテープ(当時はカセット・テープが主流だった)を作ってかけています。音楽をかけた方がリズムに乗れるし、練習も楽しいでしょう」
芝刈りを終えた中村監督がそう明かした。
「PLは管理野球」という先入観を持った記者連中は、みんな面喰ってしまう。
練習内容だって、特に変わったことをしているわけではない。
猛練習をイメージしていた記者にとって、PLの練習風景はあまりにもノンビリしすぎていた。
「単調な練習を長時間やっても選手は飽きるだけで、技術は向上しません。それに、選手たちは自分が何をすべきかわかっているので、私は気付いた点をアドバイスするだけです。桑田ですか?そう言えばアイツ、どこへ行ったのかな?」
と中村監督はアナタ任せ。
そのころ桑田は、グラウンドから離れて芝生に寝そべりながら自己流の調整を行っていた。
これも「管理野球」からかけ離れた光景である。
練習時間の短縮を中村監督に進言したのは桑田だった。
元々、中村監督になってからのPLは練習時間も短くなったのだが、それをさらに緩めて欲しいと願い出たのである。
岩倉、取手二、伊野商に敗れて、楽しそうに野球をする彼らに触発されたのだ。
中村監督も桑田の要望を聞き入れ、全体練習は短縮されたのである。
だからといって、練習内容が薄くなったわけではない。
その分、自主練習にウェートが置かれるようになったのだ。
勝つために、自分の技術を高めるために、チーム内の競争に打ち勝つために、そしてより野球を楽しむために、自己管理が必要になった。
清原は伊野商に敗れた晩、室内練習場で鬼神の如く打ち込みをした。
渡辺に3三振を食らった悔しさから、練習の鬼となったのである。
桑田はみんなが寝ている早朝に起きて、PLゴルフ場を走り回り下半身強化に努めた。
夏を投げ抜く体力を付けるために。
その他のメンバーも、KKコンビに負けぬよう、自主練習に励んでいた。
その分、全体練習では明るい雰囲気が流れていたのである。
「桑田は一年から投げていて、1日に何百球も投げ込んでいるので肩が使い減りしている。プロでは通用しないだろう」
などとマスコミはステレオタイプ的に報じていたが、桑田は意に介さず右肩を見せて、
「僕の肩、全然”減って”ないでしょ?」
と記者に対して冗談を飛ばしていた。
センバツ後、桑田はオーバーホールに努め、投げ込みも4~50球程度に抑えていたのである。
調整は完全に、中村監督から任されていた。
練習試合や春季大会では桑田をほとんど登板させず、控え投手の小林克也らにマウンドを託してのだ。
それでも春季近畿大会決勝に進出してしまうのだから、この年のPLは恐ろしい。
ようやく決勝で先発した桑田は、センバツ8強の天理(奈良)を相手にノーヒット・ノーランの快挙を演じてしまった。
この試合で清原も2ホーマーを放ち、もちろんPLは近畿大会優勝、夏に向けて試運転は完璧だった。
いよいよKKコンビ最後の夏、大阪大会が始まった。
今までの「優勝がマスト」のPLから硬さが取れ、大阪大会を圧倒的な力で勝ち進んだ。
KKコンビの他にも、主将で二塁手の松山秀明(元:オリックス)、俊足の中堅手・内匠政博(元:近鉄)、高校時代は背番号2ながら控え捕手だった今久留主成幸(元:大洋ほか)と、後に5人もプロ入りする才能集団。
「戦後最強軍団」の名に恥じぬ実力を見せ付けた。
大阪大会決勝の相手は、新興校の東海大仰星。
ここでも清原は2ホーマーを放つなど、後にプロ入りする二年生の小坂勝仁(元:ヤクルトほか)を完膚なきまでに叩きのめし、PLは17-0でアッサリと5季連続甲子園出場を果たした。
レベルが高い大阪で、5季連続甲子園出場など至難の業だ。
ちなみに、夏の大阪大会3連覇は、この年のPLが史上初である(後に大阪桐蔭も記録)。
甲子園出場校が全て決まり、抽選によりPLは二回戦からの登場、初戦の最終日となる第7日に東海大山形(山形)と対戦することとなった。
つまり、1週間も待ちぼうけを食らうことになったのである。
当時のPLは甲子園に出場しても、研志寮からバスに乗って試合ごとに甲子園入りしていたから、普段と変わらない生活をしていた(現在では、PLが甲子園出場した際には大阪市内のホテルに宿泊する)。
他校の選手たちは甲子園入りすると、まるで修学旅行のように非日常の生活を味わえるのに、PLナインは研志寮で寝泊まりしてPL球場で練習するという、全く代わり映えのしない日常。
試合ができないイライラも募って、清原は取材に来た記者に対し「僕ら、ホンマに甲子園に出場してるんですかね?」と愚痴をこぼしていた。
憂鬱だったのはPLナインだけではなかった。
対戦相手の東海大山形、監督の滝公男である。
系列校のよしみで東海大仰星から大阪大会決勝のビデオが送られてきたが、5回にPLが9-0と一方的リードになった時点で、滝監督はビデオを消してしまった。
こんな試合を見ても何の参考にもならず、ただ恐怖心が募るだけだ、と。
そして、滝監督の悪い予感は、予想を遥かに越える現実となってしまった。
1週間待ってようやく甲子園に真打ちのPLが登場、待ってましたとばかりマンモス・スタンドは5万8千人の超満員となった。
それは、PLの猛打ショーを見るために他ならない。
その期待に応えるように、PL打線は打ちまくった。
どんな試合だったかは、冒頭のランニング・スコアを見れば一目瞭然、29-7という甲子園史上最多得点、さらに甲子園史上初の毎回得点試合となった。
完全試合よりも確率が低いと言われる毎回得点、後攻で8回までの攻撃だから達成できたとも言えるが、逆に先攻だったら30得点に届いていたかも知れない。
あまりの惨劇に、山形県議会では「本県の高校野球はなぜこんなに弱いのか」と大真面目に議論されたほどだ。
しかし、PLナインの中で一人だけ浮かぬ顔をしていた男がいた。
四番の清原である。
この試合で清原は5打数2安打でホームランなし、PL打線の中で一人取り残された形となった。
それでも一つだけいいことがあった。
夏の甲子園のマウンドに立ったのである。
この年のセンバツ初戦、浜松商(静岡)戦でもリリーフとして登板したが、夏の熱い甲子園のマウンドに立つのは初。
結果は2/3回を投げて打者4人、1奪三振2四球と、ピリッとしない内容。
「桑田みたいにはイカンな。ピッチャーをやめてホンマ良かったわ」と苦笑いしていた。
それでも清原は、甲子園のマウンドに立てたのは何よりも嬉しかったと語っている。
三回戦の相手は、センバツで「PLキラー」東洋大姫路を破った津久見(大分)。
初戦とは一転、1点を争う好ゲームとなった。
2-0とPLリードで迎えた6回表、津久見の攻撃。
二死一塁で打席に入るのは、センバツでの東洋大姫路戦では、昨秋の近畿大会でPLを完封した豊田次郎(元:オリックス)からホームランを打った主砲の上島格。
桑田の球を捉えた上島の打球はセンターへグングン伸びる。
あわやホームランか?という打球をセンターの内匠が背走、また背走してフェンスに激突しながら好捕。
抜けていれば1点は確実だっただけに、桑田を救うビッグ・プレーとなった。
筆者が見てきた中で、甲子園史上最高のスーパー・プレーである。
結局、桑田は8安打を浴びながらも要所を締めて完封、PLは3-0で津久見を退けてベスト8に進出した。
準々決勝の相手は、2年前の夏にも準々決勝で対戦した高知商(高知)。
あの1978年夏、決勝でPLが奇跡の逆転優勝を演じた因縁の相手である。
2年前は10-9の大接戦でPLが勝利、高知商は雪辱に燃えていた。
それだけでなく、この試合が事実上の決勝戦と言われていたのだ。
高知大会決勝で高知商は、センバツ優勝校の伊野商に5-1で逆転勝ちした。
エースの中山裕章(元:横浜大洋ほか)は最速148km/h、清原を3三振に斬って取った伊野商の渡辺以上と噂された剛腕である。
現在でこそ150km/hを投げる高校生はいるが、当時は148km/hと言えば驚天動地の剛速球だった。
実は2年前、一年生だった中山裕はPL戦でリリーフ登板している。
この時は3回2/3を投げて、三年生エースの津野浩(元:日本ハムほか)をメッタ打ちにしたPL打線に対して被安打1、無失点の好投を演じて、大器の片鱗を見せていた。
この試合で先発した桑田は、中山裕が登板した頃には既に降板、つまり「すれ違い対決」となっている。
KKコンビおよび中山裕が最上級生となった試合、2回表に高知商は川村建志が桑田から2ランを放ち2点先制。
しかし3回裏、PL打線は中山裕を捕まえて集中打を浴びせ一挙4点、あっという間に試合をひっくり返した。
さすが優勝候補同士の好勝負となる。
試合のハイライトとなったのは5回裏、PLの攻撃。
先頭打者として打席に立った清原は、中山裕渾身の内角剛速球を完璧に捉えた。
「中山君の球は手ぇ出えへんほど速かったけど、高校生活で最高の当たりでした(清原)」
「打たれて気持ち良かったというか、どこまで飛んで行くんやろ、って(中山裕)」
清原が叩いた打球はレフト・スタンド中段のやや上へ。
高校野球史上最長とも言われる、140m超特大弾である。
これが清原にとって、今夏の甲子園で初ホーマーとなった。
センバツで渡辺から3三振を食らって以来、速球対策でずっとバットを振り続けていた成果が出た一発だ。
渡辺に対して直接のリベンジはできなかったが、その渡辺に勝って甲子園に来た中山裕からこれ以上ないホームランを放ったのだから、春の借りを返したと言える。
さらに一死後、六番の桑田が放った打球は右中間ラッキーゾーンに飛び込む。
剛腕・中山裕から打ったKKアベック・ホームランにより6-2と差を広げた。
その後、桑田は1点を失ったものの、PLは6-3で難敵中の難敵・高知商を退け、準決勝に進出したのである。
高知商は三たび、PLの前に涙を飲んだ。
準決勝の相手は創立3年目の県立校、準々決勝では後のメジャー・リーガー「大魔神」こと佐々木主浩(元:横浜大洋ほか)を打ち崩し、東北(宮城)を破った初出場の甲西(滋賀)。
数々の奇跡を起こして準決勝まで勝ち進んだ「ミラクル」甲西だが、創部3年目と「戦後最強軍団」では格が違い過ぎた。
もちろん、試合前の予想ではPLが圧倒的有利。
甲西の奥村源太郎監督は「今日の相手は今までで一番楽だ。10点差以内なら、お前たちの勝ちなんだから」と選手たちに訓示を垂れていた。
しかし、試合は奥村監督の「10点差以内」をも超える試合となる。
PLは4回まで松山や内匠のホームランなどで11-0と一方的リード、そして5回には清原が今大会2本目となるホームラン(2ラン)を放ち、13-0とさらに差を広げた。
しかし、甲子園の大観衆はひたむきにプレーする「ミラクル」甲西を応援し、6回表には西岡伸剛が桑田から2ランを放ち、遂に甲西のスコアボードに「0」以外の数字を入れた。
一方、PLは5回まで毎回得点、東海大山形戦に続く2度目の毎回得点試合か、と思われたが、6回裏は甲西のエース金岡康弘が無得点に抑え、初めてPLのスコアボードに「0」を入れ、甲西のアルプス・スタンドは2-13と一方的ビハインドにもかかわらずお祭り騒ぎ。
6回表裏の1イニングだけを見ると、2-0で甲西がPLに勝っている。
ここで桑田はお役御免、リリーフのマウンドには田口権一が上がった。
PLに入学した時は桑田以上に期待されていた田口だが、夏の甲子園のマウンドに立つのはこれが初めてである(センバツでは二年時に2度、先発マウンドを経験し、1勝を挙げている)。
田口は3イニングを無失点で片付け、7回裏には清原がこの試合2本目、今大会3本目となるホームラン(2ラン)を放ち、PLは甲西を15-2で一蹴、決勝に進出した。
しかし甲子園のスタンドからは、「甲西高校1期生」の戦いぶりに大きな拍手が巻き起こった。
一年生のKKコンビが甲子園で大活躍していた頃、先輩のいない甲西の一年生たちは石ころを拾いながら野球ができるグラウンドを造っていたのである。
点差を見るとPLの快勝のように思えるが、7回まで3-2と接戦だったのだ。
しかも、夏の宇部商は春の段階とは別のチームになっていた。
まず、エース左腕の田上昌徳が不調のため先発を回避、控え右腕の古谷友宏が先発マウンドに立ったことと、もう一つはセンバツでは怪我で欠場していた藤井進が四番に座っていたことである。
特に藤井は、今大会では清原の3ホーマーを上回る大会新記録の4ホーマーを放っており、最も警戒すべき打者に成長していた。
しかもPLにはアクシデントが起きていた。
準決勝の甲西戦で清原が打球を右脚ふくらはぎに受け、赤く腫れあがっていたのである。
あまりの痛さに、入学以来1日も欠かさず続けていた夜の素振りを、高校生活最後の試合前夜に休むこととなった。
そして4連投となる桑田も疲労困憊、宇部商の強力打線を抑える自信がなかったのである。
桑田は清原に「なんとか3点以内に抑えるから、4点以上取ってくれ」と珍しく弱気なことを言った。
「おう、わかった。そのかわり、藤井には絶対にホームランを打たれるな」と清原は桑田に頼んだ。
1985年8月21日、5万3千人の大観衆を飲み込んだ甲子園で、いよいよKKコンビにとって高校最後の試合となる決勝戦が始まった。
2回表、宇部商は早くも桑田を攻めて、犠牲フライで1点先制。
さらに三回表、宇部商は一死満塁の大チャンスを迎える。
打者は三番の二年生、センバツでは桑田からホームランを放っている田処新二。
さらに、後ろには四番の藤井が控えている。
やはり桑田の球には、いつものキレがない。
たまらず清原がマウンドに行って、桑田に声を掛けた。
「次の打席で俺が必ず打つから楽に行け」
清原の一言で気持ちを落ち着けた桑田は、渾身の外角ストレートで田処、藤井を連続三振に斬って取り、大ピンチを切り抜けた。
ここ一番での桑田は、さすがに凄い。
もし田処か藤井、どちらかにヒットが生まれていれば、宇部商の一方的なペースになっていたかも知れない。
4回裏、先頭打者の清原は桑田との約束通り、古谷の内角速球を捉えてレフト・ラッキーゾーンへ同点ソロ・ホームラン。
これで大会4号となり、藤井の記録に並んだ。
さらに5回裏、PLは内匠の中前安打で1点を加え、2-1と逆転に成功した。
しかし6回表、宇部商は一死一塁で、四番の藤井がセンターへあわやホームランかという大三塁打を放ち、同点に追い付く。
そして、先発マウンドを奪われてレフトに入っている五番の田上がセンターへ犠牲フライ、宇部商が再逆転した。
その裏、一死無走者で打席に立つのは前打席でホームランを放った清原。
清原は古谷の真ん中高めストレートを叩く。
「さあ、映ったセンターの藤井の所に飛んだ!藤井が見上げているだけだ!ホームランか、ホームランだ!恐ろしい!両手を上げた!甲子園は清原のためにあるのか!!」
高知商戦で中山裕から放った140m弾を超える、センターのバックスクリーン横に飛び込む150mの大ホームラン。
この瞬間、打球を見上げた藤井はたった1日だけの記録保持者となった。
この試合2本目、今大会5本目の大会新記録となるホームランを清原が放ったのだ。
そして、試合自体も3-3の同点となる。
試合はそのまま膠着状態に入り、3-3のまま9回裏、PL最後の攻撃を迎えた。
桑田は清原との約束通り、藤井にはホームランを打たせずに宇部商打線を3点に抑えたのである。
次は、清原が桑田との約束通り、4点目を奪う番だ。
しかし清原”自身”は、この約束を果たせなかった。
打順が回って来なかったからである。
PL打線は古谷に抑えられて、あっさり二死無走者となった。
このままいけば延長戦、桑田のスタミナが持つかどうかわからない。
控えの小林や田口では、宇部商打線は抑えられないだろう。
逆に宇部商の古谷はこの決勝戦が初先発のため余力があり、しかもエースの田上が控えている。
宇部商の玉国光男監督にとって、控え投手の古谷がPL打線を8回まで3失点というのは嬉しい誤算だっただろう。
逆に先発を外された悔しさから田上は何度もブルペンに行ってリリーフ登板をアピールしていたが、玉国監督からお呼びはかからなかったのである。
いずれにしても、延長戦になればPLは不利、なんとしても9回裏で決着をつけたかった。
ここで二番の安本政弘が執念のポテンヒットを放つ。
二死一塁で打席に立つのはキャプテンの松山。
KKコンビが一年時から甲子園で暴れまわっていた時、松山ら同級生はアルプス・スタンドから声援を贈っていた。
いや、心からの声援ではない。
KKコンビが活躍するたびに、松山は悔しい思いをしていたのだ。
PLにやって来る選手はみんな怪童。
しかし、PLに入学すると、同学年のKKコンビとの差に愕然としてしまう。
嫉妬心が抑えられなかったのは当然だろう。
だが今は、チームのまとめ役となるキャプテン、しかも清原の前を打つ三番打者である。
カウント1-2と追い込まれたが、一塁走者の安本が二盗を敢行、セーフとなって一打サヨナラの場面となる。
俺が決めてやる!そういう力みを松山から感じ取った清原は、ネクスト・バッターズ・サークルから出て声を掛けた。
「次の回に俺が打つから、気楽に打て」
3回表、一死満塁の大ピンチで桑田に掛けた言葉とほぼ同じである。
その一言で、松山から硬さが取れた。
次の球は外角低めに外れて3-2のフルカウント。
一塁が空いたからといって、古谷は松山を歩かせるわけにはいかない。
次には清原が控えているのだ。
必ず勝負して来る!そう読んだ松山は、真ん中に入ったストレートを見逃さなかった。
松山のバットから放たれた打球はライナーとなって二塁手の頭を越えて、右中間を転々とした。
二塁から安本が還って来てホームに滑り込む。
PL得意のサヨナラ勝ちで2年ぶり3度目の優勝!
一塁を回りかけたところで松山が飛び上がってガッツポーズ。
「KKコンビのPL」と言われたチームで、最後はキャプテンの松山が試合を決めたのだ。
清原は自分で試合を決めなかったものの、桑田が3点に抑えて打線が4点取るという、試合前に2人で話していた通りの試合となった。
ホームインした安本の元には真っ先に清原が駆け付け、バットを天にかざしながら歓喜の輪の中心になっている姿が印象的だった。
輪が解けると桑田と清原は抱き合って「やっと、辿り着いたな……」と言い合った。
結局、桑田と清原は一年時から5季連続の甲子園パーフェクト出場。
同じように、荒木大輔(元:ヤクルトほか)と小沢章一の早稲田実(東京)も5季連続甲子園出場を果たしたが、早実は準優勝1回、8強2回、三回戦敗退、初戦敗退が各1回という成績。
一方、KKコンビのPLは優勝2回、準優勝2回、4強1回という、まるで漫画「ドカベン」に登場する明訓高校のような戦績である。
個人成績では、桑田が戦後最高となる甲子園通算20勝、清原は史上最高の甲子園通算13本塁打という記録を打ち立てた。
もう二度と、こんなスーパー高校生が2人もいるチームは現れないだろう。
KKコンビがいたPLが「戦後最強軍団」と謳われたのも頷ける。
だが、2年後にPLは、さらに強力なチームとなって甲子園に登場するのだった。
【つづく】
①桑田真澄 三年
②今久留主成幸 三年
③清原和博 三年
④松山秀明 三年 主将
⑤笹岡伸好 三年
⑥安本政弘 三年
⑦杉本隆雄 三年
⑧内匠政博 三年
⑨黒木泰典 三年
⑩小林克也 三年
⑪井元秀人 三年
⑫本間俊匠 三年
⑬真崎秀樹 三年
⑭田口権一 三年
⑮今岡友通 二年
1985年夏